珈琲ひらり

熱い珈琲、もしくは冷珈なんかを飲む片手間に読めるようなそんな文章をお楽しみください。

桜の樹の下

2009年04月29日 | 短編
 遠く遠く遠く、どこまでも続く線路よりもまださらに遠く、薄紅の花びらが飛んでいく。
 私は清潔さだけが取り得の何の面白みも無い真っ白な病室でそれをただ憧ればかりの眼差しで見守っている。
 私の命はもう長くは無い。
 今はまだこうして自分の力でベットから立ち上がる事もできるが、直に全身の筋肉が使い物にならなくなり、呼吸すらできなくなる。
 本当はもう、私は死んでしまいたい。
 この足が動く内に屋上へと上がって、そこから飛び降りる事ができたらどれだけ幸せだろう?
 それでも私がそれをしないのは、せっかく建てた家を売ってまで私をこの病院へと入れて、拙い希望にすがり付いている両親の姿を見ているから。
 あの馬鹿親、深夜まで働いて疲れきってるくせにそれを決して私に見せようとしない。
 そんな親の姿を見るたびに私は幼い子どものように大声で泣き出したくなる。
 ああ、神様。
 私の大切な大切な親に意地悪ばかりする大嫌いな神様。
 私の二番目の願いは叶えてくれなくていいから、
 だから、私の一番目の願いを聞いて。
 どうかどうか、私が死んだら、私の事を私の大切な両親が忘れてくれるように。
 そうして。
 そうしてあげて。
 そうしてあげてください。
 私はそれでいい。
 私はそれでいいから。
 だから、
 だから、
 だから、
 どうかこの願いだけは、私のほかの願いは叶えてくれなくていいから、だからどうかこの願いだけは、叶えてください。
 そんな事ばかり思う。
 願う。
 そんな私の目を、ふと奪ったのが、淡い薄紅。
 あれは、どこから飛んできたのだろう?
 あんなにも自由に空を舞う花びらは、どこから飛び立ったのだろう?
 私は、酔狂にも、あれが飛び立った桜を見たくなって、ベットから立ち上がった。



 それは病院のすぐ傍にあった公園の隅に居た。
 淡い薄紅の花びらをひらひらと舞わせる桜の樹のすぐ下に。
 それがそこに立ったのは、いつか聞いた噂のせい。
 桜の木の下には死体がある。
 桜は死体を養分にして美しい花を咲かせる。
 これはそんなにも綺麗な花を咲かせるのだから、たくさんの死体を、それから吸い上げた命を持ってるはずだ!
 そんな事を思ったのだ。この、
 万年魂回収率ビリの、死神は。
 そいつは死神。ビリンキー・ウォルト。
 長身痩躯で、眉目秀麗。けれども、かなり無能。全く持って無能。どうしようもなく無能。
 その顔に惚れる女、数多く居るけれども、時間をわずかでも共有すれば、すぐに飽きて、呆れて、その男の隣を去ってしまう。
 そんなダメ死神。
 さてさて、そんなダメ死神、ビリンキーがありもしない魂を探してるそこへ、少女がやってきた。
 パジャマの上にカーデガンを羽織った、14歳の少女が。
 桜の花びら舞う4月。
 陽気は温かく。
 世界は光りに満ちて。
 けれども少女の心は絶望に満ちて。
 ただただ両親のために今を無為に生きてるだけのこの少女。
 そう。そんなふたりが、出会ってしまうのがこの、桜の樹の下。




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