朝陽(あさひ)~三重・河芸の地域情報~

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河芸・歴史のあらまし~古墳時代~

2009-03-19 10:37:06 | 河芸の歴史
約1600年前になると古墳時代になり、近畿地方を中心として各地に古墳が造られるようになります。

なかでも大和や河内には有力支配者の巨大な古墳が造営されました。

町内には有力支配者がいなかったせいか、大型の前方後円墳は無く、小型の円墳が千里ヶ丘、久知野、三行の丘陵地に存在していますが、数も多くありませんし、その後の開発などによって消滅し、現在は三行に1基残っているだけです。

考古資料として特記することは、古墳時代の末期ごろから須恵器の生産が、久知野、三行から隣接する鈴鹿市徳居にかけての地域で盛んに行われ、県下でも有数の須恵器生産地で、多くの古窯跡があります。

道路建設などで破壊消滅したものもありますが、三行地区には現在も数ヵ所の古窯跡があり、須恵器の生産は平安時代のころまで続いていたようです。

(まちの文化財から)


時代は下り古墳時代では、その名のとおり古墳が築かれた時代です。河芸町では30基ほどの古墳が確認されており、出土した古墳の中には、陶棺や方陶状土製品などの特殊な土製品も発見されています。

古墳時代中ごろになると、須恵器という青灰色で硬質の土器がつくられ始めます。素焼きで軟質の土師器と違い、須恵器は窯を使って焼き締めるため、薄くてかたい土器に仕上がります。この当時の人々の暮らしを考えると、全く新しい画期的な土器であったことでしょう。

三行地区の七ヶ谷にはこの須恵器を焼いた窯跡が現在でも残っており、須恵器片や窯壁、灰捨場などが発見されています。また、七ヶ谷に接する西尾谷からは奈良時代につくられたと考えられる甕棺(かめかん)が発掘されており、この辺りの地域は三重県下でも有数の須恵器の大産地であったことがうかがえます。

(河芸町制施行50周年記念誌から)


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