朝陽(あさひ)~三重・河芸の地域情報~

三重県津市河芸町のいろいろな情報を発信します。

河芸・地区のあらまし~上野地区~

2009-03-18 11:53:01 | 河芸の歴史

(写真は、上野城跡につくられた本城山青少年公園の展望台です。)

上野地区は、上野、東千里、久知野、中瀬、大蔵園、新上野、東上野の各地区を含む地域です。

上野地区は西方から続く丘陵の東端の台地で周辺は低湿地帯の水田です。東は海に臨み居住に適した所で、すでに弥生時代には人々の暮らしが営まれ、台地中央には八幡谷弥生遺跡があり弥生式土器の出土記録があります。その後定着する人の数も増え、鎌倉時代には「上野御厨(みくりや)」の名が神鳳抄(しんぽうしょう)に見られ、すでにこのころは神宮の御厨でした。室町時代には上野城が築かれ分部家が入り着々と城下町は整備されて、分部家の移封後も徳川幕府により伊勢街道の宿場町として発展を続け、常に当地方の中心集落でした。現在も伊勢街道沿いには多くの文化財が残されています。

大蔵園地区は地籍上は上野地区に含まれ、上野の集落の東方近鉄線路の東側にあります。昔は畑地でしたが、近年になって小住宅団地として開発されたところです。

新上野地区は上野の集落の西北方に位置し、旧地名鐘鋳場、石塔谷という場所があり、室町期には神社、寺がありましたが、今は小規模な新上野団地になっています。鐘鋳場からは時代不詳の骨壷が出土した記録があり、石塔谷はその地名から墓場であったのでしょう。

東上野地区は上野地区の海岸寄りにあり、小字名を芦原と称し低湿地帯であって昭和60年(1985)から小規模住宅団地として開発された所です。

東千里地区は河芸町の北端の低地にあり伊勢湾に臨む地域です。このあたり一帯は近世まで湿地帯や浅い海であり、従って歴史時代以前の遺跡は存在しません。東千里の集落が形成されたのは鎌倉時代以降でしょう。もとは西方の西千里に含まれ円応寺村であったのが中世に分離独立して大別保村(現在東千里)となりました。集落の中心を伊勢街道が通っています。

中瀬地区は、町の西南端にある小集落で、伊勢街道が通るようになり発達した場所で、地名からも中瀬は中州に通じることから比較的近世まで湿地もしくは浅い海底であったのでしょう。従って古い遺跡や社寺はありません。

(まちの文化財から)


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