利平さんは、ふだん田畑を耕(たがや)しながら、近くの村々に相撲(すもう)ののぼりがたつと出かけていく田舎(いなか)相撲の力士である。
身長、体重ともに人なみはずれた大男であった。しかも、動きがすばやく足腰も強かったので、相撲や早駆(はやが)けは得意であった。ふだん山坂をこえて、重い荷物をかついだり、遠くの町までてんびん棒(ぼう)で荷物を運んだりしているので、体はきたえてある。
利平さんは、相撲大会がはじまる前になると、そえわそわして落ちつかず、夕方早く仕事を終わって、下之庄(しものしょう)あたりまでけいこに出かけていった。相撲は勝ち星さえあれば、いくらかの懸賞(けんしょう)金があるし、好きなお酒も賞品としていただけるので、他所の祭でもけっこう楽しいのである。
特に亀山藩では、相撲をおおいに奨励(しょうれい)しているので、その大会は盛大で三日ぐらい続いていた。今日は大会の初日が終わって、仲間と祝杯(しゅくはい)をあげながら相当酔(よ)ってしまった。
ごちそうの折詰(おりづめ)を持って夜道をぶらぶらと帰ってくると、いつも三行を過ぎるころは夜もふけている。弥尼布理(いねふり)神社の近くになると、疲れが出てくるのか安心するのか、山道の土堤(どて)にもたれてひと休みする。
するといつの間にかいい気持ちになってくる。そのうちにあたり一面花が咲き乱れ、よい香りがただよい、遠くで美しい女の人がおどっている。それにみとれていると、いつの間にか眠ってしまった。
半時(約1時間)ほど眠って目が覚めると、ごちそうの折詰がない。利平さんは、
「また久知野木の狐にばかされてしもうた。くそっ、欲しけりゃ欲しいといえ。」
というが、狐はいえるはずがない。
「今夜もまた子どもたちにやるみやげがない。」
とつぶやきながら、坂を下って帰っていった。
次の日は負けが多くて、酒肴(さけさかな)にありつけなかったが、大根やみかんを亀山まで運んだので、その駄賃(だちん)のお金が少々はいった。
今日は油揚げを買って家のみやげとし、それを包んでてんびん棒の先へ「ふご」といっしょに結び、肩にかついで帰ってきた。
久知野とのわかれ道のところで、かついでいた棒が急に重くなった。
利平さんは、今夜は酔っていなかったので、
「いたずら狐め、棒に飛びついたな。」
と思ったが、気づかないふりをして鼻唄を歌いながら、平子山のてっぺんの道まできた。
この道の眼下には広々とした新池がある。
利平さんは思い切って、
「えいーっ。」
と声をかけ、てんびん棒の荷物などを10メートルほど下の池へ放り投げた。
「ふご」にのっていた狐も、まっさかさまに池へ落ちていった。
「ジャバン!」
という大きな音がして、そのすぐ後で、
「ジョボ、ジョボ……。」
と小さい音が続いた。3月といっても初めのころはまだ水が冷たいので、少しかわいそうな気がした。
あくる朝新池へいくと、棒や荷物は岸に浮いていたが、狐の姿はみえなかった。
それからしばらくの間は、どこも相撲はなかったし、また田畑の仕事もいそがしかったので、狐のことは忘れていた。
田植えがすんで、三行の法事の帰りにいつもの道の切り通しを歩いていると、両側の山の上から、パラパラと砂や土が降ってきた。
利平さんは、頭から砂をかぶってしまった。
「こりゃかなわんなあ、狐どもの仕業(しわざ)やな。」
とつぶやきながら走って帰った。
亀山にけいこに行ったとき、仲間の花火師がいて、
「手筒花火でおどしてやんな。あげ方を教えたる。」
といい出した。
さっそく、その家へいって、点火の仕方や筒の持ち方などを教えてもらったが、けがしないようにするには、このわざはなかなかむずかしい。たびたびかよってやっと覚えたので、いつかこの花火をあげてみようと待っていた。
7月の暗い晩、今夜あたりまたいたずら狐が出そうな気がしたので、一本の手筒花火をかついで、いつもの道を歩いて帰った。
久知野とのわかれ道のところで、休んでから切りとおしの手前までくると、山の上に狐どもの動く気配がする。利平さんは今夜こそ狐どもをおどしてやろうと考えて、山の手前のところで立ち止まった。
そして教えてもららたとおり、立ち止まって筒を持ち、花火玉を入れて点火した。
花火は山上をめざして一気に吹き上げた。あたりはまったく昼のような明るさになった。
たくさんの火の粉が、強い勢いで飛び散り、それが下から吹き上げ上から降ってくるので、びっくりした狐どもは、
「ギャー、ギャー……。」
と泣き叫びながら山上を逃げまわった。
しばらくして、花火が下火になったので、筒を持ってとおっていったが、どの狐も砂をかけてくるどころか、初めてみた火の粉の恐ろしさに失神したようになってふるえていた。
その後、利平さんが油揚げや折詰を持ってとおっても、狐はこわがって近寄らずにむこうの山からみているようであった。
利平さんは、それからも、たびたびこの久知野木の道をとおるが、狐がいない山道は、とても静かでなんだか気味悪く思えてきた。
「やっぱり、狐がいない道はさみしい。」
とひとりごとをいいながらとおっては、いつもの所へ油揚げや魚などを少し置いてくることにした。
利平さんには「しゃく」という持病があって、42歳の厄年(やくどし)に急にあの世にいってしまった。
その後、狐の一族もどこかへいってしまったのか、あの口と目のとがった姿はもうみられなかった。
(かわげの伝承から)
*河芸町北黒田地区に伝わる「狐」にまつわるお話でした。
身長、体重ともに人なみはずれた大男であった。しかも、動きがすばやく足腰も強かったので、相撲や早駆(はやが)けは得意であった。ふだん山坂をこえて、重い荷物をかついだり、遠くの町までてんびん棒(ぼう)で荷物を運んだりしているので、体はきたえてある。
利平さんは、相撲大会がはじまる前になると、そえわそわして落ちつかず、夕方早く仕事を終わって、下之庄(しものしょう)あたりまでけいこに出かけていった。相撲は勝ち星さえあれば、いくらかの懸賞(けんしょう)金があるし、好きなお酒も賞品としていただけるので、他所の祭でもけっこう楽しいのである。
特に亀山藩では、相撲をおおいに奨励(しょうれい)しているので、その大会は盛大で三日ぐらい続いていた。今日は大会の初日が終わって、仲間と祝杯(しゅくはい)をあげながら相当酔(よ)ってしまった。
ごちそうの折詰(おりづめ)を持って夜道をぶらぶらと帰ってくると、いつも三行を過ぎるころは夜もふけている。弥尼布理(いねふり)神社の近くになると、疲れが出てくるのか安心するのか、山道の土堤(どて)にもたれてひと休みする。
するといつの間にかいい気持ちになってくる。そのうちにあたり一面花が咲き乱れ、よい香りがただよい、遠くで美しい女の人がおどっている。それにみとれていると、いつの間にか眠ってしまった。
半時(約1時間)ほど眠って目が覚めると、ごちそうの折詰がない。利平さんは、
「また久知野木の狐にばかされてしもうた。くそっ、欲しけりゃ欲しいといえ。」
というが、狐はいえるはずがない。
「今夜もまた子どもたちにやるみやげがない。」
とつぶやきながら、坂を下って帰っていった。
次の日は負けが多くて、酒肴(さけさかな)にありつけなかったが、大根やみかんを亀山まで運んだので、その駄賃(だちん)のお金が少々はいった。
今日は油揚げを買って家のみやげとし、それを包んでてんびん棒の先へ「ふご」といっしょに結び、肩にかついで帰ってきた。
久知野とのわかれ道のところで、かついでいた棒が急に重くなった。
利平さんは、今夜は酔っていなかったので、
「いたずら狐め、棒に飛びついたな。」
と思ったが、気づかないふりをして鼻唄を歌いながら、平子山のてっぺんの道まできた。
この道の眼下には広々とした新池がある。
利平さんは思い切って、
「えいーっ。」
と声をかけ、てんびん棒の荷物などを10メートルほど下の池へ放り投げた。
「ふご」にのっていた狐も、まっさかさまに池へ落ちていった。
「ジャバン!」
という大きな音がして、そのすぐ後で、
「ジョボ、ジョボ……。」
と小さい音が続いた。3月といっても初めのころはまだ水が冷たいので、少しかわいそうな気がした。
あくる朝新池へいくと、棒や荷物は岸に浮いていたが、狐の姿はみえなかった。
それからしばらくの間は、どこも相撲はなかったし、また田畑の仕事もいそがしかったので、狐のことは忘れていた。
田植えがすんで、三行の法事の帰りにいつもの道の切り通しを歩いていると、両側の山の上から、パラパラと砂や土が降ってきた。
利平さんは、頭から砂をかぶってしまった。
「こりゃかなわんなあ、狐どもの仕業(しわざ)やな。」
とつぶやきながら走って帰った。
亀山にけいこに行ったとき、仲間の花火師がいて、
「手筒花火でおどしてやんな。あげ方を教えたる。」
といい出した。
さっそく、その家へいって、点火の仕方や筒の持ち方などを教えてもらったが、けがしないようにするには、このわざはなかなかむずかしい。たびたびかよってやっと覚えたので、いつかこの花火をあげてみようと待っていた。
7月の暗い晩、今夜あたりまたいたずら狐が出そうな気がしたので、一本の手筒花火をかついで、いつもの道を歩いて帰った。
久知野とのわかれ道のところで、休んでから切りとおしの手前までくると、山の上に狐どもの動く気配がする。利平さんは今夜こそ狐どもをおどしてやろうと考えて、山の手前のところで立ち止まった。
そして教えてもららたとおり、立ち止まって筒を持ち、花火玉を入れて点火した。
花火は山上をめざして一気に吹き上げた。あたりはまったく昼のような明るさになった。
たくさんの火の粉が、強い勢いで飛び散り、それが下から吹き上げ上から降ってくるので、びっくりした狐どもは、
「ギャー、ギャー……。」
と泣き叫びながら山上を逃げまわった。
しばらくして、花火が下火になったので、筒を持ってとおっていったが、どの狐も砂をかけてくるどころか、初めてみた火の粉の恐ろしさに失神したようになってふるえていた。
その後、利平さんが油揚げや折詰を持ってとおっても、狐はこわがって近寄らずにむこうの山からみているようであった。
利平さんは、それからも、たびたびこの久知野木の道をとおるが、狐がいない山道は、とても静かでなんだか気味悪く思えてきた。
「やっぱり、狐がいない道はさみしい。」
とひとりごとをいいながらとおっては、いつもの所へ油揚げや魚などを少し置いてくることにした。
利平さんには「しゃく」という持病があって、42歳の厄年(やくどし)に急にあの世にいってしまった。
その後、狐の一族もどこかへいってしまったのか、あの口と目のとがった姿はもうみられなかった。
(かわげの伝承から)
*河芸町北黒田地区に伝わる「狐」にまつわるお話でした。