和子の記録 フォト&俳句

長い間ネイチャーフォトを楽しんで来ましたが最近これに俳句の趣味が加わりました。まだ不慣れですがブログに載せていきます。

埼玉県桶川市の紅花まつり

2024-07-01 05:01:54 | 日記

染料として使う紅花は早朝まだつゆを含んでいる頃黄色い花をつむ

枯れると赤が濃くなる





摘み取った枝を包んでもらうところ

摘み取りの畑 遠くの方に咲いていました

紅花を見に行きたいと色々調べていたらなんと埼玉県桶川市でも紅花を咲かせていることが解り、6月15日と16日が紅花まつりがあるとのことで
早速行って来ました。桶川の駅からは紅花会場へはシャトルバスが出ていて紅花の花は3か所で見せていて花のことなど詳しく説明してくれました。。
摘みとり体験もあり1枝が¥50で4本買ってきました。また学習センターでは「紅花の守り人」という映画も上映されていて紅花の歴史を学ぶことが
出来て良かったです。
桶川のべに花は、天明・寛政年間(1781~1801年)に、江戸商人が山形の「最上紅花」の種子をもたらしたことから生産が始まったと言われている
そうです。 最上地方に比べて温暖な桶川では、ひと月早い6月に収穫されました。 そのため、早場(はやば)ものとして高値で取引されました。
幕末になると桶川のベニバナ生産は最上に次いで全国2位の生産量を誇るようになりました。
当時の取引価格はお米の倍にも達し、最上紅花よりも高値で取引されたこともあったそうです。

しかし明治期に入ると化学染料の導入でベニバナの生産は衰退していき、まちの至る所にあったベニバナ畑も次第に数を減らしていきました。。

昭和から平成にかけて、桶川の歴史に興味を持った市民たちの中に再びベニバナの魅力に見せられた方々がいました。
彼らが栽培し始めたベニバナ畑はやがて人々の目にも止まるようになり、平成8年には市をあげて「第1回べに花まつり」が開催され、「ベニバナのまち」は
復活を果たし今回が27回目の紅花まつりとなっています。

【植物を利用して赤く染める】 
紅花が染色材料としてシルクロードから高句麗を経由し、日本に伝来したのは推古朝の時代。 (『日本書紀』推古紀 六世紀終わりから七世紀初め)。
藍に先んじて伝わりましたが、染料としては藍と並ぶ最も大切なものです。(西の藍、東の紅花)
紅色は、紫と共に万葉人が憧れ魅了された高貴な色でした。丹と同じく虫除けや防腐効果があり、原産地のエジプトでは、ミイラを包む布をこの紅花から取り出した
色素で赤く染めています。
紅花の持つ黄色い色素(サフロールイエロー)を除いたのち、灰汁で何度も洗い赤い色素(カルサミン)を定着させます。布から鮮やかな紅色が浮かび上がってくる時
万葉人の喜びはいかばかりだったでしょう。
またこの紅花から抽出した赤は、武運を鼓舞し戦国武将の晴れ姿を飾る色でした。今も春日大社には、源義家所用の大鎧が保存されていて、平安後期のものとは思え
ないほどの鮮やかな色が残ります。

万葉の紅花の歌
「紅」の歌~くれなゐは美しくもはかなくあでやかな色。ある時はあこがれや賛美の対象であり、同時にそのうつろいやすさから、諦めや嘆きを浮き上がらせる色でも
ありました。くれなゐの美しさとともに、その裏にある人のこころの儚さ、頼りなさを歌った歌が多いそうです。

黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳裾引き行くは誰が妻       柿本人麻呂歌集 巻9-1672
(紀州、黒牛潟の潮が引いた。紅の裳裾を引いてゆるやかに足を進めるのは誰の妻だろうか。)
紅はうつろふものぞ橡のなれにし来ぬになほしかめやも   大伴家持  巻18-4109
言ふ言の畏き国ぞ紅の色にな出でそ思ひ死ぬとも      大伴坂上郎女  巻4-0683


紅の花朝露含み摘まれけり