永禄(えいろく)年間のことというから、400年ほど前のことである。
今の美里村(現津市美里町)、長野城主の家臣に鹿間(しかま)氏という武士がいて、好んで狩を行っていた。狩には、よい猟犬がいる。そこで、
「われに、名犬をあたえたまえ。」
と神仏に祈っていた。ところがある夜、夢枕に、
「汝(なんじ)、山に登り、犬のほえる声をしたって、その地に至るべし。かならずや名犬を得らる。」
と聞いた。
目がさめると、遠く東の方から、犬のほえる声が聞こえるではないか。そこでたずね聞いていくと、別保村影重に、ほかにくらべるものがないほどの名犬がいるという。ようやくたずねあててみると、評判通りの名犬であった。主人の許しを得てゆずってもらい、長野に連れて帰ることができた。
それ以来、数年間、その犬とともに、狩猟の毎日をすごした。
ある日、獲物も多く、鹿間氏の足どりは軽かった。その時、犬が、帰り道をじゃまするようにほえたてた。そればかりか、主人の足にかみついた。そこで、鹿間氏は、「獲物の数が一千におよぶときは、猟犬、その主人をくらう。」ということわざを思い出し、
「何をするか。」
と、一刀のもとに犬の首をはねた。
カッと目を見開いた犬の頭は、遠くの草むらまで飛んでいった。鹿間氏は、不思議に思って草むらにいってみると、大蛇が犬にくわえられもがき苦しんでいる。大蛇がいるとは知らなかった鹿間氏は、犬の首が大蛇をくわえているのにおどろき、大蛇を切り殺した。
「汝、犬ながら主人の恩を忘れず、自らの命を捨てて、わが命を救った。われおろかなり、汝の心を知らず、刀をくだしたり。」
鹿間氏は、涙を流しながら犬の首を葬(ほうむ)り、そこに犬塚を築いた。みずからは、高野山に登り仏門に入って、碑を建てて供養をおこたらなかったといわれている。
犬塚は、今も長野峠のふもとの美里村平木にある。
影重は景重とも書かれ、江戸時代初期には、上野藩領、元和5年(1619)からは、中別保村の枝郷として紀州藩に所属していた。影重には永禄年間(1558~1570)の出来事として、「影重産の名犬」の話が伝わる。
(かわげの伝承から)
河芸町影重に伝わる「犬」にまつわるお話でした。
今の美里村(現津市美里町)、長野城主の家臣に鹿間(しかま)氏という武士がいて、好んで狩を行っていた。狩には、よい猟犬がいる。そこで、
「われに、名犬をあたえたまえ。」
と神仏に祈っていた。ところがある夜、夢枕に、
「汝(なんじ)、山に登り、犬のほえる声をしたって、その地に至るべし。かならずや名犬を得らる。」
と聞いた。
目がさめると、遠く東の方から、犬のほえる声が聞こえるではないか。そこでたずね聞いていくと、別保村影重に、ほかにくらべるものがないほどの名犬がいるという。ようやくたずねあててみると、評判通りの名犬であった。主人の許しを得てゆずってもらい、長野に連れて帰ることができた。
それ以来、数年間、その犬とともに、狩猟の毎日をすごした。
ある日、獲物も多く、鹿間氏の足どりは軽かった。その時、犬が、帰り道をじゃまするようにほえたてた。そればかりか、主人の足にかみついた。そこで、鹿間氏は、「獲物の数が一千におよぶときは、猟犬、その主人をくらう。」ということわざを思い出し、
「何をするか。」
と、一刀のもとに犬の首をはねた。
カッと目を見開いた犬の頭は、遠くの草むらまで飛んでいった。鹿間氏は、不思議に思って草むらにいってみると、大蛇が犬にくわえられもがき苦しんでいる。大蛇がいるとは知らなかった鹿間氏は、犬の首が大蛇をくわえているのにおどろき、大蛇を切り殺した。
「汝、犬ながら主人の恩を忘れず、自らの命を捨てて、わが命を救った。われおろかなり、汝の心を知らず、刀をくだしたり。」
鹿間氏は、涙を流しながら犬の首を葬(ほうむ)り、そこに犬塚を築いた。みずからは、高野山に登り仏門に入って、碑を建てて供養をおこたらなかったといわれている。
犬塚は、今も長野峠のふもとの美里村平木にある。
影重は景重とも書かれ、江戸時代初期には、上野藩領、元和5年(1619)からは、中別保村の枝郷として紀州藩に所属していた。影重には永禄年間(1558~1570)の出来事として、「影重産の名犬」の話が伝わる。
(かわげの伝承から)
河芸町影重に伝わる「犬」にまつわるお話でした。