昔、上野の村をとおりかかった旅の高僧が、一軒の農家に立ちより、
「旅の者であるが、のどが大変かわいている。のどをうるおす水をいただけないか。」
といわれた。その家の人は、
「このあたりは赤水(あかみず)(鉄分を多く含み飲み水に適しない水)しか出ませんので、しばらくお待ちください。」
といい、急いできれいな水を遠くまでくみにいき、さし上げた。
高僧は大変喜ばれ、
「さぞ、日々の飲み水に困っていることでしょう。ここをためしに掘ってみなさい。」
と持っていた錫杖(しゃくじょう)でお指しになった。
近くの人々が高僧のいわれたところを掘っていくと、清水(しみず)がわきでて、その水は次から次へとあふれんばかりの量であった。
人々は、
「弘法さまのおかげだ。ありがたいことだ。」
と大変喜んだ。そして、さっそく近くの人々は「弘法講(こうぼうこう)」という仲間をつくり、井戸のまわりに屋形を建て、弘法大師の石の座像を安置した。村人はこの井戸を「弘法井戸」と称して大切に使ってきた。
伊勢街道を旅した人々も多く立ちより、この水でかわいたのどをうるおし、旅の疲れをいやしたという。
この「弘法井戸」は、上野中町にあり、昭和40年(1965)ごろまで、共同井戸として使われていた。
毎年、4月21日には、「弘法まつり」が催され、そのころまでは近くの町や村からも多く参詣者がありにぎわっていた。
屋形や井戸の保存、祭礼の経費は、3アールほどの「弘法田」という共有田で収穫された米でまかなっていたが、昭和20年代に国道23号が現在のところに設けられことによって田がなくなり、それ以後は講の方々が出しあってまかなっている。
現在では、近所の6軒で弘法大師の遺徳をしのび、講をつくり、井戸の管理・保全・まつりを継承している。
まつりの日には、赤地の布に「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と墨書(ぼくしょ)したのぼりを10本ほど立て、米、野菜などの農産物や竹の子、ふきなど季節の食べ物をお供えする。さらに、もちを二臼(うす)つき、まるい形にまるめてお供えし、残りは参詣者にくばっている。
この井戸も現在ではほとんど利用されないため、「そぶ」などの水あかがたまり、4月の祭礼と8月のお盆の前の2回、井戸のそうじをすることにしている。
(かわげの伝承から)
河芸町上野に伝わる「弘法大師」にまつわるお話でした。