古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─ 其の二

2020年11月26日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
 円仁の入唐求法巡礼行記巻第一に、開成四年(839、日本の承和六年)のこととして、遣唐使船が座礁した際の詳細な記録が残っている。

 四月十一日。午前六時、栗田録事らが舶に乗ったのでまもなく出航、帆を上げて真っ直ぐに進んだ。南西の風が吹く。東海県の西に行こうとしたけれども、風にあおられてすぐに浅い浜に着いてしまった。そこで帆を下ろして櫓を動かしたわけだが、船はますます浅い方に行ってしまう。仕方がないので棹(さお)で海底を突いて船の通る個所をはかるためにしばしば船足を留める始末だった。こうして一日中苦労してやっと東海県に着いたのであるが、潮が引いて船は泥の上に居坐ってしまい動くことができない。夜に入ってそこに停泊した。
 そこに陸から舶に上って来た人がいて彼が言うには「きょう宿城村から手紙があって、その知らせによると、日本の九隻の船のうち第三船は密州の大珠山に漂着した。午後四時、押衙と県令(県知事)の二人が宿城村にやって来て「日本国の和尚を探し出して日本船に戻した」と言っていたという(「覓本和尚却帰船処」)。なおその一船(第三船)は萊州の管内に漂着し、流れに任せて密州の大珠山に着いている。他の八隻の船は海上でいずれも見失って行方不明である、云々」と。午後十時、ともづなを曳いて船を引っ張り、泥の浅瀬から出ようと試みたが、まだ浮かび上がらず動くことができない。
 ○「覓本和尚却帰船処」=「却帰」はふたたび元に帰す。(小)[小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究 第一巻』鈴木学術財団、昭和39年]「和尚が船処に却帰せんことを求めぬ」日本の和尚が船から抛却されたところを尋ねた。置き去りの意に解し、(ラ)[ Dr.Edwin Oldfather Reischauer. Ennin’s Diary, THE RECORD OF A PILGRIMAGE TO CHINA IN SEARCH OF THE LAW,1955,RONALD PRESS CO., NEW YORK]はleftと訳し、「圓仁たちが船から離れた場所を尋ねて宿城村にやってきた」とする(堀)[堀一郎訳「入唐求法巡礼行記」『国訳一切経和漢撰述部史伝部二十五』大東出版社、昭和14年]「和尚の船処を覓求して却帰せり」これは帰り戻ったの意(洋)[足立喜六訳注・塩入良道補注『入唐求法巡礼行記1』平凡社(東洋文庫)、昭和45年]「和尚を覓め船処に帰却せり」「和尚を発見して日本船に帰した」。この説をとった。
 十一日卯時粟録事等駕舶便発上帆直行西南風吹擬到東海県西為風所扇直着浅浜下帆揺櫓逾至浅処下掉衝路♭(足偏に主)終日辛苦僅到県潮落舶居泥上不得揺動夜頭停住上舶語云今日従宿城村有状報偁本国九隻船数内第三船流着密州大珠山申時押衙及県令等両人来宿城村覓本和尚却帰船処但其一船流着萊州界任流到密州大珠山其八隻船海中相失不知所去云々亥時曳纜擬出亦不得浮去
 四月十二日。明け方、風は東風になったり西風になったりして一定しない。 船はまだ浮かばず動けない。また県庁から連絡の文書が来て良岑判官らに知らせていうには「朝貢使の船のうち第三船は当県の管内に漂着した。この船は先日出港したものである」と。私は正式の害状をまだ見ていない(「先日便発者未見正状」(洋)「先日送った知らせはまだ正確な情報ではなかった」(堀)「先日出港したものであるが、まだ正確な情報ではない」)。風向きはしきりに変わって一定しない。
 十二日平旦風東西不定舶未浮去又従県有状報良岑判官等偁朝貢使船内第三船流着当県界先日便発者未見正状風変不定
 四月十三日。早朝、上げ潮となり、船は出発しようとした。しかし風向きが定まらないので何度も往ったり戻ったりした。午後、風は南西から吹いて向きを変え西風となった。午後二時、潮が満ちて舶は自然に浮かんで東へ流れて行く。そこで帆を上げて進んで行った。東海県の前から東へ向かって出発した。舶上の小舟に上ってお祓いをし、同時に住吉大神を礼拝、海を渡りはじめる。風はかなり強く吹いている。大海に入って間もなく、水夫一人が前々から病いに臥していたが、午後五時ごろ死去した。死体はむしろに包み海中に押し落とすと、波にゆられて流れ去った。海の色はやや澄んでおり、夜に入ると風がしきりに吹く。東を指して真っ直ぐに進んだ。
 十三日早朝潮生擬発縁風不定進退多端午後風起西南転成西風未時潮生舶自浮流東行上帆進発従東海県前指東発行上艇解除兼住吉大神始乃渡海風吹稍切入海不久水手一人従先臥病申終死去褁之以席推落海裏随波流却海色稍清夜頭風切直指東行(圓仁・深谷1990.174~177頁)

 この時の遣唐使船は、特に船の破損もなかったようであるが、船が壊れていく様を目の当たりにして怯えている様子は、承和五年七月二日条に見える。これらを参考にすると、「御船」は、本稿の初めの方でも触れたラグーン(潟湖)に寄港したつもりが、そのまま潮が引いてタイダル・フラット(干潟)となり、動けなくなったと推測される。船は無事だが、出航できなくなった。吉田2008.に、「額田王采配(さいはい)のもとで「月待てば潮もかなひぬ」とあるように、「月読」の神に祈り、「月」の出を待って、満汐の良い時をねらっていたわけである。……特にここは「汐」のことが取り上げられている。それは熟田津の地理条件がある面で軍港というにはふさわしくない、大浦田沼(おほうらたぬ)というような船の停泊するには便利だが、出帆するには苦労するところの、汐満ちの影響を考慮しなければならない潟湖津であったことを示しているのである。しかも入港も出帆も同一だということでなかったかもしれぬ。」(100~101頁)とある。「大浦田沼」については、「この「田沼」はタヌと訓まれ、田と沼か、田である沼か分からないと言われるが、「田沼」といっても、それを逆にした「田沼(ママ)」といっても同じで、大浦の地が沼田(ぬた)の状況であることをいっている。それは「津田」といっても「田津」といっても同じなのと同様の語構成だ。志賀島湾内が潟湖をなし、沼田状になっていることを指している。」(同25頁)とする。梶川2009.も、写真入りでラグーンにボートが置かれている様を紹介し、そこを「天然の良港」としている。
 日下2012.は、「潟」の意味する地形について的確に表現する。

「潟」という語は、ラグーン(潟湖(せきこ))とタイダル・フラット(干潟)の二つの地形(景観)にあてられているといえる。前者すなわちラグーンは、砂や礫(れき)からなる高さ二~五メートルの砂堆(砂嘴(さし)・沿岸洲(す)・浜堤(ひんてい))によって外海(湖の場合もある)から隔てられた水域である。この水域は海岸線に平行して細長く延びるのがふつうであり、水深は小さいが、干潮時にも完全に干上がってしまうことはない。外海とは河口や狭い潮口(ちょうこう)(砂堆の切れ目)によってつながっていることが多く、外海より海水、そして汽水をへて淡水域へと移る。また潮の干満によって塩分の濃度は絶えず変化する。汀線付近の傾斜が比較的大きいため、潮の干満による汀線の水平的な移動はあまり大きいものではない。
 それに対し、干潟は傾斜がきわめて小さいため、高潮時には水没し、低潮時に陸化する朝間帯(ちょうかんたい)の幅は、数キロにも達するのがふつうである。たとえばフランスの西海岸では、干潟の幅が約一〇キロであり、わが国の有明海も大きい値を示す。ラグーンが、風波の強い海洋型の海岸に発達するのに対し、タイダル・フラットは、波の静かな内湾に形成される。有明海のほか、岡山市の児島湾の例がよく知られている。
 もっとも、ラグーンの周辺に幅が狭くて規模の小さいタイダル・フラットが形成されるため、両者を厳密に区別することは難しい。(80~82頁)

 ラグーンも、タイダル・フラットも、上代の人にとっては同じ「潟(かた)」である。言葉として同じ範疇に入れるほど似通った景観であった。砂嘴があるから良港と思って廻りこんで入港したつもりが、干潟になってしまったということであろう。
 高見2004.に、「良港の条件」として、「港の最も重要な機能は船が安全に停泊できることである。そのためには、主として地形的な次の基本条件を満たす必要がある。1船の出入りに相当した幅と水深の航路がある。2港内は船の数に応じた深さと広さがある。3海底は錨かきがよい。4波が静かである(風よけがある)。5潮の干満の差が小さい。近年は土木工学の進歩により、これらの条件を満たすように防波堤、防潮堤、導流堤、岸壁、桟橋などが建設され、昔は港にならなかった場所にも多数の港が作られている。古代には、自然にこの条件を満たすリアス式海岸や潟湖に港が作られた。しかし、その港が良港であるためには、前述の基本条件だけでは不十分で、さらに次の条件を満たしていなければならない。1内政、外交、文化交流、物流経済などの目的にあった背後地をもつ。2背後地との交通運輸通信などの連絡が容易である。3港の周囲には、貨物の積み込み・積み下ろし・保管あるいは乗客の休憩・宿泊、船舶の修理、港の保守などの設備がある。4これらの設備の保守および機能維持のための要員が近傍に住んでいる。古代の港も、これらの条件をたとえ小規模であっても満たしていなければ良港とはならない。」(140~141頁)とまとめている。熟田津は、基本条件の「5潮の干満の差が小さい」を欠いていたといえる。より正確には、満ち潮の高さが定時的に十分であるという条件を欠いていたと言える。
 「御船」は、前期遣唐使船に想定されるように船底は平らだったであろう。しかし、大きな準構造船であり、豪華客船でありつつ大軍艦である。斉明7年正月6日に出航したのは、難波津である。河内湖(草香江)と大阪湾とを結んだ難波堀江にあったとされている。仁徳紀十一年十月条に、「[難波高津]宮の北の郊原(の)を掘りて、南の水(かは)を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。」とある水路に面しているとされている。そこは、「難波御津(なにはのみつ」(仁賢紀六年九月)、「難波三津之浦(なにはのみつのうら)」(斉明紀五年七月割注・伊吉連博徳書)とも呼ばれる。「御津(三津)」のミは甲類で、「満つ」のミも甲類である。毎日のように水が十分に満ちてきて、出航に手間取らない良港であったということであろう。日下2012.に、万葉歌の「潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ来にけり」(万3594)について、「上町台地(大阪市)の先端から平行して、ほぼ南北方向に走る二本の砂洲に挟まれた細長いラグーンのみなと「難波津」で、潮が満ちて来るのを待っていた。満潮を少し過ぎるころ、十分な水深を利用して、船はラグーンから「難波堀江」に出て、潮とともに下り、明石の門を越えてさらに西方へと向かったのである。」(88頁)とする。ところが、熟田津の場合は、潟湖が干潟に変貌して身動きが取れなくなっている。
6-7世紀ころの摂津・河内・和泉の景観(日下2012.カバー)
 先にみた紀の博多到着の記事に続いて、不思議な文章が紛れ込んでいる。

 天皇、此を改めて、名をば長津(ながつ)と曰(のたま)ふ。(斉明紀七年三月)

 「娜大津(なのおほつ)」 とあったのを、「長津(ながつ)」に改名したというのである。「娜大津」は、那珂津(なかつ)、那津(なのつ)(宣化紀元年五月)、「娜太津(なたつ)」(家伝上(鎌足伝))などともいわれる。名は体を表す。改名するにはそれなりの意味があってのことであろう(注5)
 
 「名替え」によって互いの関係が更新されるという考えは、斉明天皇の時代にもあったであろう。言霊信仰はまだ十分に余韻を保っていた。万葉集の10番歌において、「岩代(いはしろ)」と聞いて怖がっていたのは、「中皇命」こと斉明天皇であった。名前の持っている呪力に縛られていたと思われる。そして、斉明天皇は娜大津を長津へと名替えをした。その意味するところは何であろうか。
 紀のきわめて初めのところに、次のような割注が記されている。

 至尊(しき)を尊(そん)と曰ひ、自余(じよ)を命(めい)と曰ふ。並びに美挙等(みこと)と訓む。(神代紀第一段本文)

 偉いのは「尊」で、次なるは「命」、訓み方はいずれもミコトであると言っている。また、続日本紀・元明天皇の和同六年(713)五月条に、「五月甲子。制。畿内七道諸国郡郷着好字。」と、地名に「好(よ)き字」を選んで付けるよう命じている。いわゆる好字令である。それらを参照して、長津への改称も好字を当てたにすぎないとする考えがある。しかし、斉明天皇は日本書紀を書いておらず、約50年後の元明天皇のように、文字を意識していたとは考えにくい。この間には大きな文化変容があった。無文字文化から文字文化への移行である。斉明天皇がどれほど文字(漢字)を読めたか、興味深い課題である。そして、ここでは字がただ変わったというのではなく、音が少しだけ変わっている。かといって、娜大津を、博多や福岡に変えたというほどには変わっていない。それぐらいに変えたのなら、何か深遠な意味合いがあってのこととも思えよう。ところが、ナノオホツやナノツ、ナツ、ナタツと、ナガツとでは、音として変わり映えがしない。「天皇改此、名曰長津。」という表現は、何を改めたものなのか。
 奇妙な改名の話はその後も引きずっている。娜大津の近くの「磐瀬行宮(いはせのかりみや)」(斉明紀七年三月)が、「磐瀬宮(いはせのみや)」(斉明紀七年八月)と記されるばかりか、ところによって「長津宮(ながつのみや)」(天智前紀斉明七年七月是月・同九月)と変わっている。ひょっとしてこれは、娜大津を変えたいがための改名ではなく、磐瀬行宮の名を変えたかったからではないのか。熟田津の「石湯行宮(いはゆのかりみや)」にたいへんよく似ている。イハセとイハユは1音違いである。つまり、ナノツやナノオホツ、ナツと呼ばれる船着場部分の場所を、土建国家的に長津と呼んでしまい、その付近一帯をナガツという統合的な地名に改変したかったのであろう。イハユを思い出したくないからである。もうあんな足止めはごめんだよ、そういう声が聞こえてくる。
 翻れば、これらの記事は、「熟田津」という地名について、婉曲に何かを物語っているように思われる。つまり、座礁した場所には別の名前があった。○○浜、××浦である。横浜とか北浦とか、素朴な名であったのではないか。それを熟田津に名称変更した。あるいは名前などなかったのかもしれない。船着場の意味の津という言葉を使い、船は停泊させるべきところへ停泊させている、というのが戦時下における政府の公式見解であった。座礁の失態は隠蔽されたのである(注6)。当然、紀に詳細が書かれることはない。それでも司馬遷ばりの記者は、苦労して文章ひねり出した。「泊」と表記すれば、停泊したことにも宿泊したことにもなる。ただし、意味はとまること、stop である。さらに娜大津を長津と改名したことも記す。磐瀬宮も長津宮になっていたりいなかったりする。その結果、熟田津についても、もともとあった地名ではない可能性を示唆することになっている。仲哀紀の座礁記事でも、神功皇后は「忿心」を覚えている。「魚鳥之遊」をご覧になってようやく解けている。斉明天皇の場合、舒明天皇との思い出の物をご覧になっていた。万6番歌には左注が施されている。

 ……山上憶良太夫の類聚歌林に曰く「記に曰く……一書に云はく、「この時に宮の前に二つの樹木あり。この二つの樹に斑鳩・比米二つの鳥さはに集まれり。時に勅して多く稲穂を掛けてこれを養ひたまふ。すなはち作れる歌云々」といへり」といへり。……

 そのようなものを見て心を落ち着かせていたのかもしれない。すなわち、斉明天皇は、憎々しく痛々しく感じていた。憎し、痛し、の語幹に津をつけて、niku+ita+tu→nikitatuと名づけられたと想定することも可能である。山部赤人の歌には、「飽田津(にきたつ)」とある。

 ももしきの 大宮人の 飽田津に 船乗りしけむ 年の知らなく(万323)

 赤人は神亀1年 (724)から天平8年(736)の間は生存が確認されている。万323番歌まで、斉明7年(661)からおよそ50年は経過している。天武13年(684)の大地震も経ている。「土左国の田苑(たはたけ)五十余万頃(しろ)、没(うも)れて海と為る。」(天武紀十三年十月)と記されているように、伊予国でも地形変動が起きたのではないか。1946年に起きた昭和南海地震では、愛媛県下の海岸線は40~50cm地盤沈下し、道後温泉の湧出も6ヶ月間止まっている。今日、四国の瀬戸内海岸の波打際が迫って感じられるのはそのせいである。赤人がいつのことか年を知らないと歌っているのは詩的な表現である。年が経ってしまったからと納得しているが、場所さえわからなかったのではないか。後世に伝わらないニキタツという地名は、臨時に名づけられた。
 鎌倉時代の仙覚(1203?~1272?)の萬葉集註釋に、伊予風土記を参照したらしい注が付いており、斉明天皇の御歌が記されている。その歌は、「美枳多頭爾(みきたづに) 波弖丁美禮婆(はててみれば) 云々」というもので、3句目以下は伝わっていない。ニキタツがミキタヅになるのは、音韻が訛る傾向としてあり得る。3句目以下が割愛されて「云々」と書いてあるのは、早い段階で検閲を受け、意図的に割愛されたことを予感させる。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな(万8)

 (大意)熟田津と名付けられたこの船着場で船出したいと満月の月を待っていたら、大潮の満ち潮はすでに期待以上に満ちてきてしまっている。さあ早く、今はほかのことはどうでもいいから漕ぎ出そう。
 3月望月近くの大潮の日、額田王は、東の空から昇る満月によって高い満潮を導くのを待っていた。確かに「月」は待っていたのであるが、月のことは念頭から離れて「潮」に注意が向いている。月のまだ昇らぬ夕刻から思いもかけず潮の満ち方が急で、今にも船がうまく動き出そうとしている。春の低気圧が発達して通過し、南風も手伝って高潮傾向になったからかもしれない。それで有頂天になってこの歌は歌われた。歌は必ずしも形象を厳密に詠むものではないが、この歌から聞こえてくるテンションの高さは、それなりの何かがなくては生まれないように思われる。
 「潮もかなひぬ」とある助詞のモについては、先に指摘した古橋1994.にある、「月待てば 月もかなひぬ 潮待てば 潮もかなひぬ」のような、単なる並立の意味とは考えにくい。何もかも順調という時に、これほど高揚した声は聞かれない。古典基礎語辞典の「解説」と、上代に名詞を受ける場合の「語釈」を引く。

モは他の係助詞カ・ゾと同じく、「何時(いつ)」「誰(たれ)」などの疑問詞の下に付いて使われる。このように、疑問詞に付くことは、モの受ける事柄が不確実なもの、あるいは不確実なことであることを示す役目をする。不確実とは、次のようなことを指す。・推量……・未定……・ 順望……・否定……このようにモは、受ける語を「これ一つではない」と、これと同類のものが他にも存在することを暗示して、掲げたものが不確定・不確実・非限定的・仮定のものとして扱うことを本質としている。これに対して、係助詞ハは、疑問詞に付くことがほとんどなく、数あるもののうちから、上にくる語を特に「これ一つ」として取り立てて、確実・確定的・限定的・既定のものとして扱う。『万葉集』で地名に付くハが多いのは、地名が「これ一つ」という最も明確なものなので、必然的に上の語を確実と扱うハの例が多くなることによる。以上のモの本質からすれば、普通モの文末には打消・推量・疑問など、いわゆる不確定性の陳述がくる。ただ中には「懸けまくも〔母〕 あやにかしこし 言はまくも〔毛〕 ゆゆしきかも」<万葉四七五>のように結びが肯定の場合もある。これは、「心にかけて思うのも何とも恐れ多い。口に出して言うのも忌みはばかられることだ」と訳せる一種の常套句で、続けて使われているモは、いずれも上の語を肯定して、「Aも…Bも…である」という、いわゆる並列の意を表している。同類の事柄を列挙するこの並列のモは、上代ではそれほど多くないが、時代が下るにつれて用例数が増加し、やがてモの用法の大部分を占めるよっになって、現代に至っている。こういう意味が生じたのは、モが「ある事」を確実であると確信できない意を示すところから「AもBも」と不確実なものを列挙する気持ちを表した結果である。つまり、並列肯定の用法は、モの不確定という本質の一つの相として現れたことになる。 そのほか、係助詞モには、上代から類例暗示、添加、強調・詠嘆、総括など多様な意味用法があり、通時的に盛んに使われている。(1194~1195頁)
①上にくる語を不確実・非限定・仮定・未定のものとして提示し、下にそれについての説明・叙述を導く。…も。下に打消・推量・願望などの表現を伴うことが多い。 ▶「多遅比野(たぢひの)に 寝むと知りせば 防壁(たつごも)も〔母〕 持ちて来ましもの 寝むと知りせば」<記歌謡七五>。……②「AもBも」と不確実なものを列挙・並列する意を表す。…も。 ▶「千葉の 葛野(かづの)を見れば 百千足る 家庭(やには)も〔母〕見ゆ 国の秀(ほ)も〔母〕見ゆ」<記歌謡四一>。……③一つを挙げて、該当する他の類例を暗示する意を表す。また、他の同種のものを類推させる意を表す。…も。…なども。…さえも。(…はもちろんのこと)…だって。 ▶「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮も〔毛〕かなひぬ今は漕ぎ出でな」<万葉八>。……④一つの事柄の上に、同種の事柄をもう一つ加えるという添加の意を表す。…も。…もまた。 ▶「宮人の 足結(あゆひ)の小鈴 落ちにきと 宮人響(とよ)む 里人も〔母〕ゆめ」<記歌謡八二>。……⑤控えめな最小限・最低限の希望を表す。せめて…だけでも。下に仮定や願望の表現を伴うことが多い。 ▶「ぬばたまの夜渡る月をとどめむに西の山辺に関も〔毛〕あらぬかも」<万葉一〇七七>。(1195頁、この項、我妻多賀子。)

 古橋説は、②の用例の省略形ということになる。モを不確実なものとする解説に反する。そして、筆者は、③の例に熟田津の歌が採りあげられていることに異議を唱えたい。月と潮について、「月待てば潮かなひぬ」と先にモが出ていれば、暗示や類推に該当するであろうが、そういう語順にはない。そして、「語釈」では説明不足ながら④の意味に着目する。記81番歌謡の用例は、「宮人は大騒ぎするけれど里人は決して大騒ぎしてはいけないよ」という意味である。「宮人」と「里人」とは、することの方向性が反対である。否定の意味が残っている。この意に寄せて熟田津の歌を考えると、「月を待っていると月はまだ出ていないのに、潮は船出にかなう状態になってしまった」と解することができる。記歌謡や初期万葉歌は、上代でも古い用例である。モの原義である不確実性の提示の意を含んでいると考えたほうが妥当であろう。予想に反して船がにわかに動き出そうとしていたことを指している。あれよあれよという間に、「潮もかなひぬ」と完了してしまっている。だから、みんなで早く、早く、と声を掛け合っている。「今は漕ぎ出でな」と、提題の助詞ハが付いている。
 3句目の「月待てば」の「月」については、月の出を待つのか、満月になるのを待つのか、議論が分かれている。ほかに、雲から月が現れたとする説もある。万葉集に、「月」と「待つ」の出てくる用例を見ると、万8番歌以外に9首ある。

 夕闇は 路(みち)たづたづし 月待ちて 行(い)ませ吾が背子 その間にも見む(万709)
 闇の夜は 苦しきものを 何時(いつ)しかと 吾が待つ月も 早も照らぬか(万1374)
 妹が目の 見まく欲しけく 夕闇の 木の葉隠(こも)れる 月待つ如し(万2666)
 あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 妹待つ吾を(万3002)
 能登の海に 釣する海人の 漁火(いさりび)の 光りにい往(ゆ)け 月待ちがてり(万3169)
 …… あしひきの 山より出づる 月待つと 人には云ひて 君待つ吾を(万3276)
 足姫(たらしひめ) 御船泊てけむ 松浦(まつら)の海 妹が待つべき 月は経につつ(万3685)
 月待ちて 家には行かむ わが插(さ)せる あから橘 影に見えつつ(万4060)
 秋草に 置く白露の 飽かずのみ 相見るものを 月をし待たむ(万4312)

 このうち、万3685・4312番歌以外は、月の出を待つ意である。この2例が暦としての月の意で、残りは天体として夜を照らす月の意である。月歴として用いられる場合は、「経(ふ)」や「日に異(け)に」など、時間の経過を示す言葉としてわかるように示されることが多い。万3685番歌もその1例ではあるが、万4312番歌と似た性質を持っている。万4312番歌は、「七夕の歌八首」のうちの1首で、この場合の「月」は、来年の7月のことを指している。万3685番歌も、帰国すべき予定月のことを言っている。
 万8番歌の「月待てば」の場合、月歴として特定の月を言っているとは考えにくい。出航予定ならともかく、出航予定はありえまい。また、ひと月、ふた月、み月と指折り数えて待つという言い方や、上弦の月が満月になるのを待つという言い方は、上代に見られない。よって、月の出を待っていると解すべきである。先に述べたように、助詞のモが不確実性を表すことも考え合わせれば、満月になれば大潮になってすべてうまくいくという予定調和を歌った可能性、蓋然性ははなはだしく低い。月の出を待っていたら思いがけず潮が満ちてきて、さあ漕ぎ出そうと歌っている。
 万8番歌は、座礁からの解放を喜んだ歌であった。「漕ぎ出で」ることが眼目で、「潮」に潮流の意味は含まれていない。難波からの出航当初は2日で約100km進み、岡山県の東部に達している。岡山県東部から松山付近まで6日で約150km進んでいる。松山付近から博多までは関門海峡を通って約250kmである。3月の望月頃の大潮で船が動き出したとして、到着は3月25日、10日ほどかかっている。途中で神功皇后ゆかりの穴門の豊浦宮旧跡地、山口県下関市長府豊浦町に立ち寄ったであろうから、日程的にはちょうどいい。紀の「還りて・・・娜大津に至る。」という表現は、座礁からの脱出を物語っている。「御船」は、陸から海に還ったのである。
 船の安全を祈った呪術的な意味合いは感じられない。2句目の「乗り」という言葉は、乗物に乗って身を任せてゆくことである。安全無事を祈るというよりも、ようやく船出できる喜びを素直に表現している。乗組員一同の気持ちが一つになった時、この歌は歌われた。人々に共有されるような気持ち、共通する感覚が歌になってほとばしり出ている。
 左注の最後に、「但、額田王歌者別有四首。」とあった。おそらくこの4首は、同じように船出を歌ったものであろう。天皇の石湯行宮の記事の後に続いているから、熟田津で歌われた歌と思われる。座礁した日かそれに近い大潮の日、2月朔日頃の大潮の日、2月望月頃の大潮の日、3月朔日頃の大潮の日。ちょうど4回あってそのたびに船出を予祝する歌が歌われたとすれば4首である。むろん、大自然を相手にして、額田王の歌の力ではどうにもならなかった。最後に歌われた万8番歌は、予祝する歌ではなく、実際に動き出して興奮して作った歌である。歌の出来がいちばんすぐれるのは当然である。左注を付けた人が「即此歌者天皇御製焉。」と言っているのは、ほかの4首が冴えなかったから、同一の作者とは思われなかったのではないか。
 仮に、西暦2000年の松山(緯度33°51′N、経度132°43′E)の潮汐を、潮汐表aに見る(注7)と、旧暦1月14日は新暦の2月18日に当たり、大潮の第1日目である。潮時と潮位を示すと、1:53に最低潮位2cm 、8:42に最高潮位333cm、14:44に90cm、20:21に289cmをつけている。翌日以降、日におよそ2回ある高潮と低潮のうち、潮時の最高を旧暦で示すと、15日344cm、16日348cm、17日345cm、18日337cm、19日324cm、20日308cm、21日288cm、22日265cm、23日245cm、24日232cm、25日236cm、26日255cm、27日276cm、28日294cm、29日309cm、1月30日319cm、2月1日(新暦3月5日)327cm、2日331cm、3日331cm、4日326cm、5日315cm、6日310cm、7日295cm、8日276cm、9日263cm、10日268cm、11日288cm、12日310cm、13日325cm、14日334cm、15日336cm、16日333cm、17日327cm、18日316cm、19日303cm、20日302cm、21日285cm、22日266cm、23日248cm、24日242cm、25日252cm、26日271cm、27日290cm、28日305cm、29日318cm、30日326cm、3月1日(新暦4月5日)338cm、2日343cm、3日340cm、4日311cm、5日329cm、6日312cm、7日291cm、8日277cm、9日278cm、10日290cm、11日305cm、12日315cm、13日321cm、14日330cm、15日334cm、16日332cm、17日326cm、18日316cm、19日282cm、20日302cm、21日287cm、22日271cm、23日259cm、24日260cm、娜大津に着いた25日の松山の最高潮位は271cmである。
 最高潮位に注目すると、1月14日(新暦2月18日)の333cmに達するのは、同15・16・17・18日を過ぎると、2月14・15・16日、3月1・2・3日、同月15日である。きわめて限られている。検潮所での平均的なデータと、「潟」湖の実際とでは開きはあろうが、それでも大いに参考になる。しかも、1月16日の348cmを上回ることはない。潮の満ち方が多そうな日を見ると次のとおりである。

 旧暦2月望月頃は、午前中に最高潮位を示している。この傾向は、熟田津到着の旧暦1月望月頃にも当てはまる。月の出るはずもない朝から、「月待てば」とは歌わないであろう。また、旧暦3月朔日頃の月は見えなかったりか細かったりする。しかも、日中から天上にある月を「月待てば」とは歌わないであろう。旧暦3月望月頃を見ると、「月待てば」と歌いたくなるのは、日の入より後に月の出がある日であろうから、3月15日説が有力ではないかと感じられる。以上が、2カ月ほど足止めを食らっていたのではないかと推測できる状況証拠である(注8)
 この歌は、戦争に赴くときの歌ではあっても進軍ラッパではない。中大兄の「三山歌」(万13~15)と同じ道中でありながら、性質は全く異にしている。そして時代感覚の鋭い編者はこの歌を採録した。彼自身が新たに書き加えたのは、標目(「後岡本宮御宇天皇代」)と題詞(「額田王歌」)だけである。あとは紀と見比べて考えて下さいと願っている。そして、紀の方にはわずかな手掛かりが残された。そうまでしなければならなかった経緯を考えると、1つの疑問が浮かびあがる。
 紀が書かれたのは天武朝である。書いたのは官吏である。その際、以前の政権の平凡な失敗については、あまり隠さずに書いている。つまらないニュースも結構載っている。ところが、この座礁の事件は語られることなく終わっている。空白の約2カ月が生じている。なぜ書かれなかったのか。あるいは、座礁のきっかけを作ったのが大海人皇子、すなわち、後の天武天皇にあったからではないかとの印象を筆者はいだく。
 船上で大伯皇女が誕生したり、娜大津から名付けられたらしい大津皇子も生まれている。

 岡本の天皇[舒明天皇]と皇后と二躰(ふたはしら)を以て、一度と為す。時に、大殿戸に椹(むく)と臣木(おみのき)とあり。其の木に鵤(いかるが)と此米木(しめどり)と集まり止まりき。天皇、此の鳥の為に、枝に稲等(いなほども)を繋(か)けて養(か)ひたまひき。後の岡本の天皇[斉明天皇]・近江の大津の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇[天智天皇]・浄御原の宮に御宇しめしし天皇[天武天皇]の三躰を以て、一度と為す。(萬葉集註釋による伊予風土記逸文)

 斉明・天智・天武の3天皇が一緒に来たと記されている。万6番歌の左注に記されるところである。しかし、紀の一連の斉明天皇西征の記事に、大海人皇子の名は出てこない。失敗があったから大海人皇子の動静が伝えられていないのではないか。天皇の崩御や白村江の敗戦を後から振り返った時、熟田津の不祥事はその前兆であったと人々は考えるに違いない。その原因は大海人皇子が作った。そう思われては天武天皇は困るし、周りの宮廷人にとっても気まずいものである。
 万葉集では「兎道」(万7)という粉飾があり、「莫囂……」(万9)という難訓がある。その間に挟まれたのが、この熟田津の万8番歌である。原文の始まりに、「𤎼田津尓」とある。「𤎼」という字は、紀・万葉集に現れる。「熟」の字の異体字とされるが、管見ながら中国に見られるものではないようである。おそらく、編者の謎掛けをもとにした造字であろう。よく使われる「熟」の字の下にある点4つ、レッカは火を表す。火がついたように赤く熟しているというのである。そこで、上の部分の「孰」に似た字の「就」をもってきて、字義を伝えるにふさわしい字をこしらえた。
左:「𤎼田津」(西本願寺本万葉集、西本願寺本万葉集1993.を筆者模)、右:「熟田津」(元暦校本万葉集、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0007235を加工)
 本稿では「就」の字をすでに見ている。「御船西に征きて、始めて海路に(ゆ)く」、「天皇の喪、帰りて海にく」とあった。動詞が1つしかないわざとらしい文も、「就」字を上下に分離して、「御船、伊予に泊て、火田津(ほたつ)の石湯行宮に就(つ)く」と訓めばよかったのであった。紀に記される漢語(「御船泊于伊予就火・・田津石湯行宮」)を無理矢理なぞなぞ訓みしたものである。伊予に stop してはいるが、きちんと計画通りに就いているとの体裁にも読める。ただしそれは、火田(ほた)、つまり焼き畑の、水のない状態の津にある石湯行宮であるという自己撞着した表現になっている。指宿に知られる砂風呂のようなところがあったかもしれない。畑という字は国字であり、紀には、「田畝(たはたけ)」、「田圃(たはたけ)」、「田苑(たはたけ)」、「水陸(たはたけ)」、「陸田種子(はたけつもののたね)」などと記されており、当時はまだなかった。日下2012.の「潟」の解説にあったように、天然の良港にもなり得る潟湖と、遠浅で広い干潟とは、区別しづらい景観であった。満潮時に潟湖と思って入港したところが、実はふだんは干潟のところでだった。つまり、「就」とは、床に就いているような意味合いで使われている。「潮船」状態が長引いたということである。
 石湯行宮とは、座礁船自体のことを「行宮」としていたことを表すのではないか。船に缶詰というわけではないが、いちばん快適に過ごせるのは、「御船」という豪華船であったろう。斉明天皇は、神功皇后同様、「忿心」を得ていた。怒りを覚えていたのである。「御船」が干潟の上にあるとは、通常の停泊で碇を下すものが、碇を上げているという洒落が成り立つ。怒りがこみ上げてきて仕方がないような場所にいらっしゃった。万葉集のイカリ(碇・忿(怒・慍))の用字には次の例がある。

 近江の海 沖漕ぐ船の 重石(いかり)下ろし 忍びて君が 言(こと)待つ吾ぞ(万2440)
 大船の たゆたふ海に 重石下ろし いかにせばかも 吾が恋止まむ(万2738)
 大船の 香取の海に 慍(いかり)下ろし いかなる人か 物思はざらむ(万2436)
 はね蘰(かづら) 今する妹が うら若み 笑みみ慍(いかり)み 着(つ)けし紐解く(万2627)
 十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもへりのいかり)を棄てて、人の違(たが)ふことを怒らざれ。(推古紀十二年四月)

 前3例は碇の意、最後の例のみ怒の意である。3例目は、 anchor の意に「慍」の字を用いた借訓である。碇には「沈石」(播磨風土記飾磨郡)との用字もあり、通常は下ろして用を成すものである。怒りがこみ上げてきて仕方がない場所は干上がった畑にして、碇を上げたままに用を成し、船は流されることなく泊まっている、ないしは、就いている。じっと滞在して、御在所と呼ぶに値する。それをイハユの行宮と命名した。イハという語は、実物の石の大きなものの意のほかに、それを材料に使った船の碇の意、霊験性を表す意がある。大石に穴をあけたり、網状にしてそこへ大石を入れたり、木に括りつけたものなどがある。碇とイハとはよく似ているのである。つまり、イハ(岩・磐・巌)+アユ(肖)→イハユ(石湯)と名づけてみた。所謂(いはゆる)行宮が止まっているから終止形を以てして、イハユと呼んでいる。
 万6番歌左注に見える「斑鳩比米」なる「二鳥」とは、イカルガヒメ、すなわち、イカル(怒)+ガ(助詞)+ヒメ(姫)という皇極・斉明天皇のあだ名をもとに作られた伝承であったかもしれない。彼女の怒りの肉声は、紀に録写されている。大化改新のクーデターが宮中で行われた箇所にも、彼女の怒りは記されている。

 天皇、大きに驚きて、中大兄に詔して曰はく、「知らず、作(す)る所、何事有りつるや」とのたまふ。(皇極紀四年六月)(注9)

 碇と怒との関係は、その図像によっても証明される。おおきな石に蔓のロープを絡ませたものを碇に使った。他方、怒りを表した忿怒の像、不動明王の頭部は、まるで、碇のように、ロープ状の弁髪や凸凹のある顔つきになっている。碇を下ろした船は不動であることになる。
碇石(森の宮遺跡、㈶大阪市文化財協会編『事業のあらまし 1979-1999』同発行、1999年、https://www.occpa.or.jp/PDF/aramashi_20.pdf(3/8))
左:不動明王立像(部分)(平安時代、11世紀、東博展示品)、中・右:十巻抄(不動明王の項、紙本墨画淡彩、鎌倉時代、13世紀、東博展示品)(注10)
 船団がどの程度の規模であったかはわからない。

 大将軍大錦中阿曇比羅夫等、船師(ふないくさ)一百七十艘(かはら)を率(ゐ)て、豊璋等を百済国に送りて勅を宣りて、豊璋等を以て其の位を継がしむ。(天智紀元年五月)

 「一百七十艘」という船の数は、後述する白村江の海戦の時の唐軍の船の数と同じである。なお、天智10年11月に唐領百済から倭に向かった船の数は、47隻、人数は2000人とある。そのまま行くとびっくりして一触即発になるだろうからと、事前通告に使者が来ていると知らせている。この記事は信憑性が高い。斉明天皇の船団の船数を絞り込むことはできないものの、相当数であったことは確かである。
 船団を組んで進んでいた時、大海人皇子が水先案内人(パイロット)役を担っていたと考える。彼の乳母はその名から、丹後国加佐(かさ)郡凡海(おおしあま)郷、現在の京都府舞鶴市付近に拠点を置いていた凡海(大海)氏であり、いわゆる海人族に育てられたとされている。そのつてで航海技術を持った人は雇われていたに違いあるまい。誘導されるままに斉明天皇らの乗った御船号は進んだ。しかし、難波津のある大阪湾や山陰・北陸の日本海側の海岸の状況と、瀬戸内海西部とでは様子が違っていた。潮汐においてである。

※潮汐表a・bによる。*は「日本沿岸736港の潮汐表」「Anglrタイドグラフ」による。略最高高潮面:満潮時などにこれより高くならないと想定される潮位、大潮升:最低水面から大潮の平均高潮面までの高さ、大潮差:大潮の平均潮差、小潮升:最低水面から小潮の平均高潮面までの高さ、小潮差:小潮の平均潮差、平均水面:潮汐がないと仮定した海面、平均潮差:満潮位と干潮位の平均潮差、平均高潮間隔:月がその地の子午線を経過してから高潮となるまでの平均時間(注11)
 大潮差は、日本列島沿岸では九州の東シナ海側が最も大きく、有明海の佐ノ江では4.6mにも達する。ところが日本海側ではほとんどなく、舞鶴で20㎝に満たない。問題となる松山では2.8m、博多では1.6mである。難波津の値を現在の大阪にとると、1m弱である。潮の干満の大きさに驚いたことであろう。油断して接岸したところ、干潮になると沖合いはるかに干上がっていた。いちばん大きな「御船」号は、干潟の奥に取り残された。大海人皇子は皮肉られて仕方のない立場に立たされている。
 古代の船の運航については、上述したように、潮の干満を利用した座礁形式の停泊が行われていた。それがうまくいくためには、船が泊まる津となる場所が、安定的な潮の干満を繰り返していることが望ましい。古代によく利用された難波津(大阪)をみると、大潮の時の平均的な水面の高さ(大潮升)は1.4m、小潮の時のそれ(小潮升)は1.1mである。わずかに30cmしか違わない。つまり、大潮、小潮にあまり関係なく、日に2回、定期的に潮が満ちてくる。これは、船の発着便として必ず日に2回チャンスがあるということであり、時刻表ができることを意味する。そして、海が荒れようとも、砂嘴によって守られているラグーン(潟湖)にある難波津は、天然の良港になっていた。
 日本で最も干満差の大きい有明海の住ノ江では、大潮升5.1m、小潮升3.5mである。1.6mも差がある。大潮の時に船で陸地いっぱいまで来て座礁式に停泊をすると、概念的には、15日後、30日後、45日後、といった次の満潮を待たなければ、船は再び海水の上に浮かぶことはなくて出航できないことになる。そこをタイダル・フラット(干潟)と呼ぶ。熟田津も同じであった。 
 白村江の戦いの様子は、紀では簡潔に書かれている。天智2年(663)に戦局は急転回する。百済王に擁立された豊璋は、6月になって近侍の者の讒言を聞き入れてしまい、将軍の鬼室(きしつ)福信(ふくしん)と内輪揉めを起こす。福信は滅亡した百済を孤軍奮闘し、どうにか再興にこぎつけた英雄であった。結局彼は、「腐狗痴奴(くちいぬかたくなやつこ)」と奸侫な輩を罵りながら死刑に処せられた。8月13日には、良将のいなくなったことを知った新羅軍が、百済の王城、州柔(つぬ)を目指して押し寄せる。三国史記・金庾信伝にも記載がある。豊璋は、そのとき牙城であるべき州柔城を抜け出して倭の援軍の来る白村江へ赴く。17日、敵軍は州柔城を包囲し、また唐の海軍も戦艦170艘が白村江に陣を堅固にして位置についた。
 27日に倭の海軍の先発隊が白村江に到着し、緒戦に敗れて退却する。決戦は翌28日である。

 秋八月の壬午の朔甲午(13日)に、新羅、百済王(くだらのこしき)の己が良将(よきいくさのきみ)を斬れるを以て、直に国に入りて先づ州柔を取らむことを謀れり。是に、百済、賊(あた)の計る所を知りて、諸将(もろもろのいくさのきみ)に謂(かた)りて曰く、「今聞く、大日本国(やまと)の救将(すくひのいくさのきみ)廬原君臣(いほはらのきみおみ)、健児(ちからひと)万余(よろづあまり)を率て、正に海を越えて至らむ。願はくは、諸の将軍等は、預め図るべし。我自ら往きて、白村(はくすき)に待ち饗へむ」といふ。
 戊戌(17日)に、賊将(あたのいくさのきみ)、州柔に至りて、其の王城(こきしのさし)を繞(かく)む。大唐(もろこし)の軍将(いくさのきみ)、戦船(いくさふね)一百七十艘(ももあまりななそふな)を率て、白村江に陣烈(つらな)れり。
 戊申(27日)に、日本(やまと)の船師(ふないくさ)の初づ至る者と、大唐の船師と合ひ戦ふ。日本、不利(ま)けて退く。大唐、陣(つら)を堅めて守る。
 己酉(28日)に、日本の諸将と、百済王と、気象(あるかたち)を観ずして、相謂りて日く、「我等先を争はば、彼自づからに退くべし」といふ。更に日本の伍(つら)乱れたる中軍(そひのいくさ)の卒(ひとども)を率(ゐ)て、進みて大唐の陣を堅くせる軍を打つ。大唐、便ち左右(もとこ)より船を夾(はさ)みて繞み戦ふ。須臾之際(ときのま)に、官軍(みいくさ)敗続(やぶ)れぬ。水に赴きて溺(おぼほ)れ死ぬる者衆(おほ)し。艫舳(へとも)廻旋(めぐら)すこと得ず。朴市田来津(えちのたくつ)、天に仰ぎて誓ひ、歯を切(くひしば)りて嗔り、数十人(とをあまりのひと)を殺しつ。焉に戦(たたかひ)死(う)せぬ。是の時に、百済の王豊璋、数人(あまたひと)と船に乗りて、高麗(こま)に逃げ去りぬ。(天智紀二年八月)

 豊璋は高句麗に逃げ、9月7日に州柔は落城する。百済側の内訌や王の単独行動も不可解であるが、倭の海軍も、戦術も何もあったものではない。白村江、錦江の河口を我も我もとただ進んで敗れている。唐の戦艦は10日も前から準備して待っていた。そこへ「気象」を考えないで進軍し、両側から挟まれてすぐに負けている。退却しようにも、「艪舳不廻旋。」となってしまった。
 舳艫とは、もとは船の大きさを示す熟語であった。それを舳と艫とに分解して、船首と船尾とを表そうとした。ところが、どちらがどちらか混乱していく。新撰字鏡には、「舳 以周・治六二反、艪舳、止毛(とも)」、「艫 力魯反、舟前鼻也、戸(へ)」、和名抄には、「舳 兼名苑注に云はく、船の前頭は之を舳〈音は逐、楊氏漢語抄に、船頭の水を制する処なり、和名は閇(へ)と云ふ〉と謂ふといふ。」、「艫 兼名苑注に云はく、船の後頭は之を艫〈音は盧、楊氏に、舟後に櫂を刺す処なりと曰ひ、和語に度毛(とも)と曰ふ〉と謂ふといふ。」とある。名義抄では、区別をあきらめて「舳 ヘ、トモ」、「艫 トモ、ヘ」と両訓をつけている。紀では、「舳艫」・「艫舳」の例は、全部で5例あり、傍訓ではそれぞれ、トモヘ、ヘトモ、また後者はフネとも附られている。

 ……皇軍(みいくさ)遂に東にゆく。舳艪(ともへ)相接(つ)げり。方に難波碕(なにはのみさき)に到るときに、……(神武前紀戊午年二月)
 又、筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖(おや)五十迹手(いとて)、天皇の行(いでま)すを聞(うけたまは)りて、五百枝の賢木(さかき)を抜(こ)じ取りて、船の舳艫(ともへ)に立てて、……穴門(あなと)の引嶋(ひこしま)に参迎(まうむか)へて献る。(仲哀紀八年正月)
 是歳、新羅の貢調使(みつきたてまつるつかひ)知万沙飡(ちまささん)等、唐の国の服(きもの)を着て、筑紫に泊れり。朝庭(みかど)、恣に俗(しわざ)移せることを悪みて、訶嘖(せ)めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請(まを)して曰(まを)さく、「方に今新羅を伐ちたまはずは、後に必ず当に悔有らむ。其の伐たむ状は、挙力(なや)むべからず。難波津より、筑紫海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳(ふね)を浮け盈てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」とまをす。(孝徳紀白雉二年是歳)
 是歳、百済の為に将に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖(つくりをは)りて、続麻郊(をみの)に挽き至る時に、其の船、夜中に故も無く艫舳(へとも)相反(かへ)れり。衆(ひとびと)終(つひ)に敗れむことを知(さと)りぬ。(斉明紀六年是歳)

 紀において、舳艫、艪軸の使い分けに意味があったかどうか、筆者には整理がつかない。斉明紀六年是歳条の例は、新造船を続麻郊、現在の宇治山田に近い三重県多気郡明和町まで航行させ、一晩浜辺に陸揚げしておいた。ところが、翌朝になってみると、船首と船尾とが反対を向いていたというのである。「其船夜中無故艫舳相反」と書いてあるが、何のことはない、夜中に潮が満ちて船が浮かび、くるりと向きを変えて朝には潮が引いていたということである。宇治山田の大潮差(平均高高潮-平均低低潮)は1.7mである。十分にあり得る値である。「無故」とは理由がないのではなく、潮汐という自然現象がわかっていないことを示したのに他ならない。前後不覚に「艫舳」と反してしまった。敗戦の予兆を表す記事にふさわしい。
 天智紀二年八月条の白村江の戦いで、「艪舳不廻旋。」とあるのは、みじめな敗戦記事を端的に表現している。実際に起ったのは、河口をいったん遡ったらUターンできずに壊滅したという事態である。引き返そうにも向きを変えられず、唐軍に殲滅せられた。百済を救うために新羅と戦うはずが、援軍の唐と戦って敗れている。戦術的にも外交的にも方向転換が利かなかったことを象徴的に表した記事である。
 「気象」とは、木や風向きなど大気中の変動を表す言葉であるが、ここでは潮位の変化、干満の差の大きさを指し示している。唐の海軍が陣を布いたのは8月17日である(注12)。月齢と潮汐の関係が、それも季節的な変化について経験的に理解されている。特に秋分点頃がいちばん上げ潮がきついと知っていたに違いない。ちょうどその条件のとき、唐軍は白村江において、干満の具合を確かめながら、艦船はそれぞれの持ち場についている。
 白村江、今の錦江(クムガン)の河口、群山(クンサン)では、大潮差は6.0m、小潮差でも2.8mに及ぶ。単純計算で熟田津の2倍以上である。天智紀2年は、元嘉暦で記されていると推定する一般の説によれば、閏月のない年で、8月は小月に当たって29日までである。つまり、朔の2〜3日前に河口で戦っている。白村江の決戦は、天智2年(663)8月28日である。潮汐表bによって、韓国、全羅北道の群山(緯度35°59′N、経度126°43′E)における、新暦の2002年10月4日(旧暦8月28日)の値を参考にみると、月齢は27.0、月の南中時は10:25である。当日の潮位(潮時)は、614cm(1:33)、136cm(8:30)、574cm(13:51)、83cm(20:40)となっている。約5mもの潮位差がある。今日、セマングムという世界一長い防潮堤が築かれているところである。唐軍は、干満差の激しいことを17日に着いて知っている。2002年でいえば9月23日に当たり、612cm(4:29)、104cm(11:27)、606cm(16:41)、0.7m(23:30)とさらに激しい(注13)
 決戦の時刻が何時頃なのか記載がないが、昼間の戦いであったなら、朝、引いていた潮が、午前中にだんだんと上げ潮になっていって5mほど水位が高まり、その後は反対にどんどん引き潮に変わった。つまり、「艪舳不廻旋。」とは、午前中に川の逆流に乗って先を争って敵に進撃していったところ、両側に陣構えしていた唐の艦船は、川の中央へ向って並んで左右から進み、乱れ進んできたものの流れが止まって動けなくなった倭の艦船を挟み撃ちにした。向きも変えられない倭の艦船を俎上にとらえて、火矢で射、次々と焼いていった。唐側の資料では、旧唐書・劉仁軌伝に、「仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、焚其舟四百艘。煙燄漲天、海水皆赤。賊衆大潰、余豊脱身而走。」とある。実際の戦闘がいかなるものであったのか確かめ切れないものの、日本書紀のこの部分を書いた人の表現としては、そう考えるのが妥当であろう。錦江の逆流を起こす役割を果しているのは、伍子胥ならぬ百済の福信である。海を知らない水軍が、海に敗れたのであった。
 もとより、万葉集の編者がこの熟田津の歌を撰んだのは、極めて杜撰な参戦体制を伝えるためであったろう。狂信的な斉明朝の本質に肉薄するのに、とても鋭い切り口である。しかし、それだけを伝えたかったのではない。都に残っていた有力豪族の中には、天智天皇が位につき、中臣鎌足が引き続き内大臣の座に座ることに反感を覚えていた者もあったであろう。天智称制は、6年5カ月に及んでいる。その後、近江遷都に批判的な勢力もいたはずである。しかし白村江の敗戦の責任は、司令官の中大兄1人にあるのではなかった。反旗を翻すにも、担ぎ上げるに足る皇子がいなかった。大海人皇子の失策こそが敗因となれば大義が立たない。そういう政治力学を編者は伝えたかったのではないか。歌が予祝するもの、時代をリードするものと考えられたなら、斉明天皇代の皇子どうしの力関係だけでなく、次の天智朝を占う意味にも解釈されていたとして過言ではない。
 万葉集の最初の編者は、日本書紀と深く関わりを持っていると筆者は考えているが、紀が書かれたのは早くても天武紀十年(681)三月条にある詔以降のことである。額田王の熟田津の歌の斉明七年(661)から20年経っている。彼はこの歌の内実を知っていた。しかし、後の人のつけた左注は要領を得ていない。この額田王の歌は、歌われてからほんの少しの間だけ話題になり、しばらくしてからは決して人の口に上ることがなくなったのであろう。斉明天皇の崩御のこともある。戦時中にもかかわらず、政府の失敗からの解放を喜んでいる歌でもある。白村江の敗戦を迎え、熟田津のしくじりが後の戦況に大きく影響しているうえに、経験が教訓として少しも生かされていないとしたら、人々は口を緘したに違いない。潮の干満を、ヤマト朝廷が身に染みて知った最初が熟田津であったということである。そして、万葉集の当初の編纂は、当時の専制政治に対して危険を伴う私秘撰であったと考えられる。

(注)
(注1)7世紀の遺構については、橋本2012.参照。
(注2)【高槻市】クローズアップNOW「今城塚古代歴史館 秋季特別展~古墳時代の船と水運」(https://www.youtube.com/watch?v=NS9Q2yQgPmQ)参照。
(注3)多くの感染症は科学的知見を得るまで、「神忿」として捉えられてきた。
(注4)この「笠」については、新川1999.、拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注5)記紀のなかでも、大国主神(おおくにぬしのかみ)はいろいろな名前を持っており、名を替えては変身を遂げ、それまでとは異なる役割を担っている。大己貴神(おおあなむちのかみ)(大穴牟遅神(おおあなむじのかみ))となれば国作り、八千矛神(やちほこのかみ)となれば遠くまで婚活に出掛けていた。日本武尊(倭建命、やまとたけるのみこと)は、もとは日本童男(やまとおぐな)(倭男具那王(やまとおぐなのみこ))といった。その名易えの意味合いについては、拙稿「ヤマトタケル論─ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件─」参照。また、応神天皇は皇太子時代、角鹿(つぬが)(敦賀)の気比(けひ)神宮の大神と名を交換したという話がある。拙稿「古事記の名易え記事について」参照。
(注6)一例としてあげると、1944年に起きた大規模な昭和東南海地震も、情報統制され、被害は隠蔽されている。
(注7)旧暦で閏月の現れる年の前年で、新暦の日付との対応が新暦に2月29日があるというだけでほぼ同じということで参照した。
(注8)海上保安庁海洋情報部の「潮汐推算」(https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/TIDE/tide_pred/index.htm)から、斉明7年(661)の松山の潮汐模様が検索可能である。八木2010.、清原2013.らも3月15日説をとるが、座礁失態とは考えていない。「八番歌の夜の船出は、当事者たちが知恵と経験を縒り合わせ、満月の晩の月と潮の妙なる照応関係を行程上の要件に組み込んで演じたページェントであった」(八木2010.31頁)としている。船の航行において、海を横切ることをことさらに難事とするが、瀬戸内海の漁業者は当時も日常的に船を出して漁をしていたであろう。
(注9)筆者は、「不知所作、有何事耶。」(皇極紀四年六月)は、「所作(せむすべ)知らず、何事有りつるや。」と訓むものと考える。拙稿「乙巳の変の三者問答について」参照。
(注10)不動明王像についての儀軌として伝わるもので、飛鳥時代にさかのぼるものは今日、見られない。
(注11)潮汐に関する用語については、海上保安庁第六管区海上保安本部・海の相談室「潮汐に関する用語について」(http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic28.htm)において、「広島港の潮位関係図」の図を用いたわかりやすい解説に負っている。
(注12)「銭塘江の海嘯」(http://china.hix05.com/now-2/now211.pororoca.html)参照。アマゾン川のポロロッカと並び称される潮津波、タイダル・ボアである。ポロロッカは春分の頃の朔月の大潮時、銭塘潮は秋分の頃の望月の大潮時に大波が見られる。この現象については、春秋時代、呉越の争いの最中に、奸侫な者の讒言によって、呉王夫差から死を賜った伍子胥の怨念のせいであるという迷信があったらしい。1世紀、王充の論衡・書虚篇には否定的な見解が述べられている。「伝書に言はく、呉王夫差は伍子胥を殺し、之を鑊(かま)に煮て、乃ち鴟夷の橐(ふくろ)を以て之を江に投ず。子胥恚恨し、水を駆りて涛を為し、以て人を溺殺す。今時会稽の丹徒の大江、銭唐の浙江に、皆子胥の廟を立つ。蓋し其の恨心を慰め其の猛涛を止めんと欲するなりといふ。夫れ呉王の子胥を殺し、之を江に投ずは実なるも、其の恨、急に水を駆りて涛を為すと言ふ者は、虚なり。……涛の起るや、月の盛衰に随ひ、小大満損、齊同ならず。(伝書言、夫差殺伍子胥、煮之於鏤、乃以鴟夷橐投之於江。子胥恚恨、駆水為涛、以溺殺人。今時会稽丹徒大江、銭唐浙江、皆立子胥之廟。蓋欲慰其恨心止其猛涛也。夫殺子胥投、之於江実也、言其恨急駆水為涛者虚也。……涛之起也、随月盛哀、小大満損、不齊同。)」とある。
(注13)20世紀の朝鮮戦争時、仁川(インチョン)上陸作戦において、国連軍(アメリカ軍)は潮の干満差の大きいことを十分に検討している。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第1巻』笠間書院、2006年。
石井1983. 石井謙治『図説和船史話』至誠堂、昭和58年。
井上2000. 井上光貞著、吉村武彦編『天皇と古代王権』岩波書店(岩波現代文庫)、2000年。
圓仁・深谷1990. 圓仁・深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』中央公論社(中公文庫)、1990年。
折口1995. 折口信夫「額田女王」折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集6』中央公論社、1995年。
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梶川2009. 梶川信行『額田王』ミネルヴァ書房、2009年。
清原2013. 清原倫子「斉明天皇の筑紫西下の意義と行程に関する一考察─熟田津の船出を中心に─」『交通史研究』第80巻、2013年4月。https://www.jstage.jst.go.jp/article/kotsushi/80/0/80_KJ00010033444/_article/-char/ja/
日下2012. 日下雅義『地形からみた歴史』講談社(講談社学術文庫)、2012年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
古典大系本万葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
澁澤1984. 澁澤敬三・神奈川大学日本常民文化研究所編『新版 絵巻物による日本常民生活絵引 第五巻』平凡社、1984年。
新川1999. 新川登亀男「日羅間の調」『日本古代の対外交渉と仏教』吉川弘文館、1999年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山田福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
高見2004. 高見大地「熟田津とはどこか─古代の良港と微地形─」越境の会編『越境としての古代2』同時代社、2004年。
潮汐表a 海上保安庁水路部編『平成十二年 潮汐表 第1巻─日本及び付近─』海上保安庁発行、平成12年。
潮汐表b 海上保安庁水路部編『平成十二年 潮汐表 第2巻─太平洋及びインド洋─』海上保安庁発行、平成12年。
東野2010. 東野治之「古代在銘仏二題」稲岡耕二監修、神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十一集』塙書房、平成22年。
直木1985. 直木孝次郎『夜の船出』塙書房、1985年。
西本願寺本万葉集 主婦の友社編『西本願寺本万葉集 巻第1』おうふう、1993年。
橋本2012. 橋本雄一『斉明天皇の石湯行宮か・久米官衙遺跡群』新泉社、2012年。
古橋1994. 古橋信孝『万葉集─歌のはじまり─』筑摩書房(ちくま新書)、1994年。
益田2006. 鈴木日出男・天野紀代子編『益田勝実の仕事3』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
身崎1998. 身崎壽『額田王』塙書房、1998年。
八木2010. 八木孝昌『解析的方法による万葉歌の研究』和泉書院、2010年。
山之口2013. 山之口貘『新編山之口貘全集第1巻 詩篇』思潮社、2013年。
吉井1990. 吉井巌『萬葉集への視覚』和泉書院、1990年。
吉田2008. 吉田金彦『吉田金彦著作選4─額田王紀行─』明治書院、平成20年。
吉村2012. 吉村武彦『女帝の古代国家』岩波書店(岩波新書)、2012年。

※本稿は、2015年1~2月稿を、趣旨に変更はないまま、新たに接した文献を加え、2020年11月に改稿したものである。

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