古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─ 其の一

2020年11月26日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻一の8番歌は、額田王の熟田津(にきたつ)の船出の歌としてよく知られている。

 後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇、後即位後岡本宮
  額田王歌
 𤎼田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
  右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸于伊豫湯宮。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。庚戌、御船、泊于伊豫𤎼田津石湯行宮。天皇、御覽昔日猶存之物。當時忽起感愛之情。所以因製歌詠之哀傷也。即此歌者天皇御製焉。但、額田王歌者別有四首

 後岡本宮(のちのをかもとのみや)に天の下知らしめしし天皇の代天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)、後に後岡本宮に即位(あまつひつぎしらしめ)す
  額田王(ぬかたのおほきみ)の歌
 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)
  右、山上憶良大夫の類聚歌林を検(かむが)ふるに曰はく、飛鳥岡本宮(あすかのをかもとのみや)に天の下知らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉の十二月己巳の朔の壬午、天皇太后(おほきさき)、伊予の湯の宮に幸(いでま)す。後岡本宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔の壬寅、御船(みふね)西征して始めて海路に就(つ)く。庚戌、御船、伊予の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。天皇、昔日(むかし)より猶(な)ほし存(のこ)れる物を御覧(みそこなは)し、当時忽(すなはち)感愛の情を起す。所以(そゑ)に歌詠を製(つく)りて哀傷したまふといへり。すなはちこの歌は天皇の御製(おほみうた)そ。ただし、額田王の歌は別に四首あり。

 〔大意〕熟田津に船に乗って出発しようと月を待っていると、月も出、潮もちょうどよいぐあいになった。さあ漕ぎ出よう。(古典大系本万葉集14~15頁、漢字の旧字体は改めた。)

 この歌が歌われたのは、中大兄の三山歌が歌われたのち、朝鮮半島へ向けて九州の拠点に赴く途中のことである。百済の将軍からの使いによると、新羅と唐とに挟撃されて壊滅状態なので、援軍が求められ、また、人質として倭国に滞在中の王子、豊璋(ほうしょう)を国主に立てたいとの意向であった。斉明天皇は要請を受け入れ、自ら新羅討伐の軍を率いてまず九州へと進撃する。ところが天皇は筑紫にて客死し、さらに2年後の天智2年(663) 8月末、白村江の海戦で大敗を喫することになる。梶川2009.に、次のようにある。

 熟田津は伊予国温泉郡、現在の愛媛県松松山市に存在した港であったと考えられる。しかし、その正確な位置は不明である。古来、多くの候補地が挙げられて来たが、近年では、松山市内の南部、来住町で発見された石湯行宮の跡ではないかとされる七世紀の遺構との関係が注目される。松山市古三津とする説が有力だったが、松山市南西部の重信(しげのぶ)川河口とする説も浮上して来た。
 ニキタツという地名は、ニキ・タ・ツと分析することができる。ツが港の意であることは言うまでもないが、ニキはアラ(荒) に対する語。穏やかな、という意味にほかならない。そうした形状言のニキに続くタは、名詞であろう。そこで、『万葉集』から語中にあるタの用例を求めると、田の意と見るのがもっとも穏当である。「熟」という字は、物事が十分な状態になることをも意味するが、ニキタツとは、まさにその表記の通り、理想的な田のような港の意であると見ることができる。すなわち、熟田津はラグーン(潟湖)と呼ばれる、干潟のできる港であったと考えられるのだ。人麻呂の歌には石見国「和多津(にきたつ)」(巻二・一三一)が詠まれているが、それは「大津」などと同様、普通名詞的な地名だったということであろう。
 ラグーンとは、砂嘴などによって海の一部が外海と隔てられ湖沼のことで、八郎潟や浜名湖などがよく知られている。そこは外海からの風波を避けることができ、手頃な水深を持っていて、水底は砂や泥によって構成されているので、船が出入りする際に破損することがほとんどなかったと言う。さらに、干潟とは違って、比較的近いところによく乾いた砂堆のあるラグーンは、船底が平らな古代の船が、潮の満ち干を利用して、着岸と上下船をたやすく行なうことができたと考えられている。熱田津も、そうした天然の良港であったと見ることができる。(91~92頁)(注1)
古図にみる潟湖(松浦武四郎・東西蝦夷山川地理取調図、折本・折仕立、万延元年(1860)、東博展示品)
 古代の船の様子は、埴輪や、少し時代の下った絵巻物などの資料、文献としては円仁の入唐求法巡礼行記から、充分とはいえないものの窺い知ることができる。技術的な進歩により、一本の太い木を刳り抜いた丸木舟から何本もの用材を使った構造船、紀に書かれるところの「同船(もろきふね)」、つまり、諸木船(もろきふね)へと発展していった。今日では、遣唐使船も復元されている。石井1983.に次のように解説される。

 遣唐使船の航路には、前期に使われた北路と第七時(七〇二年)以後に主用された南路とがあったとされている。北路は、北九州から朝鮮に渡り、以後は朝鮮西海岸沿いに北上して山東半島の北岸にたどり着くという、地乗り航法に徹したもので、朝鮮海峡と渤海海峡(または黄海の一部)横断を除けば、『魏志』倭人伝にいう「水行」で安全なコースである。これは前述した、五世紀に倭の五王が中国南朝へ遣使したコースと同じであり、また遣隋使船のコースでもあって、航海経験者も多かったに違いない。
 地乗り航法であれば、夜間の碇泊や食料・薪・水の補給が随時できるうえに、荒天時の待避も容易なので、船はさして大型の必要はなく、むしろ喫水の浅い方が便利なため、航洋性などはあまり要求されなかったと思う。となると、北路では、当時内航船として主用されていた準構造船でも間に合ったし、またこの方が、頻繁な接岸や荒天時の待避にも適していたから、弥生時代の大陸交通以来、ずっと使われていたと思われる。大きさは排水量で三〇トン前後、長さ三〇メートル程度、幅三メートル前後の大型準構造船で充分と想像され、推進の主力は櫂(または櫓)三〇~四〇挺で、帆は順風時だけの補助的役割以上のものではなかったとみられよう。(19・21頁)

 さらに、東シナ海という外海を航路とする、いわゆる南路のための後期遣唐使船は、これとは少し違って構造船であったとする。円仁の入唐求法巡礼行記から見て、「中国海岸で擱座した円仁便乗の第一船は、「船はついに傾き覆りて……久しからざる頃、船また覆り、人は随(したが)って右に遷(うつ)る。覆るに随って処を遷すこと、稍もすれば数度に及ぶ」[(巻一・承和五年七月二日)]というありさまであり、これこそ竜骨を中心に、左右にぐらつくV型船底の特徴を示すものであって、平底の船で起こる現象ではないのである。」(同26頁)と指摘する。ただし、熟田津の歌が歌われた時の船は、朝鮮半島へ地乗り航海するための準構造船であり、船底は平たかったと推定される。
左:埴輪の船(西都原古墳出土、5世紀、東博展示品)、右:復元された準構造船(兵庫県立考古博物館、同スタッフブログhttp://koukohaku.blogspot.com/2015/12/1213.html)(注2)
 歌は、そんな船がいま漕ぎ出そうとするときに歌われたと考えられている。西方へ向けて船団が再出発するときの歌、船出を鼓舞して士気を高め、航海の無事を祈った呪術的な歌と解されることが多い。ただ、月と潮の解釈をめぐっては、新大系文庫本に、「この歌は額田王の代表作として有名だが、解釈は難しい。「月待つ」とは、月の出を待つのか、満月になるのを待つのか。「潮もかなひぬ」とは、潮位が高くなって船出に具合が良くなるのか、または航行に都合のよい潮の流れになったのか。詠われている状況が把握しにくい。」(61頁)と簡潔にまとめている。現在のところ優勢な説では、夜の船出が想定され、月が出て明るく、しかも満潮であって、万事順風満帆の意味に解されている。
 また、5句目の「今は漕ぎ出でな」のナは、自分の行為については希望や意思を表し、自分たちの行為については勧誘を表わす助詞である。力強く歌い切っている。左注の人のように、斉明天皇の作った歌であると錯覚されるほど、額田王は天皇の代詠を見事に果たしたといわれている。なお、左注の初めに見える舒明天皇の伊予行幸の年次には誤りがあると指摘されている。
 現在の学説では、4句目の「潮もかなひぬ」とある助詞のモについて、並立の意味として月も潮もかなったという意味にとっている。古橋1994.は、「……「月待てば潮もかなひぬ」は現代語に置き換えるとわかりにくいが、…… 月待てば 月もかなひぬ/潮待てば 潮もかなひぬ という繰り返し表現の変形とみれば、内容がよく理解できる。したがって、短歌もこの[口誦の古い歌謡に見られる]繰り返し表現法を踏まえていると考えていい。もちろん、月と潮の干満は関係しているからこのような表現がある。」(48頁)と発展的に捉えている。現代語に置き換えるとわかりにくいからと、テキストに手を入れている。そのような立場に筆者は立たない。
 潮汐や海流の見地からの検討としては、松山付近月の出や月の入りから3~4時間ほどで満潮になる。また、潮流は満潮、干潮よりも1~2時間早く、北東流最盛時刻、南西流最盛時刻を迎えるとされている。そこで、満月の頃の深夜の船出がふさわしいとする説がある。阿蘇2006.の整理に、「月の出と満潮の時刻の差のなるべく近い日ということで、三月十九日の深夜と考えた。……*参考 松山港の月の出と満潮の時刻(昭和五十六年の松山港)。/三月十七日 月の出、午後八時二十六分。 満潮、午後十時三十九分。/三月十八日 月の出、午後九時二十分。 満潮、午後十一時十一分。/三月十九日 月の出、午後十時十四分。 満潮、午後十一時四十八分。」(68~69頁)とある。タイミング的にぴったりする時点の可能性は、雲に隠れていた月が出てきたという以外にない。それを「月待てば」と歌うとは考えにくい。筆者は、タイミングもベストの時を探求する立場に立つ。
 「かなふ」という語は、古典基礎語辞典の「解説」に、「カネ(予ね)アフ(合ふ)の約。カネは、先のことを予期する意の動詞カヌ(予ね)の連用形。他動詞カナフは下一段活用。前もって願ったり期待したり予期したりしたことが現実とうまく合うこと。」(356頁、この項、須山名保子。)とする。上代における他の用例としては、「此の鳥の来たること、自づから祥(よ)き夢に叶へり」(神武前紀戊午年六月)、他動詞の例としては、「然れども、上(かみ)和(やはら)ぎ、下(しも)睦びて事を論ひて諧(かな)ふるときは、事理(こと)自づからに通ふ。」(推古紀十二年四月)とある。願いと現実といった2つの事柄が合致するときに用いられるが、方向性としてうまくいく場合に用いられており、凶兆にカナフとは言わない。身崎1998.に、「……こうした[主体的・意欲的な表現]志向は、この四句めの「潮もかなひぬ・・・・」という語の選択によっても実現されているのではないだろうか。この語が「潮(位・流)」のあるべき(出航にふさわしい)状態に対する主体がわの期待・希求の感情にうらうちされた語としてえらばれていることは、「かなふ」の語義・用例にてらしてもあきらかだし、かりにここを、 潮もかはり・・・ぬ/とか、あるいは、/潮もみちき・・・ぬ/などのように「潮」の状態に密着した表現にしてみたばあいとくらべてみても、それはうべなわれるところなのではないだろうか。」(282~283頁)とある。
 すなわち、「月待てば 月もかなひぬ 潮待てば 潮もかなひぬ」といった冗漫な表現に、カナフという言葉は適さないのである。月の出を待っていれば、前日よりも30分ほど遅れて月は必ず出てくるからである。次に、「潮もかなひぬ」の「潮」の意を検討するには、古典基礎語辞典に鋭い解説による必要がある。

しほ シオ【潮・汐・塩】名
解説 シホには、①満ち干する海水、②食塩、という二つの意味である。上代における①と②の表記は、『日本書紀』では。①を「潮」、②を「塩」と書き分けている(海路の神と考えられるシホツチノヲヂを「塩土老翁」「塩筒老翁」と表記する例のみが例外)。『古事記』や祝詞では、「潮」の字は一切用いず、①も②も「塩」と表記する。『万葉集』では、①を「潮」と表記する例と、「塩」と表記する例とがある。ただし、②を「潮」と表記することはない。
なお、シホという語形をもつ語には、①②のほかに布を染料にひたす回数、という意味のシホ(入)がある。潮の満ち干によって、海浜や岩礁などが海中に没したり、姿を現わしたりを繰り返す。この現象は布が染料に浸されたり、染料から出されたりの繰り返しとよく似ていることから連想して、この意が生じた可能性がある。そうであれば、染色関係のシホ(入)も潮・塩と語源が同じということになる。
語釈 ①主に「潮」「汐」と書く。「満ち干する」というのがシホ(潮)の最も重要な属性。これに対し、ウシホ(潮)は海水・潮流を指す。……(604頁、この項、北川和秀。)

 布を染料に浸す回数のシホ(入)という語との関係の指摘は見事である。上がったり下がったりがシホという語の源流にあると考えられる。そして、染色には、色落ちを防ぐために salt を用いることがある。日本列島に住む人々にとってシホ(塩)は、大潮の際に潮が満ちてきたときのみ海水がかかるような潮だまりが、岩窟のような雨のかからない所にあり、結晶化しているのを発見したことによる言葉ではないか。
 「潮」の意味としては、上代に見られる例では、①満ち干する海水、また、海水が満ちることと干ること、②潮流、③海水、の意味が考えられている。筆者は、この②潮流、の用例に疑問を抱く。万葉集に、単語として、①満ち干する海水のことは、「満」を伴うケースが25例(万40・121・388・617・919・1144・1165・1216・1394・1669・2734・3159・3243(2)・3366・3549・3610・3627・3642・3706・3891・3985・3993・4045・4211)、「干」を伴うケースが13例(万271・360・388・917・1064・1163・1164・1386・1671・3710・3852・3891・4034)ある。そのほかの例としては、万8番歌以外に次のような歌がある。

 時つ風 吹かまく知らに 阿胡(あご)の海の 朝明(あさけ)の潮に 玉藻刈りてな(万1157)
 潮早み 磯廻(いそみ)に居れば 入潮(いさり)する 海人とや見らむ 旅行くわれを(万1234)
 安治可麻(あぢかま)の 可家(かけ)の水門(みなと)に 入る潮の こてたずくもか 入りて寝まくも(万3553)
 潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ来にけり(万3594)
 ……大船に 真楫(まかぢ)繁(しじ)貫き 韓国(からくに)に 渡り行かむと 直向かふ 敏馬(みぬめ)をさして 潮待ちて 水脈(みを)びき行けば 沖辺には …… 暁(あかとき)の 潮満ち来れば 葦辺には 鶴鳴き渡る ……(万3627)

 万1157番歌は干潮、万3553番歌は満潮の意ととれる。万3627番歌の場合、後者は「満」を伴っている。前者は一般に潮流の意とされるが、歌一首に用いられる「潮」の語に2義あると歌を聞く者に混乱を与える。他の万1234・3594番歌も潮流の意と説かれている。これら3例は、すべて船出に関連して詠まれたものである。

 安胡の浦に 船乗りすらむ 少女らが 赤裳の裾に 潮満つらむか(万3610)
 譬へば、物を船に積みて潮を待つ者の如し。(安康紀元年二月)

 上2例から、船出と「潮」とは、①満ち干する海水のこと、と考えることができる。船は、ラグーン(潟)の縁など若干傾斜のある砂浜のようなところに陸揚げされて停泊されており、潮が満ちて来るのを待って海に浮かぶことになる。今日でも、小型ボートを砂浜にあげることはしばしば見られる。すなわち、船は、多くの場合、岸壁につながれて舫っていたのではなく、浅いところに船底を乗りあげて泊まっているのがふつうだった。万3594番歌の「潮待つと」、万3627番歌の「潮待ちて」も、潮が満ちて来るのを待っているものと捉えることができる。万3594番歌の「潮待」ちは、大潮まで待たなければ船が浮かばないことから、もう少し長く彼女のもとにいられたのに、と悔しがった歌であろう。万3627番歌の前者は、潮が満ちて船が浮かんで船出して、その後に、暗礁にぶつからないように水先案内に従っていって沖に出るとその沖には、という流れになっていると解される。
 万1234番歌は、潮流が速いので、船を出航させないで、磯の曲がって入り込んだところに一人ポツンと佇んでいると、旅路にある私のことを、漁をする海人ではないかと見られるのではなかろうか、と解されている。しかし、船の停泊形態が、傾きのある浜辺に乗り上げるものであるならば、満潮時に船出をしようとしていたのに準備が遅れ、潮の引いていくのが早くて出航のチャンスを逸したと捉えることができる。それにより、「居れば」という語が生きてくる。「居り」は、「上代では、自分の動作についていい、へりくだった意味合いが含まれている。」(古典基礎語辞典1369頁、この項、石井千鶴子。)のである。自分の責任で海の旅路から置いてきぼりを食らったことについて、自虐的な表現が試みられている。
 潮の複合語についても見ても、潮の干満の意味で用いられていることがわかる。「朝潮満」(万4396)は朝の満潮のこと、「夕潮」(万1520・1780・2831・4331・4360・4398)は夕方満ちてくる潮のことである。「浦潮」(万3707)は「満ちく」と続いており、また、「潮干」(万229・293・533・536・918・941・958・976・1030・1154・1160・1672・1726・2486・3503・3595・3849・1062)は干潮の状態のことである。「潮騒」(万42・388・2731・3710)は磯辺の波が立ち騒ぐことで、潮の干満によって起こっている。「鳴門の渦潮」(万3638)の潮は、瀬戸内海全体への潮の干満によって生ずるもので、大きな渦が見られる回数は日に2回である。
 「潮船」(志富夫祢(万4368)・志保不尼(万4389))、ならびに、枕詞とされる「潮船の」(斯抱布祢乃(万3450)・思保夫祢能(万3556))については、川船ではなく海の船のことを指しているとされる。

 久慈川は 幸(さけ)くあり待て 潮船に 真楫(まかぢ)繁(しじ)貫き 吾(わ)は帰り来む(万4368)
 潮船の 舳(へ)越そ白波 にはしくも 負(おふ)せ給ほか 思はへなくに(万4389)
 乎久佐壮士(をくさを)と 乎具佐助男(をぐさずけを)と 潮船の 並べて見れば 乎具佐勝ちめり(万3450)
 潮船の 置かれて愛(かな)し さ寝つれば 人言(ひとごと)しげし 汝(な)を何(ど)かも為(し)む(万3556)

 枕詞とされる例から、並べたり、置かれたりするのが「潮船」であると読み取れる。特に、万3556番歌は、スロープ状の浜辺に引き揚げられて置かれている状態を一人寝に譬えており、かといって共寝をすれば噂になるからという対比の表現に用いられている。岸壁に係留されているのでは、横たわって寝ている譬えにならない。また、万3450番歌は、二人の男を並べて丸裸にし、身体検査をしているのだから、船体全部が見えなければならない。船腹が水面下にあっては検査できない。やはり陸揚げされていると考えるべきである。さらに、万4389番歌では、思ってもみない突然の命令を、「潮船の 舳越そ白波」に譬え、白波が船の舳先を越えるはずがないのに越えるという表現であるとされている。けれども、海を行く船の舳先を越える波は、少し時化(しけ)ればすぐ起こる。比喩表現として理解できないことになる。そうではなく、「潮船」はやはり、海浜に引き揚げられた船のことを表していると考えるべきであろう。きちんと浜に引き揚げておいたのに、俄かに白波が押し寄せ、一気に舳を越えるまでになったと言いたいのである。
 万4368番の防人歌は、滑稽味を帯びて歌った歌ではないか。久慈川を航行するのは小さな川船である。渡しの戕牁(かし)に繋ぎとめておく。櫓漕ぎか棹使いで進めたと思われる。オールが両側についた大きな海の船など、すぐに船底を擦ってしまって役に立たない。作者の「久慈郡の丸子部佐壮(まるこべのすけを)」という人は、防人に徴兵されて出征時に歌っている。久慈川の渡し船に乗る時が、家族や村人との別れの時であったろう。ちっぽけな川船との対比で、難波津から防人へ行くときの海船を持ち出し、自分がこれから赴く大きな任務を無事終えて帰って来るよと表現したのであろう。
天竜川の渡し船(西行物語絵巻、遠鉄グループ『遠州鉄道創立50周年記念誌』「第2章 代表的な東西の道」https://www.entetsu.co.jp/company/history/dat/kinenshi50th_part3.pdf(11/25))
 以上から、「潮船」の潮についても、潮流のことではなく、干満の潮のことであると定められた。「潮」という語に、②潮流、という可能性が排除された。とはいえ、船が出港する際に、風や波を気にしていた記事は残されている。

 時に、磐金(いはかね)等、共に津に会(つど)ひて発船(ふなだち)せむとして風波(かぜなみ)を候(さぶら)ふ。(推古紀三十一年(623)是歳)
 五日、風南東に変りて発(た)つこと得ず。三更に到りて、西北の風を得て発つ。(円仁・入唐求法巡礼行記・承和十四年(847)九月五日)
 八日、……風无くして発つこと得ず。船の衆(ひとびと)、鏡等を捨て神を祭りて風を求む。(同、九月八日)

 後2者は、後期遣唐使船で、帆に適度な追い風を受けることを狙っていた。山東半島の先端の赤山から大海を渡ろうとしている。しかし、前者は、遣隋使時代である。「将発船以候風波。」とあるのだから、船出しようとして風波が収まるのを見守っていたのである。帆に風を受けようとしたためではない。入唐求法巡礼行記の同年五月五日条に、「船に上りて風を候ふ。」、五月十四日条に、「黄昏に海州界の東海山の田湾浦に到り、船を泊し風を候ふ。」とあるのも、五月二十四日条に、「逆風・猛浪に縁りて、淮路に入ること獲ず。」、六月一日条に、「風波、稍く静まり、趁潮に漸く淮に入る。」とあることから考えて、強風が静まるのを待っていたと解される。時代別国語大辞典に、「さもらふ【候・侍】(動四)」は、「②時の至るのを待つ、風浪の和ぎ静まるのをうかがい待つ場合に用いることが多い。」(341頁)と説かれている。万葉集にわかりやすい例をあげる。

 風吹けば 浪か立たむと 伺候(さもらひ)に 都太(つだ)の細江に 浦隠り居り(万945)
 大海を 候(さもら)ふ水門(みなと) 事し有らば 何方(いづへ)ゆ君が 吾(わ)を率(ゐ)凌がむ(万1308)
 天の川 いと河浪は 立たねども 伺候(さもら)ひ難し 近きこの瀬を(万1524)
 …… 蘆が散る 難波に来居て 夕潮に 船を浮け据ゑ 朝凪に 舳向け漕がむと さもらふと わが居る時に ……(万4398)

 特に、万4398番歌は、船の航行の手順をよく示している。潮が満ちて船は海に浮かび、傾きがなくなって船として安定し、しかるのち舳先を行く方向へ向け直して、楫、櫂、艪を漕いで進んだのである。そうしたいのであるが、風波が穏やかにならないとできない。出航の際は水深が浅く、ちょっとした岩礁でもぶつかる危険性が高く、船体に損傷が起きかねないからである。航行において用心しなければならないのは、水深の深い沖合ではなく、水深の浅い個所である。船体が無事なら漂流しても助かることがあるが、損傷を受けたらひとたまりもない。当時は、まず出港し、その後で風や潮流をみて対応するという、出たとこ勝負的な航海術が行われていた。円仁の入唐求法巡礼行記に記されている。
 この考えは、石井1983.の和船の研究に依拠している。万葉集の研究者が想定する夜の船出とは一線を画すものである。
 直木1985.に、「……当然のことながら、航海に風がどんなに大切かが知られる。ただし外洋へ乗り出す場合と内海を行く場合とでは、風向の持つ意味が違うだろうが、何といっても帆船の航海は風次第である。船人は夜を恐れてはおられないのである。」(109頁)とある。それに対し、吉井1990.は、「月よみの 光を清み 神島の 磯廻(いそま)の浦ゆ 船出そわれは」(万3599)について、「遣新羅使船は、玉の浦……より神島に至り、さらに、その夜、神島より鞆に向って夜の船出をするのであるが、その船出の第一の理由は鞆において適切な潮流を待つことであった。第二は備後灘および燧(ひうち)灘が、友ヶ島水道、豊後水道の東西の両水道からの潮流が相合し、また東西に分流する分水線となっていて……船はこの分水線を適当な時間に通過する必要があり、当日は神島に午後二時すぎには到着していて、潮流を待つために少しでも船を進めておくのは好条件であったことである。第三には、鞆より尾道瀬戸、布刈(めかり)瀬戸のいずれかを経ての長井津……までの約三〇キロメートルの航路は、いずれの潮流も速く複雑な狭い瀬戸を通過しなければならない危険なものであり、神島からの夜の船出は、この危険な夜の航路につづくものではありえず、この危険な航路により好条件で出航するために行なわれた約十キロメートルの夜の船旅であったことである。……「夜の船出」はやはり通常の場合ではなく、「風向きさよければ、船人は夜を恐れずに船出するのである。」というのは、潮流のきわめて複雑な瀬戸内海においては、きわめて危険なことであったのである。」(114~128頁)と反論する。また、益田2006.に、「楫による手漕ぎは、あくまでも港の出入りに狭い「水脈」を通る時や、風が凪いだ時の補助手段で、主体は帆走でありました。……三津浜から興居(ごご)島までは、冬季でも、日中ではなく夜間なら東風が吹いていることが多い。その陸風の力を借りて、興居島まで夜の間に乗り切っておかねばならないことが、『万葉』の夜の船出の根本理由でした。」(552~566頁)との意見もある。
 しかし、現在でも、大型船が出港する際、タグボートの力を借りるなど苦労している。船が海上を進むことと、船が港から出ることとは、異質の作業と考えられる。また、石井1983.の、前期遣唐使船の北路を通った「地乗り航法」、「大型準構造船」、「推進の主力は櫂(または櫓)」、「帆は順風時だけの補助的役割」の解説も重視しなければならない。そして、その準構造船の停泊形態について、きちんとした理解が求められる。

[法然上人絵伝]第三四巻、法然が四国へ流されるとき摂津経の島(兵庫)に足をとめて説法した。これは経の島の港のさまを描いたものである。ここでは船を主としてとりあけたが、当時の港は沖に防波堤があるわけでもなければ、岸に岸壁やガンギ(石段)があるわけでもなく、砂浜へそのまま船を艪づけにしたのである。兵庫が港として発達したのは平清盛が、ここに経の島をつくって、これを波よけにし、その島かげを船着場として利用してからのことである。この港にはそれから大型の宋船もはいって来るようになった。宋船はいわゆるジャンク型のものであったと思われる。造船技術は日本よりずっと進んていて堅牢で吃水もふかかった。高倉院が厳島へ参詣したときには宋船に乗っていった。船が大きくて渚につけることができないから、沖に停泊して、はしけで船と陸の間を往来したという。したがって大型の船が発達して来ると、海岸が砂浜や遠浅のところよりも、入江になって海の深いところの方がよくなって来るわけだが、兵庫経の島の港は砂浜をそのまま利用した昔のままのものであった。しかし港の町はかなりととのっていたもののようで[ある。]……渚のところにとまっている船は苫で屋根を葺いている。あまり高級でない客船のようである。客を乗せて四国路や中国路の港へ向かうものであろうと思われる。船の側面には釘穴のならんでいるのも見えるから丸木造りではなくて[準]構造船と考えられる。当時としてはかなり造船技術の進んでいる船であった。(澁澤1984.54~55頁)
摂津経の島の港(法然上人絵伝第34巻模、江戸時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009651をトリミング)
 湖沼や河川と、海との違いは、潮汐による変化の大きさ、荒れたときの波の激しさである。防波堤のない岸壁に横付けしておくと、船はタイヤも当てていない岸壁に打ちつけられ続けて壊れてしまう。和名抄に、「津 四声字苑に云はく、津〈将隣反、豆(つ)〉は水を渡る処也といふ。唐令に云はく、諸、関津を渡り、及び船筏に乗りて上り下り、津を経る者は、皆当に過所(くゎそ)有るべしといふ。」とあり、令集解・営繕令に、「穴云、津、謂泊船処、令无妨障也。」とある。
 日下2012.も、ラグーンに津を設けて、潮の干満を使って平底の準構造船を停泊させていたのではないかと推測している。

 古い時代の船については、土器の線刻画、船形埴輪(はにわ)、装飾古墳の壁画、さらに地中から掘り出された船体の破片などから、いろいろと推定されている。それによると、船の基本形は単材の丸木舟(刳船(くりぶね))から準構造船、構造船へと進んだ(松木哲「船の起源と発達抄史」『古代の船』福岡市立歴史資料館、一九八八)。……大阪府八尾市の久宝寺(きゅうほうじ)遺跡からは、残存状態のきわめてよい船が発掘され、五世紀初頭の準構造船の様子がかなり具体的なものとなった。この時期をとおして、船底は浅くて扁平で、あまり尖(とが)っていなかったらしい。平安時代においても、小型船は単材刳船(くりぶね)、大型船が準構造船という伝統的な技術段階にあったとされる。
 このような形をした準構造船ないし初期の構造船にとっては、手ごろな水深をもち、しかも外海からの風波をさけることができるラグーンが、港として最適であった。そのうえ、ラグーンの底は砂や泥によって構成されているため、船が出入りをする際に破損することはほとんどなかった。またラグーンでは、干潟と違って比較的近いところによく乾いた砂堆があるため、潮の干満をうまく利用すれば、着岸と上下船をわりあいたやすくおこなうことができたのである。
 わが国の古代の港がどのような施設を備えていたのか、今のところよくわからない。多分、流れのゆるやかな河口部や入江、そしてラグーンの岸に何本かのくいを打ち込んで、それに板を渡したり、近くから小石や砂利を運んできて、足場をよくした程度のものであったであろう。すでにふれたが、『万葉集』の「水門の葦の末葉(うらは)を誰か手折りしわが背子が振る手を見むとわれそ手折りし」(一二八八)が、船着き場のプロトタイプ(原型)の様子をよく示している。[小さい河口の入江にあった船着き場には、アシが一面に茂っており、見とおしはよくなかった。そこで船出して行く人(夫か恋人)が手をふる様子を見やすくするために、あらかじめ、アシの穂先を折っておいたというのである。(72頁)]
 木でつくられた杭や桟橋(さんばし)はやがて腐り、痕跡をなくしてしまう。また渚に敷きつめられた礫や石は、自然の働きや人間の手によって埋められたり、他の場所へ移動したりもする。そのため、古代の港を地下から掘り出すとか、地表景観としてとらえることは不可能に近い。そこで当時の地形をまず復元し、しかるのちに各種の史料、遺構と遺物、地名などからその位置を推測するほかはない。(193~197頁)
最古の船着き場の遺構が発掘された原の辻遺跡(壱岐市立一支国博物館「 原の辻遺跡情報 原の辻遺跡概要」http://www.iki-haku.jp/harunotsuji/harunotsuji-1.html)
 現在の港の船着場の様子を見ても、コンクリートスロープが設けられているところがある。ランチャーを使って手軽に揚げ降ろしができるものの、漁船専用のところもある。砂浜海岸では、大型タイヤのランチャーを使っても、重量級ボートではタイヤがめり込んで動かなくなって往生する。専用重機を使った昇降サービスを行う業者もあるが、前期遣唐使船の時代に、船の昇降台車があったか浅学にしてわからない。航海からの到着時に綱で引っ張った画はあるから、流されないようにある程度のところまで引き揚げたのであろう。逆に出航する際に、人夫が海のなかに入って船を引くこともあったろう。
船を曳く(一遍聖絵巻第十一模本、狩野養長ほか模、江戸時代、天保11年(1840)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0061990をトリミング)
佐々木一郎「漁村A」(松岡美術館展示品)
 万8番歌について、紀の記事他から斉明天皇が亡くなる頃までの記事を整理して年表とし、当時の状況を確認しておく。ただし、崩御後の事項は、斉明紀と天智紀とで日付などに入れ違いがある。天智紀に記された部分は括弧でくくる。

  斉明6年(660)
 9月5日  百済、……「今年の七月に、新羅、力に恃み勢ひを作して、隣に親(むつ)びず。唐人(もろこしびと)を引構(ゐあは)せて、百済を傾け覆す。君臣(きみやつこ)総(みな)俘(とりこ)にして、略(ほぼ)噍類(のこれるもの)無し。……」とまをす。
 10月   百済……、来(まゐき)て唐の俘一百余人を献る。……又、師(いくさ)を乞(まを)して救を請ふ。……「……天朝(みかど)に遣(まだ)し侍る王子(せしむ)豊璋(ほうしゃう)を迎へて、国の主(にりむ)とせむとす」と、云々まをす。
 12月24日 天皇、難波宮に幸す。……[百済の要請に]随ひて、筑紫に幸して、救軍(すくひのいくさ)を遣らむと思ひて、初づ斯(ここ)に幸して、諸の軍器(つはもの)を備ふ。
  斉明7年(661)
 1月6日  御船、西に征きて、始めて海路(うみつみち)に就く。
 1月8日  御船、大伯海(おほくのうみ)に到る。
 1月    ……勝れたる兵(つはもの)二萬人を得たまひき。(備中風土記逸文)
 1月14日  御船、伊予の熟田津の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊つ。
 3月25日  御船、還りて娜大津(なのおほつ)に至る。磐瀬行宮(いはせのかりみや)に居します。天皇、此を改め、名をば長津(ながつ)と曰(のたま)ふ。
 5月9日   天皇、朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)に遷り居します。
 7月24日  天皇、朝倉宮に崩(かむあが)りましぬ。
〔7月    皇太子(ひつぎのみこ)[中大兄]、素服(あさものみそ)たてまつりて称制(まつりごときこしめ)す。
 是月   皇太子、長津宮に遷り居します。稍(やうやく)に水表(をちかた)の軍政(いくさのまつりごと)を聴(きこし)めす。〕
 8月1日   皇太子、天皇の喪(みも)を奉徙(ゐまつ)りて、還りて磐瀬宮に至る。
 10月7日  天皇の喪、帰りて海に就く。
 10月23日  天皇の喪、還りて難波に泊(とま)れり。

 年表をみると、急いでいるのがのんびりしているのか疑問だらけである。左注に同じく、斉明7年1月6日の出航を、「始就于海路。」とある。ハジメテとは、物事がそこから始まって次々に展開していく、その発端をあらわす。わざわざ「始めて」と副詞を使って表すことは、「海路」であることが今後の話(歴史的事件)の前提、基盤を成していて、その重要性を指摘したいからと考えられる。最終的に、白村江の海戦に終わった話の発端ということである。その道中に、「大伯海」、「熟田津」、「娜大津(長津)」などはある。
 3月25日の記事には、「還至于娜大津。」とある。本来の航路に戻ったことを指すとされている。不審である。さらに、天智紀の斉明七年七月是月条、皇太子中大兄が、長津宮に遷った時、「稍聴水表之軍政。」とある。総大将である斉明天皇の喪に服し、悲しみに暮れていたのがようやく、という意味に一応はとれる。しかし、「水表之軍政」とは、海外の軍事情勢のことである。遠征する際、事前に十分考えているはずである。朝鮮半島へ行くには対馬海峡を横断しなければならない。内海や沿岸を進んだ難波から娜大津(長津)でさえ、2か月半ぐらいかかっている。一刻を争う状況の戦争に出掛けているにしては、呑気というか、気が散っているというか、手間取っているというか、納得のいかないことが多い。
 歌の左注記事から、熟田津寄港を物見遊山に出掛けたものと直ちに判断するのは早計であろう。一般には天皇の病気治療のため、湯治に立ち寄ったと考えられている。しかし、日本書紀の記者の思いを総合すると、いかにもいい加減な戦時態勢であったようである。最高司令長官の斉明天皇にも、総司令官の中大兄にも、差し迫った緊迫感が見られない。新羅や唐を見くびっていて悠長に構えていたのか。斉明天皇が亡くなり、白村江に大敗北してしまうから、当時の気分は一変してしまって後に伝わらない。その実際の雰囲気を伝える文献資料は、今のところ額田王の万8番歌しかない。
 呑気に構えていたらしいことからか、折口1995.に、「熟田津は、古代から名高くて、今もある伊予国道後温泉に近い海岸、船乗りと言ふのは、何も実際の出帆ではありません。船御遊(フナギヨイウ)と言つてもよいでせうが、宮廷の聖なる行事の一つで、船を水に浮べて行はれる神事なのです。持統天皇の御代の歌、/英虞(アゴ)の浦に船乗りすらむ処女らが、たま裳のすそに、汐みつらむか━人麻呂/などゝ同じく、禊(ミソ)ぎに類した行事が行はれるのでせう。「月を待ち受けて、船乗りをしようとしてゐると、汐までが思ひどほりにさして来てゐる。さあ漕ぎ出さうよ」と言ふ儀式歌(ギシキウタ)です。女帝陛下には、聖(セイ)なる淡水(タンスイ)・海水(カイスイ)を求めての行幸が、屢(しばしば)行はれたのです。此二首も、やはりさうした場合を背景に考へて見れば、一等よいやうです。」(304頁)などとある。戦時中に人員、物資を駆り集めておいて、そんな遊びをしていたら、暴動が起きるであろう。
 歌が歌われたのは、娜大津、改め長津に着いたのが斉明7年3月25日とあるから、その少し前のことであろう。熟田津には1月14日に着いている。2カ月ほど滞在していたと推測される。その後に出航しようとしたときの歌である。5句目の「今は漕ぎ出でな」という強い呼び掛けの声からして、人々の意欲を高めるものであったことは間違いない。宮廷社会の人々に共有されるような気持ちを歌にして歌うことが額田王の役目であった。とりわけ、その中心人物の天皇を代弁することになりやすい。斉明天皇の代詠と考えていけば、天皇は乗組員たちに向けて士気を高めていることになる。そうは言うものの、この歌はうますぎはしないか。
 熟田津滞在は退屈なものであったろう。左注に、天皇が旧跡を訪ねて感愛の情をもよおしたとある。亡き夫の舒明天皇とともに、現在の道後温泉付近の「伊予温湯宮(いよのゆのみや)」(舒明紀十一年十二月)に旅行している。639年の冬である。20年以上の歳月の流れに思いを寄せて物思いに耽るのも結構であるが、2カ月は長すぎる。徴兵や物資調達をしたとしても、それほどはかからない。そこで病気説が唱えられている。斉明天皇は病にかかっていて、治すために道後温泉に立ち寄った。高齢であるし、同年の秋には亡くなっているから、そう解釈されるのも無理からぬところがある。さらには、左注に分け書きされていることから、「「伊予の湯」の道後温泉はスプリング、自然湧出の温泉で、「伊予の熟田津の石湯」は、同じ伊予国内でも場所が離れた三津浜の人工の石湯、近代風にいえばサウナです。」(益田2006.559~560頁)とする説も行われている。なお、天武紀十三年十月条に、「壬辰[14日]に、人定(ゐのとき)に逮(いた)りて、大いに地震(なゐふ)る。……時に伊予温泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず。」とある。
 航海中に、天皇が病気をしたという記事は、紀に見られない。歌の左注を信じるなら、天皇は心身ともに健康であったらしい。病気療養のために道後温泉へ寄ったとする説には根拠がない。確かに風邪をひいたくらいのものは、紀は載せなかったであろう。それでも秋に亡くなるときの記事も素っ気ないものである。

 秋七月の甲午の朔にして丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。(斉明紀七年七月)

 天皇が死の床についた時、紀はつとめて記録を残そうとしている。後継問題も生じかねない重大事である。推古天皇は「臥病(みやまひ)」(推古紀三十六年二月)とあり、「遺詔(のちのみことのり)」が告げられたことが書かれている。曖昧な内容であったり、聞いた人が限られていて後継争いが生じている。次の舒明天皇は13年10月に亡くなっているが、病の記事はない。後継者が皇極天皇に決まっていた点にもよるのであろう。孝徳天皇は「病疾(みやまひ)」(孝徳紀白雉五年十月)とあり、大和にいた皇太子・皇祖母尊(すめみおやのみこと、皇極・斉明天皇)、間人皇后(はしひとのきさき)、皇弟(すめいろど、大海人皇子)、公卿等(まえつきみたち)が難波宮へ向かったとある。斉明天皇より後の代では、天智天皇に「寝疾不予(みやまひ)」(天智紀十年九月)とあり、仏の力にすがったことや、病床に呼び寄せた大海人皇子とのやりとりが述べられている。天武天皇の場合は「体不安(みやまひ)」(天武紀朱鳥元年八月)とあり、三カ月半後に亡くなっている。やはり仏教を中心に多方面に祈らせ、大赦令を発し、占いの結果、草薙の剣に崇りがあると聞けば熱田神宮に奉納している。そして次の持統天皇は、3年3カ月間称制している。斉明天皇に病気の記事がないのは、長患いせずに急逝したと考えるのが妥当である。
 斉明天皇が亡くなったのは朝倉宮(朝倉橘広庭宮)である。現在の福岡県朝倉市杷木志波(はきしわ)付近に当たり、筑紫平野に位置する。磐瀬行宮(長津宮)、現在の福岡市南区三宅から、大宰府よりもさらに奥まったところへ遷っている。その理由は、もっぱら言い伝えにある神功皇后の新羅親征の話に由来しているのであろう。神功皇后は橿日宮(かしひのみや)、福岡市東区香椎から、松峡宮(まつおのみや)、現在の福岡県朝倉郡筑前町栗田へ遷っている。斉明天皇も神功皇后と同じように遷っている
 行軍の行動においても、同様の傾向が見られる。中大兄の三山歌(万13~15)に歌われた「印南国原(いなみくにはら)」や「大伯海」(斉明紀七年正月)などの兵庫県の明石市から瀬戸内市付近、また、熟田津の歌に関連する「石湯行宮」(斉明紀七年正月)、これは「伊予湯宮(いよのゆのみや)」(万8左注)と同地かその近くであり、今の愛媛県松山市の道後温泉に当たるようであるが、神功皇后が夫君の仲哀天皇とともに訪れているところである。

 一家(あるひと)いへらく、印南と号くる所以は、穴門(あなと)の豊浦(とよら)の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇[仲哀天皇]、皇后[神功皇后]と倶に、筑紫の久麻曽(くまそ)の国を平(ことむ)けむと欲して、下り行でましし時、御舟(みふね)、印南の浦に宿りましき。此の時、滄海(うなばら)甚(いた)く平(な)ぎ、波風和ぎ静けかりき。故、名づけて入浪郡(いりなみのこほり)といふ。(播磨風土記・印南郡)
 十二月の己巳の朔の壬午(14日)に、伊予温湯宮(いよのゆのみや)に幸す。(舒明紀十一年十一月)
 天皇等の湯の宮に幸行(いでま)すこと、五度なり。……帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)[仲哀天皇]と大后(おほきさき)息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)[神功皇后]と二躯(ふたはしら)を以て、一度と為す。……岡本の天皇[舒明天皇]と皇后[後の皇極・斉明天皇]と二躯を以て、一度と為す。時に、大殿戸に椹(むく)と臣木(おみのき)とあり。其の木に鵤(いかるが)と此米鳥(しめどり)と集まり止まりき。天皇、此の鳥の為に、枝に穂(いなほ)等を繫(か)けて養(か)ひたまひき。後の岡本の天皇[斉明天皇]・近江の大津の宮に御宇しめしし天皇[天智天皇]・浄御原の宮に御宇しめしし天皇[天武天皇]の三躯を以て、一度と為す。(伊予風土記逸文)

 斉明天皇は言い伝えの神功皇后の新羅制服の話のとおりに行動している。ところが、神功皇后であるはずの斉明天皇は、朝倉宮で崩御してしまう。死因は伝染病によるものと思われる。

 天皇、朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)に遷りて居(おはし)ます。是の時に、朝倉社の木を斮り除ひて此の宮を作りし故に、神忿りて殿(おほとの)を壊つ。亦、宮の中に鬼火見(あらは)れぬ。是に由りて、大舎人及び諸の近侍(ちかくはべるひと)、病みて死(まか)れる者衆(おほ)し。(斉明紀七年五月)

 神社の木を伐ったため、神の忿りに触れて病死者が多数出た(注3)。天皇は5月9日に朝倉宮に入り、7月24日に亡くなっている。流行していた疫病で天皇は逝ってしまったらしい。病気の記事がないのは、あっという間に亡くなったからでもあるし、天皇が崇りを受けたことになっていては困るからであろう。とはいえ、なにか崇りであることを予感させる不気味な記事が付け加えられている。8月1日に枢を磐瀬行宮へ移した日の様子が次のように描かれている。

 秋七月の甲午の朔にして丁巳[24日]に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙て、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る。衆(ひとびと)、皆嗟怪(あやし)ぶ。(斉明紀七年七月~八月)

 新羅親征を前にして神の崇りによって亡くなったのは、天皇史上2人目である。最初は仲哀天皇(足仲彦(たらしなかつひこ)天皇)である。仲哀天皇と神功皇后(気長足姫(おきながたらしひめ)皇后)とは、熊襲を平定しようと筑紫へ進軍したが、そこで皇后が神憑りして、海の向こうに「宝有る国」(仲哀紀八年九月)があると託宣を伝えた。真に受けなかった仲哀天皇はあっけなく亡くなってしまった。今、斉明天皇も亡くなっている。言い伝えを信じていた人にとって、これは重要な事柄であったろう。最も信じていたのは、斉明天皇自身であったかもしれない。そもそも彼女は、「宝皇女(たからのひめみこ)」(舒明紀二年正月)といった。「宝有る国」(仲哀紀八年九月)、「財宝国(たからのくに)」(神功前紀仲哀九年二月)、「財国(たからのくに)」・「財土(たからのくに)」(神功前紀仲哀九年四月)、すなわち、新羅のことが頭にこびりついていた。そして舒明天皇(息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇)と再婚した。新旧両カップルの論を比較する図のようになる。

 「足姫」や「天豊」などは尊称である。神功皇后の「気長」と舒明天皇の「息長」 はともに近江国坂田郡、従前の滋賀県坂田郡近江町、現在は米原市となっているところの地名であり、 息長族の系譜を引いている皇族のことという。だから、舒明天皇と神功皇后の名前はよく似ている。斉明天皇は神功皇后のようになろうとして失敗し、仲哀天皇の運命を担うことになってしまった。名前は「足(たらし)」を共にし、「彦」と「姫」とは男女の対で同じと見なせる。仲哀天皇にあって斉明天皇にないのは 「仲(なかつ)」だけである。
 万葉集の巻1の最初の部分の編者が作った「中皇命(なかつすめらみこと)」(万3・4・10・11・12) という名の「中」とは、仲哀天皇の「足仲彦天皇」によったものであった。最初に、皮肉にしてふさわしい諡号の「天皇財重日足姫天皇」なる長たらしい名前を構想し、大幅に省略して「仲天皇」、それを万葉集の言文一致運動に従って「中皇命」とした。自分が仲哀天皇の運命を担うものであることも知らずに、愚かな外征に赴いたことを揶揄した名づけであると考える。
 「中皇命」については、諸説ある。称徳天皇の宣命に、「挂麻久毛新城大宮天下治給天皇臣等御命之久」(続日本紀・神護景雲三年(769)十月)とあったり、大安寺伽藍縁起并流記資財帳(天平三年(731))に、「仲天皇奏、妾我♯(女偏に夫)等炊女而奉」とあることから、中天皇と同様の名称であるとする説がある。また、野中寺弥勒像の銘に、中宮天皇、すなわち、「丙寅年四月大旧八日癸卯開記、栢寺智識之等、詣中宮天皇大御身労坐之時、誓願之奉弥勒御像也、友等人数一百十八、是依六道四生人等、此教可相之也」とあることも絡めて捉える説もある。
 しかし、50年以上も後に現れた、その途中には確かには現れていない言葉と同じ概念であるとするのは疑問である。井上2000.は、「中天皇の語義についても、学者の説はきわめて多岐にわたっているが、問題が錯綜した理由の一つは、先にあげた中宮天皇や『万葉集』の中皇命を、この中天皇と一緒にとりあげるからである。しかし私は、中宮天皇と中天皇を一緒にするのはおかしいとおもうし、『万葉集』の中皇命は、果して天皇かどうかも疑問とすべきだとおもう。言葉をかえていうと、中天皇は中皇命とは別に扱うべきである。」(246頁)と尤もな意見を示している。さらに、野中寺弥勒像の銘について、東野2010.は、「銘の信憑性に疑念」を抱いている。「像の表面の状態が、戦前と戦後で一変している」こと、「文中に使用されている四つの「之」」や「「六道四生人等」という表現」が、「七世紀の銘文に似つかわしくない」と指摘する(20~21頁)。
 飛鳥時代の万3~4・10~12番歌にある「中皇命」の「中」についてのみ考えた場合、著名な捉え方として、必ずといっていいほど折口説があげられている。

 その「中」であるが、片一方への繋りは訣る。即、天皇なるすめらみことと、御資格が連結してゐる。今一方は、宮廷で尊崇し、其意を知つて、政を行はれようとした神であった。
 宮廷にあつて、御親ら、随意に御意志をお示しになる神、又は天皇の側から種々の場合に、問ひたまふことある神があつた。その神と天皇との間に立つ仲介者なる聖者、中立ちして神意を伝へる非常に尊い聖語伝達者の意味であつて見れば、天皇と特別の関聯に立たれる高巫であることは想像せられる。すめらみことは、語原論からすれば、天皇以外の御方を指しても、さし支へはなかつた。天皇ばかりを意味することのやうになつて行つたのは、意味の分化でもあるし、又一方からは、天皇のみこともちの上に今一つみこともちを考へ、其を「仲だちの」と限定したものと見ることが出来る。(折口1997.403~404頁)

 神と天皇との仲立ちという、巫女的な考え方によっている。しかし、紀の記事から斉明天皇が巫女であるとの印象は、皇極紀元年八月条の雨乞い記事ぐらいしか見当たらない。前兆をとらえる点を過大視していくと、予言者的な「時の人」は、みな、「中時人(なかつときのひと)」ということになる。崇神紀十年九月条では、「少女(をとめ)」(「童女(わらはめ)」)は、崇神天皇の伯父であり、義父でもある大彦命(おおびこのみこと)に怪(しるまし)を歌って去っていっている。彼女が「中少女(なかつをとめ)」(「中童女(なかつわらはめ)」)であるとは記されていない。
 一方、井上2000.は、「古代には、皇位継承上の困難な事情のある時、先帝または前帝の皇后が即位するという慣行があったのであり、それが女帝の本来のすがたであった、と見るのである。」(228頁)、「これら[元明女帝・倭姫・持統女帝]に共通なことは、女帝の即位がいわば権宜の処置であることで、そのような天皇は、中つぎの天皇に他ならないではないか。」(246頁)とする。「中」=中継ぎであるという論である。女帝を特別視した考え方で、続日本紀の慶雲四年七月条の詔に見える「不改常典の法」に従ってのこととされている。しかし、中継ぎという意味で「中」の語が用いられた例は、記紀に見られない。また、「不改常典の法」の内容は不明で、「天智天皇(「近江大津宮に御宇しし大倭根子天皇」)の時期に定まったとされる、直系の皇位継承法のこととしか考えられないであろう。」(吉村2012.162頁)といった程度のものであり、いささか仮構にすぎる議論である。
 そもそも、男女に関係なく、すべての天皇は中継ぎである。山之口貘の「喪のある景色」に、「うしろを振りむくと/親である/親のうしろがその親である/その親のそのまたうしろがまたその親の親であるといふやうに/親の親の親ばつかりが/むかしの奧へとつづいてゐる/まへを見ると/まへは子である/子のまへはその子である/その子のそのまたまへはそのまた子の子であるといふやうに/子の子の子の子の子ばつかりが/空の彼方へ消えいるやうに/未来の涯へとつづいてゐる/こんな景色のなかに/神のバトンが落ちてゐる/血に染まつた地球が落ちてゐる」(山之口2013.246~247頁)とある。
 他の説として、「中」は、2人目、あるいは、2代目の義とする。本居宣長・続紀歴朝詔詞解に端を発する。「中天皇は、元正天皇也、平城(ナラ)は、元明天皇より宮敷坐て、元正天皇は、第二世に、坐ますが故に、中(ナカツ)とは申シ給へる也、中昔に、人の女子あまたある中にも、第二にあたるを、中の君といへると同じ、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933886/118)とある。「中津少童命(なかつわたつみのみこと)」・「中筒男命(なかつつのをのみこと)」(神代紀第五段一書第六)などの神々や「中子仲彦(なかつこなかつひこ)」(応神紀二十二年九月)、「足仲彦天皇」(仲哀天皇)は日本武尊(やまとたけるのみこと)なども3人兄弟の「中」の子であるとし、「住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)」(仁徳紀二年三月)は仁徳天皇の皇后、磐之媛命(いはのひめのみこと)が産んだ四人兄弟の第2子であるとし、「泊瀬仲王(はつせのなかのみこ)」は聖徳太子の第2子であったらしいからとする。そこから発展させて、「中女(なかつみこ)」(推古前紀)と呼ばれた推古天皇は、堅塩媛の第4子ながら皇女としては第2子にあたり、「中大兄」は、舒明天皇の皇子のうち、古人大兄につぐ2人目の大兄だからとする。二男・二女の話が嵩じて行って、苦し紛れのこじつけになっている。「中皇命」という語自体からは性別さえ決められない。仮に皇極・斉明天皇のこととして、その系譜を辿ることができるのは、皇極紀の冒頭の皇統譜ばかりである。

 天豊財重日重日、此には伊柯之比(いかしひ)と云ふ。足姫天皇は、渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)の曾孫(ひひこ)、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおほえのみこ)の孫(みまご)、茅渟王(ちぬのおほきみ)の女(みむすめ)なり。母をば吉備姫王(きびつひめのおほきみ)と曰す。(皇極前紀)

 長女か二女か三女かなど、わかろうはずはない。そもそも、中皇命はナカツスメラミコトと訓む。「中」を2人目の、2代目の捉えるなら、2番目のスメラミコトは、初代の神武天皇(神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと))の次の綏靖天皇(神渟名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと))のことになる。問題はそういうところにはない。
 中皇命という名は、皮肉なあだ名である。言い伝えが常識として伝わっていれば結構わかりやすいものであったのではないか。ところが、にわかに文字の時代が到来して誰にもわからなくなってしまった。ただ単にそういうことに違いなかろう。
 ホラー映画に出てきそうな大笠を着た鬼に似た表現は、斉明紀にはもう1箇所出ている。

 夏五月の庚午の朔に、空中(おほぞらのなか)に竜(たつ)に乗れる者有り。貌(かたち)、唐人(もろこしびと)に似たり。青き油(あぶらぎぬ)の笠を著て、葛城嶺(かづらきのたけ)より、馳せて膽駒山(いこまのやま)に隠れぬ。午の時に及至(いた)りて、住吉(すみのえ)の松嶺(まつのみね)の上より、西に向ひて馳せ去りぬ。(斉明紀元年五月)

 これは悪いことの起こる前兆を記したものと考えられる。容貌が唐人に似ているというのは、唐ならびに唐の服制を取り入れた新羅と戦って敗れることを暗示するものでもあろう。天武八年十月条に、「新羅、……天皇・皇后・太子に、金・銀・刀・旗の類を貢ること各数有り。」ともある「旗」とは、幡蓋、つまり、衣笠のことである(注4)
 それよりずっと以前、神功皇后が筑紫平野へ出張る記事には次のようにある。

 戊子(十七日)に、皇后、[熊襲の羽日(はしろ)]熊鷲(くまわし)を撃たむと欲して、橿日宮(かしひのみや)より松峡宮(まつをのみや)に遷りたまふ。時に、飄風(つむじかぜ)忽ちに起こりて、御笠(みかさ)堕風(ふけおち)ぬ。故、時の人、其処を号けて御笠(みかさ)と曰ふ。(神功摂政前紀仲哀九年三月)

 おそらくは傘状の地形から名づけられた地名に、後からこじつけた地名説話であろう。お偉い神功皇后がいらっしゃってふさわしい場所とは、衣笠をもって覆われるようなところである。導きたいのはカサである。神功皇后のときは笠が飛び落ちた。ところが、それに倣ったはずの斉明天皇の朝倉宮では、気味の悪い笠を身につけた妖怪が現れる。それは同音の「瘡(かさ)」、すなわち疱瘡、天然痘によって、天皇が亡くなったことを表しているに違いあるまい。「唐人」といった形容があるもうひとつの理由には、伝染病が海外からもたらされることを当時の人も知っていたからである。外国の使節団をなかなか都へは入れず、迎賓館に当たる「難波館(なにはのむろつみ)」(継体紀六年十二月、敏達紀十二年是歳)や「筑紫館(つくしのむろつみ)」(持統紀二年二月)、後の鴻臚館に滞在させていたのは、防疫態勢の一環で、2週間隔離と同じような効果を得たかったからでもあろう。
 もういちど紀の前後の記事を見てみる。

 [春正月の丁酉の朔にして]庚戌に、御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ。
 [三月の丙申の朔にして]庚申に、御船、還りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居します。

 2つの文章の構造に注目したい。両方とも、日にち・「御船」・場所の順に並んでいるが、最後の動詞のあたりに大きな相違がある。後の文章では、船は至り、天皇はいらっしゃったとある。動詞が2つある。前の文章には動詞が1つしかない。船は行宮に停泊したと読むのが順当になっている。これには、石湯行宮が現在の道後温泉付近ではなく、海や川に面していたという解釈が付けられることになる。益田2006.には、「伊予湯宮」と「石湯行宮」とが書き分けられているから、石湯=海浜のサウナとの説があった。歌の左注に、舒明天皇と訪れた昔を偲ぶことができる「昔日猶存之物」をご覧になって、感愛の情をもよおしたとあり、往時の「伊予湯宮」には「物」ぐらいしか残っていなかった。
 では、2カ月ほどにもわたる熟田津滞在中、天皇の行在所、「石湯行宮」はどこにあったのであろうか。出掛けていって「感愛之情」を起こしているから、船に缶詰ではなかった。確かに紀の記事からは、船は停泊し、天皇は宿泊した、という意味にも取れないことはない。しかし、船と人間とが一緒くたにされていて文章の座りが悪い。孝徳紀にも次のような文章がある。

 皇太子、乃ち奉皇祖母尊(すめみおやのみこと[皇極・斉明天皇])・間人皇后を奉(ゐたてまつ)り、并せて皇弟(すめいろど)等を率(ゐ)て、往きて倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)に居(ま)します。(孝徳紀白雉四年是歳)

 いちばん偉い「人」は「居」なものである。記者は何ごとか言い淀んでいるように見受けられる。後の文章の「還」を、本来の行路に戻ったことと考えていた。地図を広げても、難波から博多へ向かうのに松山付近を通ったとして、本来のルートから外れているとは思われない。もう一度、歌全体を聞いてみなければならない。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)

 この歌の特徴は力動感である。船に乗って海に出よう、さぁ今こぞ漕ぎ出そう。そう歌っている。月や潮の様が歌の主題ではなく、人々の動作や自然の動き、すなわち、「乗りせむ」、「かないぬ」、「漕ぎ出でな」 といった言葉が主役である。強い意志が感じられるのは、最後の助詞ナの1語にあるのではない。 これほど息せき切って力強く歌っているのは、ちょうど反対の事情、今までは、船に乗って漕ぎ出そうにも漕ぎ出せなかったからではないか。それは何か。たちの悪い座礁であろう。
 船団は瀬戸内海を西へ西へと進んでいった。ところが太陽太陰暦で1月14日、大潮に近い日に、今の松山付近で浅瀬に乗り上げて座礁した。それも船団の中心、天皇らが乗り組んでいた豪華船「御船」号であった。とりあえず、一部の船には先に進んで博多方面へ行き、大宰府などに待機しているよう指令を出した。足止めを食らった天皇には上陸してもらい、かつての行幸場所へもご案内して寛いでいただいた。
 座礁の可能性はけっして低くない。

 皇后(きさき)[神功皇后]、別船(ことみふね)にめして、洞海(くきのうみ)洞、此には久岐(くき)と云ふ。より入りたまふ。潮涸(ひ)て進(ゆ)くこと得ず。時に熊鰐(わに)、更(また)還りて、洞(くき)より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進かざることを見て、惶ぢ懼りて、忽に魚沼(うをいけ)・鳥池を作りて、悉(ふつく)に魚鳥を聚む。皇后、是の魚鳥の遊を看(みそなは)して、忿(いかり)の心、稍に解けぬ。潮の満つる及びて、即ち岡津(をかのつ)に泊りたまふ。(仲哀紀八年正月)

 西征において、斉明天皇が真似をしている神功皇后の事跡である。検討に値する記事である。
(つづく)

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