古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

日本書紀冒頭部の訓みについて─原文の「搏」や「埸(堨)」とは何か─

2023年06月01日 | 古事記・日本書紀・万葉集
一 はじめに

 日本書紀は次の文で始まる。

 古天地未剖陰陽不分渾沌如鶏子溟涬而含牙及其清陽者薄靡而為天重濁者淹滞而為地精妙之合搏易重濁之凝埸難故天先成而地後定然後神聖生其中焉……(注1)

 この文章は、古くから淮南子を含めた漢籍文の引用作文であるとされている(注2)。と同時に、古訓では影印のように訓まれている。

 いにしへ天地あめつちいまわかれず、陰陽めをわかれざりしとき、渾沌まろかれたること鶏子とりのこごとくして、溟涬ほのかにしてきざしふふめり。すみあきらかなるものは、薄靡たなびきてあめり、かさなりにごれるものは、淹滞つつゐてつちるにおよびて、くはしくたへなるがへるはあふやすく、かさなりにごれるがりたるはかたまがたし。かれあめりてつちのちさだまる。しかうしてのちに、神聖かみなかれます。……(注3)

 ここですでに本文の訓みが問われている。本文校訂の領域と分かつことができない問題が横たわっている(注4)

二 研究の現状

 大系本日本書紀には、次のようにある。

 ……最初の四行は、まず中国の古伝承を組合わせて一般論として提示している。「昔、天地も未だ分れず、陰陽の対立も未だ生じなかったとき、渾沌として形定まらず、ほの暗い中に、まず、もののきざしが現われた。その清く明るいものは高く揚って天となり、重く濁ったものは凝って地となった。しかし、清くこまかなものは集り易く、重く濁ったものは容易に固まらなかった。だから天が先ず出来上って、後れて大地が定まり、その後に至って神がその中に誕生したと伝えている」の意。これは淮南子や芸文類聚、天部などに見える、数ある中国の神話の中から日本の神話に似た話を採って纏めてある。(17頁)
 渾沌如鶏子、溟涬而含牙…… ……太平御覧(天部)引用の三五歴紀の原文には「溟涬始牙、濛鴻滋萌」とあって、溟涬(自然の気)が始めて芽(きざ)したの意と解される。しかし書紀では「溟涬而含牙」とそれを改め、溟涬(自然の気)がただよって牙(きざし)を含むようになった。つまり、何らかモノザネ(物の種)が生じたの意としている。それは、日本の古伝承に、アシカビが萌え出てモノザネとなったとあるので、それに合わせるように、原文を少し変えたものと思われる。このような点からも、書紀冒頭の文章が、単なる潤色のために、中国の文章を借りたものとするのは正確な見方といえず、むしろ、日本の神話に合わせて漢文を取り入れたものと見られる。(309頁)

 ヤマトの人が自分たちの考えに合うように適宜チョイスしていって文章が作られているとしている(注5)。ところが、「清陽」以下のところになると歯切れが悪い。

 清陽…… きらきらかがやくものの意。淮南子、天文訓の「清陽者薄靡而為天、重濁者凝滞而為地」による。三五歴紀にも「天地開闢、陽清為天、濁陰為地」とある。「清」は「精」に通じる。後文の「精妙」は「清陽」をいいかえたもの。淮南子、天文訓の「清妙之合專易、長濁之凝竭難」による。專は音ダン。集韻に團、周礼作專とある。專と摶は通用。摶は、広韻に、度官切。音ダン。まるく集まる意。名義抄にムラカルと訓む。これを搏、音ハクと誤りアフグと訓をつけた古写本が多い。竭は音ケツ。つきる、きわまる意。凝竭で、すっかり固まりきる意。竭を場などに誤る古写本が多い。芸文類聚(天部)引用の広雅には、「太初、気之始也、清濁未分、太始、形之始也、、濁者為形、太素、質之始也…二気相接、剖判分離、」とみえる。なお、清陽の語については、同じく芸文類聚引用の黄帝素問にも「積陽為天、故天者清陽也」とみえる。(309~310頁)

 一転して字を誤ってその誤字に古訓が付けられているとしている。この誤写説を展開すると、文章の句読についても誤りであるとする現在の通説に至る。日本書紀に対するいわゆる漢文訓読には、歴史的誤解が含まれているというのである。

 精-ナル ガ ヘルハ ギ ク、重-レル ガ 凝 リタルハ リ シ。(日本書紀)
 くはしくたへなるがへるはあふやすく、かさなりにごれるがりたるはかたまがたし。
 清-妙合-スルハ ク、重-濁凝-スルハ シ。(淮南子・天文訓)
 清妙せうめう合専がふせんするは易く、重濁ぢうだくぎようけつするは難し。(注6)

 今日読まれている淮南子のテキストは大方このようにあるが、本によっては「凝滞」は「淹滞」とあり、「専(專)」は「慱」のほか「尃」に作るものもある。
 小島2019.(注7)は、「『淮南子』(天文訓)による……[日本書紀]の文章は、漢文としてみるべきであり、「がふたん」「ぎょうけつ」は、それぞれ切り離せない一語である。「合へるは……、凝りたるは……。」と訓む伝統訓は、何としても避けるべきである。」(113頁)とし、西宮1977.も、「アヘルハアフギヤスク・コリタルハカタマリガタシと訓読してゐるのは、誤写・誤訓も混へ、単位の把握をも違へてゐるものであると言ふべく、奈良時代の訓読態度とは思へないのである。」(11頁)とする。碩学たちの漢文解釈に対して異論を差し挟む風は管見に入らない。
 筆者は、この議論には根本的な倒錯があると考える。我々が行おうとしているのは日本書紀冒頭部分の訓みである。「清陽」以下の文章が淮南子の字面によく似ているからと言って、淮南子のとおりであると決めつけるのは危うい。日本書紀の執筆者が淮南子を(そのものではないかもしれないが)見ていることは確かであるが、だからと言って全部が全部丸写ししたかどうかなどわからない。そしてまた、当該文章が“漢文”として読まれることを期待して書かれたものかどうかという点にも及ぶ。漢文のように見える和文ではないかという見方である。
 日本書紀の字を見ると、「竭」は「埸」や「堨」に見え、「専(專)」は「搏」や「榑」に見える。もともとの淮南子に「専(專)」を「尃」に作るものがあるからといって、日本書紀の執筆者が誤写したとは決め切れず、また、文意のとり方も変わってくる。「合摶」や「凝竭」は熟字であっても、「合搏」や「凝埸(堨)」を熟字とするには及ばない。読み下してヤマトコトバの上で理解されるなら、日本書紀執筆者はそのつもりで書いたと考えるべきである。漢文訓読の問題ではなく、漢文に擬えた作文の問題である。三五暦記の「溟涬始牙」を書紀では「溟涬而含牙」と改めたように、淮南子でも「搏」や「埸(堨)」に変えた可能性が高い。古訓をもって伝えられているのだから、そう受け取れるかどうかを確かめることが日本書紀研究の正攻法である。読みたいのは日本書紀であり、淮南子ではない(注8)

三 「搏」「堨」「埸」字での理解

 淮南子の「竭」に当たる部分は日本書紀では「埸」や「堨」に見える(注9)。「堨」は井堰のことや水を堰き止めることをいう。集韻に「閼 或作堨」とあり、説文に「閼 遮𢹬也、从門於聲」とある。また、「埸」は境のこと、説文に「埸 疆也、从土易聲」、康煕字典に「説文 田畔也、大界曰疆、小界曰埸」とある。畔と書くあぜ・・くろ・・は水を遮って貯めている。つまり、どちらの字も水を堰き止めることを言っている。
 ヤマトにおいて、そのことを司っていた神としては、記紀に「伊都之尾いつのを羽張神はばりのかみ」、「あめのばりのかみ」があげられる。

 また、其の天尾羽張神あめのをはばりのかみは、さかしまにあめやすかはの水をき上げて、道をふさるが故に、あたし神は行くこと得じ。(記上)(注10)
 時に、天石窟あまのいはやに住む神、つのをはしりのかみみこみかはやひのかみ、甕速日神の子ひのはやひのかみ、熯速日神の子たけみかづちのかみす。(神代紀第九段本文)
 かれれるたちの名は、あめばりと謂ふ。亦の名は、ばりと謂ふ。(記上)

 「所斬之刀」(記上)とは、カグツチを斬った十拳剣とつかのつるぎのことを言っている。それがあめいは天石窟あまのいはや)にいるという。そこは岩窟であり、籠る居ることが行われる場所である。籠り堂に同じく祈りや瞑想の空間であって、仏像が置かれていたり、そのための厨子があったり、岩窟自体を厨子と見立てもした(注11)。ヲハバリ、ないし、ヲハシリは、ヅシ(厨子)と関係がある言葉と感じられたから、この個所に登場し、そう名づけられていると考えられる。
 新撰字鏡に、「躑 馳戟・都歴二反、蹢字同、踦也、躅也、乎波志利をばしり」とある。漢語の躑躅(テキチョク)は、行っては止まりをすること、二、三歩進んでは止まること、さらに、片足跳びのケンケンをいう。武烈前紀条に「躑躅たちやすら従容たちほこる。」とある。この熟語はまた、ツツジとも訓む。植物のツツジの語源は明らかでないが、和名抄に、「羊躑躅 陶隠居に曰はく、羊躑躅〈擲直の二音、伊波都々之いはつつじ、一に毛知豆々之もちつつじと云ふ〉は羊、誤りて之を食ひ躑躅つまづきて死す、故に以て之を名づくといふ。」とある。今日、レンゲツツジと呼ばれる種であるとされている。よく似た性質と捉えられた樹にアセビがある。古語に「あしび」、万葉集に「馬酔花あしびのはな」(万1903・1926)とも書かれ、馬がこの葉を食べるとすぐに酔うから名づけられたとされている。和名のアシビについては、足痺あししひ(足癈)の意かという。
 羊には、仏教に「羊の歩み」という慣用句がある。大般涅槃経に「是の寿命を観ずるに、常に無量の怨讎の遶る処と為り、念々に損減して増長する有ること無し。猶ほ山の瀑水の停住するを得ざるがごとく、亦朝露の勢久しくは停まらざるが如く、囚の市に趣きて歩歩死に近づくが如く、牛羊を牽きて屠所に詣るが如し。(観是寿命、常為無量怨讎所遶、念念損減無有増長。猶山瀑水不得停住、亦如朝露勢不久停。如囚趣市歩歩近死、如牽牛羊詣於屠所。)」(巻第三十八)と見え、「明けたてば、川の方を見やりつつ、羊の歩みよりもほどなき心地す。」(源氏物語・浮舟)と使われている。羊は生贄に捧げられるべき動物と認められていたことによる。すなわち、囚人同様、市中引き回しのうえ屠所にて獄門にされるのである。死を意味する涅槃と密接な関係にあると捉えられており、見せしめのために首をさらされる刑場は、人々が集まりやすい広い河原や大路の交差点であり、ツジ(辻)に牽かれるからヒツジと和訓に名づけられたと考えられる。ヒク(牽)、ヒツジ(羊)ともヒは甲類である。推古紀七年九月条に「百済、らくひとうさぎうま一匹・羊ふたしろきぎすひとたてまつれり。」と、本邦に棲息しない動物が献上されている。雄略紀二年十月条には「遂に林泉しまめぐりいこひ、やぶさは相羊もとほりあそび、行夫かりひとやすめて車馬みくるまかぞふ。」とある。車輪のだんだん止まっていく様を形容している。
 歩みが遅くなることは、足の病気、アシナヘである。新撰字鏡に「癖 疋亦反、入、腹内癖病也、あし奈戸なへ也」、和名抄に「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓は阿之奈閉あしなへ、此の間に那閉久なへぐと云ふ〉は行くこと正しからざるなりといふ。」とある。蹇の音がケンなので、片足跳びをケンケンというのであろう。名義抄には「癖 音辟、ヒヤク、クセ、宿食不消」とある。消化不良の病の字とされ、腹が痛いと脚を曲げて痛みをこらえる形になる(注12)
 万葉集には、ツツジバナの用字に「茵花」(万443・3305)とあり、和名抄に「茵芋 本草に茵芋〈因于の二音、迩豆々之につつじ、一に乎加豆々之をかつつじと云ふ〉と云ふ。」、新撰字鏡に「槃 上字同、豆々自つつじ」、「茵芋 をか豆々志つつじ、又云、伊波豆々志いはつつじ」、「羊躑𨅛花 三月採花陰干、毛知豆々自もちつつじ」とある。槃は般に通じ、めぐる、もとほる、の意である。茵芋(茵蕷)の茵はしとねのこと、説文に「茵 車重席、从艸因聲」とあり、儀礼・燕礼・大射礼に、「司宮、重席をあはせ捲き、賓の左に設けて東をかみとす。(司宮兼捲重席、設於賓左東上。)」とある。この座布団は、円座、藁蓋のことと思われたのであろう。縄をまるく巻き、それを車状にとめたものである。和名抄に、「茵〈褥附〉 野王に曰はく、茵〈音は因、之土禰しとね〉は茵褥、又た虎・豹の皮を以て之れを為るといふ。唐韻に云はく、褥〈而蜀反、辱と同じ、俗に音は邇久、今、案ふるに毛の席の名なり〉は氈褥なりといふ。」、「円座 孫愐に曰はく、䕆〈徒口反、上声の重、俗に円座と云ひ、一に和良布太わらふだと云ふ〉は円い草の褥なりといふ。」とあり、「褥」の一種として円座を捉えている。ツツジのツツ(どう)は、ハブを表すこしきの異称にもなっている。羊躑躅のこととされるレンゲツツジをはじめツツジは、枝がまるでスポークを伸ばしているように車枝になる特徴がある。剣の神が縄の変形であるのは、剣に蛇身を見るからで、蛇はまたクチナハといい、朽ち縄の意かとされている。馬に見られる旋毛つむじのように蜷局とぐろを巻いているとした。渦巻く様は、円座、藁蓋を髣髴させる。剣のことを称してヲハシリと言っていたが、それが鳥の尾羽の様子ととるなら、ヲ(尾)+ハ(羽)+シリ(尻)ということになり、円座に鎮座するにふさわしくなっている。ヲハシリとツツジとは似た者どうしということである。
円座(東大寺・天皇殿)
 また、「尾羽張」という用字について見れば、つむじ風のとき、鳥は尾の羽をピンと張るから、それに由来すると考えられる。和名抄に、「飈 文選詩に云はく、廻飈、高樹を巻くといふ〈飈の音は焱、和名は豆無之加世つむじかぜ〉。兼名苑注に云はく、飈は暴風の下より上るなりといふ。」とある。「飄風つむじかぜ」(神功前紀仲哀九年三月)、「つむじ」(万199)、「猛風〈川牟之加世つむじかぜ〉」(霊異記・上三十四)、また、「辻 ツムシ」(名義抄)ともあり、馬の旋毛のことも含めてツジの古形、ないし、同形とされている。やはりぐるぐると巻きあげるイメージである。そして、旋風が起こりやすいのは河原である。水の上と地の上では太陽熱による気温上昇に違いがあり、大気の状態が不安定になりやすい。よって、ヲハバリ(尾羽張)とヲハシリ(雄走)とは同じ意味でひとつの言葉、ツジ(辻)を表し、ヅシ(厨子)の変改したものであることを語っている。
 記の記事に、「逆塞-上天安河之水」とある。河の水を堰き止めてダムにすることが「逆」になるとしている。道具の使用法が通常とは逆向きという意味であろう。円座は藁蓋というほどに蓋であり、上から被せ敷くのが順当と思われる。それを逆に下から持ち上げる形で排水口に押し当てて塞ぐことを言っている。つむじ風が下から上へと逆方向に吹くと、葺いてある屋根瓦が剥がれ飛ぶ。アマテラスの岩窟籠りが解消したのは、厨子につむじ風が当たり、カハラ(瓦)がめくれ上がって飛んだほどのこと、それが天の安のカハラ(河原)で起こったということにしている。位相の異なる論理の地平を絡め合わせて述べ立てることで、ヤマトコトバを確かなものとして構成しようとしている。論理階型を一段のぼったメタメッセージから証明するように、言葉の正当性を説いている。“話”のすべてはヤマトコトバのネットワークの賜物なのである。
 アマテラスが何ごとかと思って外を見た直接の要因は、参集した神々がアメノウズメの裸踊りを笑ったためとされているが、根拠ある振舞いとなっていなければ論理に破綻を来す。そのようなことがないように、ヤマトコトバの上に仕掛けが張りめぐらされているわけである。話を聞いている誰か一人がどうしてそうなったの? と疑問を差し挟んでみても、縦横無尽に織りあわされている言葉のテキストのうちに言いくるめられ、丸め込まれてしまうであろう。記紀の説話の語調に倣うなら、岩窟の戸が開いたのは、ヤマトコトバの論理のキー、癖のある曲ったくるる鉤によって開いたのだと言える。
 かくて、ヲハバリが「埸」や「堨」と同じ意味を表していることが知れた。円座という丸いもので堰を塞き上げた結果、地は固まっているのだから、カタと動詞に訓んで適当である(注13)
 ヲハバリ(尾羽張)がそのような丸い形になることは、ただ一つの場合しか考えられない。雌雄二羽のつがいが交わるときである。日本書紀のイザナキ、イザナミによる国生み神話には、ニハクナブリ(鶺鴒)の交接を以てセックスの仕方を知ったとする逸話が載る。

 一書に曰はく、かみとなへてのたまはく、「美哉あなにゑや少男をとこを」とのたまふ。時に、陰神のことさきだつるを以てのゆゑ不祥さがなしとして、更にまた改め巡る。則ちかみ先づ唱へて曰はく、「美哉、少女をとめを」とのたまふ。遂に合交みあはせせむとす。しかも其のみちを知らず。時に鶺鴒にはくなぶり有りて、飛び来りて其の首尾かしらをうごかす。二の神、みそなはしてならひて、即ちとつぎの道を得つ。(神代紀第四段一書第五)

 国が生まれるとは「地」が定まることである。それが雄神と雌神の交合によっていて、その方法をセキレイに負っている。セキレイは折にふれて尾羽を揺らし、交接においてはその尾羽を交わらせていると思われている。交わっている時、一羽なら扇形に半円を描くにすぎない尾羽は、二羽によって全円を描いて円座の形となる。それによって堰を塞いで水の流れを止めて干拓地はできあがる。イザナキとイザナミが交わることで国生みは行われており、空飛ぶセキレイがいなければ国は生まれることはなかったと想念されていた、あるいはそういう話に創っている(注14)。それが記紀の国生みの話の順序である。交わり方も知らなかったのだから、国(「地」)は生まれにくかったと語られているわけである。
 アマテラスの天の石屋(天石窟)籠りの事件が起こり、そこに隠れていたセキレイが神々を参集させるために、円座を水門にあてがって天の安の河の水を堰き止めて人工湖を作っている。湖の形はアメーバ状に拡がり、川辺は狭く、神が降り立てるところとそうでないところが交互にできた。八百万の神々は互いに行き来できないところに佇みながら顔を合わせることになっている。アマテラスに出てきてもらうために神々が談合できたのは、神々が暴力による喧嘩ができない環境にあったからである。その状態の水のないところが、大地としてまぎれもないところということになる(注15)
 水を堰き止めることは、溜池や畔を作って水を湛える水田稲作農耕にとって当たり前のことであり、卑近な事象として人々の心に訴えるものであった。「重濁之凝、埸(堨)難」と言って正しい。記紀の説話に見えるスサノヲのいたずら、アハナチ(「阿離あはなち」(仲哀記)、「毀畔あはなち」(古語拾遺)、「畔放あはなち」(祝詞・六月晦大祓))も、人々によく知られていたことであろう。
 淮南子の「摶」は日本書紀では「搏」字に置き換えられていた。対句の前半部分では、ヲハバリの鶺鴒は意中の相手にアピールするために尾羽を振っている。その様子は扇を使って煽いでいるように感じられるから、わざわざ「搏」字が用いられている。日本書紀の執筆者が意図的に改変している。淮南子の異文の字の誤用をあえてヤマトの伝承を表現するのに転用したのだと見ることもできる。
 すなわち、「くはしくたへなるがへるはあふやすく、かさなりにごれるがりたるはかたまがたし。」は、セキレイの役割をもってして、天と地のできあがる順序を述べたものである(注16)。「陰陽」の字で表されているのは、中国の陰陽思想など述べるものではなく、セキレイの雄と雌の交尾と、イザナキとイザナミという雄神・雌神の合体という、パラレルな話を示したいがために「陰陽めを」と述べているにすぎない(注17)。ヤマトの説話に従うように、淮南子の文句を一部改変しながらまとめている。古訓は正しい。

四 まとめ

 日本書紀の執筆者は、淮南子の文章をまるごと引用したのではなく、借用しながらも字句をいじってヤマトの説話に沿うように拵えている。「搏」と書いてアフグ、「埸(堨)」と書いてカタマルと訓まれることを意図していた。ただ、それが当時、人々に“説話”としてすでに受け容れられていたものかは定かではない。むしろ、なぞなぞのお題として提示した“話”であったと考えたほうが当を得ている。いきなり「いにしへ」の様子を述べ出している。“話”の出だしが「昔……」で始まるように、なぞなぞのお題は「古……」であったということである。事実や通念などおかまいなしに、おもしろいと思えるように作っている。これが記紀言説の基本姿勢である。

 いにしへ天地あめつちいまわかれず、陰陽めをわかれざりしとき、渾沌まろかれたること鶏子とりのこごとくして、溟涬ほのかにしてきざしふふめり。すみあきらかなるものは、薄靡たなびきてあめり、かさなりにごれるものは、淹滞つつゐてつちるにおよびて、くはしくたへなるがへるはあふやすく、かさなりにごれるがりたるはかたまがたし。かれあめりてつちのちさだまる。しかうしてのちに、神聖かみなかれます。
(大意)太古の昔、天と地がまだ分かれておらず、それはつまり、セキレイに雄と雌の区別がない状態の時、すなわち、鳥に雌雄がないとは丸い卵の状態のことで、殻のなかはほの暗く、それでも何か兆しとなるものがありました。やがて卵は孵るということです。その卵のなかの清く明るいところがたなびいて天となり、濁りに濁ったものは積りこもって地となるという具合です。セキレイの雄と雌が出会って相手のことを素敵だと思ったら、すぐに尾羽を振って煽ぐような動作をするでしょう。すると、風が起こって舞いあがるから、天のほうはできやすいわけです。濁った泥のほうは、沈殿をくり返したからといってそのまま大地として確かなものになるわけではありません。水を堰き止めないと干拓地は固まらないでしょう。そのためには、セキレイが交尾して尾羽を合わせ、丸い蓋の形を作りあげて水門に栓をしなくてはなりません。ですから、天が先にできあがって、その後で大地が定まったという順番になるのです。神々が誕生するのはその後に至ってのこと、なぜなら舞台となるところがなければ生まれようがありませんから。

(注)
(注1)
日本書紀冒頭(左から、弘安本(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀)、乾元本(天理参考館https://www.sankokan.jp/news_and_information/ex_sp/toshokan2017_special.html)、丹鶴本(佛教大学図書館デジタルコレクション
https://bird.bukkyo-u.ac.jp/collections/nihonshokisoshoshingai-01/をトリミング接合)、玉屋本(東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0070752.jpgをトリミング))
(注2)日本書紀の文章について、中国語として読める漢文として書かれているとする考え方が定着しているが、筆者はその立場に立たない。漢文として捉えるにはほころびが多すぎる。
(注3)応永三十五年(1428)の奥書を持つ御巫本日本紀私記にも、「精妙之合〈久波志久太倍奈留加安倍留八〉搏易〈安不岐耶寸久〉重濁之凝〈遠毛久尓古礼留加古利太留八〉埸難〈加太万利加太之〉」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3438601/1/9)とある。
(注4)訓みの問題とは訓詁の問題である。それがなされないうちに、全体の構成においてこの部分がどういう位置づけにあるかを論じることはできない。本来できないはずなのであるが、漢文として解釈して理解できたと思ってしまうと、この神代紀第一段本文の前半部分が、以下の文に対してどのような役割を果たすか見極めようと動いてしまう。神野志1999.は、平安時代以来の解釈史として、a序文説、b三才開始段説があると分類している。「神代」の本体から切り離すか、「神代」の構成の一部と見るかの違いであるとする。近世以降、「かざり」として冠せられたものとする、c一般論説が加わり、今ではそれが主流であるという。
 これらの説は、暗黙の前提として、この冒頭部分がそれだけで何かを語っているものとされて唱えられている。しかし、天地の成り立ちについてとするには、たとえそれが「かざり」であるとしても、あまりに簡略化されていないだろうか。天地生成の事柄なのに端的に表されている。「古……難」部分は、「故……定」を言わんがための条件説のように機能している。
 天地がどのように成り立ったかについては、語ろうと思えばいくらでも語ることができる。そのとき、長々と弁舌をふるうのは、天地の存在についてである。しかし、日本書紀のありようはそれとは異なる。「鶏とは、卵が卵を産むための手段にすぎない」(サミュエル・バトラー)というように、すべてを認識の地平に引きおろして叙述するかのようである。“神”について世界の創造神として認めるものではなく、「神聖生其中」と言っている。これは重要な宣言である。
 「はじめに言葉ありき」も、「我思う、ゆえに我あり」も、自覚せぬトートロジーのうちに何事かを語っていると誇っている。日本書紀にそのような態度は見られない。そのはじめから、すべては“話”なのだと割り切ったうえで楽しむよう聞き手である読者に求めている。言葉はその原初から比喩を孕んでいて、方便を生むものである。それでも迷走しないように、言葉を駆使して構成されている。ヤマトコトバはそれ自体、ネットワークになるよう設計されているからできるのである。結果、書物として残されている日本書紀は、広汎なプランのもとに深くて偏りのない思索から紡ぎ出されたヤマトコトバのテキストとなっている。今できるアプローチ法としては、それを訓読するほかないが、その先の和語(その多くはたゆまぬ努力によって古訓として伝わり保たれている)に辿り着いた時、ようやく執筆者たちと心を同じくすることができる。日本書紀の訓読は、そのために欠かすことのできない手段である。
(注5)漢籍寄りに捉えられて、編年体の文章を書くのに中国の先例を参照したとする説(角林1999.)や、日本書紀の成文化にあたって構想ごと漢籍に依拠したとする説(瀬間2015.)なども唱えられている。
(注6)淮南子・天文訓には次のようにある。

 清陽者薄靡而為天、重濁者凝滞而為地。清妙之合專易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。
 清陽せいやうなる者ははくして天と為り、重濁ぢうだくなる者はぎようたいして地と為る。清妙せうめう合専がふせんするは易く、重濁のぎようけつするは難し。故に天づ成りて地のちに定まる。

(注7)問題となる文字について、一字ずつ微に入り細を穿つ浩瀚な論考となっている。
(注8)毛利2005.に、「書紀冒頭部分は、外国の書物(漢籍)を利用して記述される。しかしながらその書名を挙げて引用するかたちをとることはない。」(20頁)と、今日のスタンダードな研究視点を述べている。「搏」や「埸(堨)」と書いてとぼけている日本書紀の執筆者は、文章を築き上げるために漢籍の字面を利用してはいるが、漢籍そのものを引用しているわけではない。漢籍が意味する思想とも無関係で、援用といわれることでさえないのかもしれない。「「陰陽」が日本のこと、日本を語る神話としてあるのだ、と捉え返す必要がある」(25頁)のは、真の意味においてである。
 日本書紀の研究において、文章をどの漢籍から引いているか、三五暦記はどの類書で見たのか、といった議論がいまだにかまびすしい。本稿では、そのような明後日を向いた研究に深入りしない。著作権の概念がないとき、利用したのが初版本か重訂本か解説本かネット情報かを問うことに実質的な意味を見出すことはできない。日本書紀の執筆者は今日いわゆる学者ではない。
(注9)新釈全訳日本書紀に、「「場」は、『淮南子』によって「竭」のあやまりとするのが通説だが、諸本「場」とあるので」(77頁)というが、筆者の目には「埸」や「堨(「亾」が「匕」の字体)」に見え、「場」には見えない。河村秀根・書紀集解にも、「竭モト ニ、據類聚國史神 ノ一本及淮南 ニ改」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100258449/viewer/15)とあって「場」とはない。同様に、大系本日本書紀や井上1982.の校異は「埸」とあったと正しく、一条兼良・日本紀纂疏では「堨(「亾」が「匕」の字体)」と見ている。対して、谷川士清・日本書紀通證、新編全集本日本書紀には「場」とあったと誤っている。飯田武郷・日本書紀通釈では、書紀集解に「場」とあったと見誤っている。
(注10)所載の箇所は、葦原中国を平定するために派遣すべき神の選定にあたり、候補者として挙げられている部分である。刀剣の申し子を表すのであるが、それが天の石屋(天石窟)に住んでいたことになっている。どうしてそういうことになっているのか、その理路の解明こそ記紀研究の使命である。
(注11)仏龕ぶつがんに礼拝の対象を入れる習慣は、それを籠り堂としての岩窟に見立てたからといえる。籠り堂だけに、概念が入れ籠構造になっていてわかりやすい。
(注12)救世観音のクセとは、「久世」とも記された曲瀬ばかりでなく、ツツジを食べて「足なへ」になった羊のことでもあることになり、漢語の躑躅の意とオーバーラップしている。ヅシ(厨子)とツヂ(辻)とが音ばかりでなく義においても交わっている。
(注13)角林1999.に、「「りたるはかたまり難し」では意味が通らない。凝ったものなら固まりやすいはずである。」(46頁)とある。我々は素朴実在論と縁を切らなくてはならない。
(注14)大系本に「日本の話には、この観念[「故天先成而地後定」]は見えない。」(17頁)とある。洒落が通じていない。
(注15)以上、拙塙「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/01642f78ed47d43d3fb93c31b4f8f1fc参照。語の説明において多く重複する。
(注16)記紀の冒頭部分について、世界の生成を語ることの意味について論じる向きもある(瀬間2015.)。また、世界が「形成」されてから神々が「生成」されているとする考えもある(植田2013.)。ニハクナブリの姿態を話しているところに、そのような大上段の構えを見出すことは、できなくはないが呆れられることであろう。洒落を言っている部分をいかに検証したところで、文字以前の神話が天地成立以前のことを語るかどうかなどわからず、天地の生成論について成文化の過程で漢籍から学んだのかという問いにも一向に示唆は得られない。
(注17)「陰陽」と書いてあってもメヲと訓む。日本書紀私記乙本では「女乃古遠乃古メノコヲノコ」としている。ヤマトコトバのメヲを「陰陽」と記したのである。中国の陰陽論的宇宙論を説いてなどおらず、コスモロジーとは無縁の記述である。飛鳥時代後期から奈良時代前期において陰陽思想がどれほど享受、浸透していたかということは別問題である。この日本書紀の文章とは無関係ということである。

(引用・参考文献)
井上1987. 井上光貞監訳『日本書紀 上』中央公論社、昭和62年。
植田2013. 植田麦「日本書紀の冒頭表現」『古代日本神話の物語的研究』和泉書院、2013年。
大島2020. 大島信生「日本書紀の訓読をめぐって─第一段冒頭部を中心に─」『芸林』第69巻第2号、令和2年10月。
角林1999. 角林文雄『『日本書紀』神代巻全注釈』塙書房、1999年。
小島2019. 小島憲之「日本書紀の「よみ」」『上代日本文学と中国文学 補論』塙書房、令和元年。
神野志1999. 神野志隆光『古代天皇神話論』若草書房、1999年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2015. 瀬間正之「記紀開闢神話生成論の背景」『記紀の表記と文字表現』おうふう、2015年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
高田2018. 高田宗平「日本書紀神代巻における類書利用」遠藤慶太・河内春人・関根淳・細井浩志編『日本書紀の誕生─編纂と受容の歴史─』八木書店、2018年。
西宮1977. 西宮一民「日本書紀「訓読」の論」『国語国文』第46巻第6号、1977年6月。

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