そこは雪に囲まれた異国の地。
ほぼ一年の大半を深い雪に囲まれたその町ではさしたる娯楽も無く、
領主や金持ちともなれば旅の行商に本を頼むこともできるが、
生憎と今年の雪は例年よりも多く降り、それすらも難しかった。
子どもらは老人が語るもう何度も聞き慣れた昔話に耳を傾けて、
深い雪の向こうにあるという美しい草花に想いを馳せり、
大人は深いため息を吐いた。
もとより雪の多い地ではあるが、今年のこの雪の多い天候はおかしく、
領民の生活は故に苦しかった。
ソラは今年、10になる男の子。
両親の畑仕事を手伝い、5つ歳の離れた妹の面倒もよく見る優しい男の子。
ソラの両親もソラもとても働き者で、家族で一生懸命畑を耕したけれど、
雪の多いこの地の痩せた土地ではどれだけ一生懸命耕しても収穫できる小麦の量は知れている。
ソラの家は貧しく、
またさらに追い打ちをかけることにこの悪天候。
ソラの家族は皆、お腹を空かせていた。
「兄ちゃん、お腹空いたね。兄ちゃんの描くパンやご馳走も食べれたらいいのにね」
「うん。でもね、兄ちゃんの描く絵のことはふたりだけの秘密だよ」
「うん」
町の真ん中の広場に立札が建てられたのは、ソラが妹と一緒にパン屋に売れ残りのパンを安く譲ってもらいに行く途中だった。
立札にはこう書かれていた。
領主様のお姫様の誕生日会が開かれる。
それにあたり、お姫様へのご誕生日プレゼントを募集す。
もしも、お姫様に気に入られしご誕生日プレゼントを用意せし者には、
領主様より褒美が渡されるであろう。
我儘一杯に育てられた領主様のお姫様。
一度だけソラが見たことのあるそのお姫様は、
とても綺麗で温かそうな服を着ていた。
まっさらな髪はとても長くて、この冷たい風にもさらさらと美しくなびいていて、
母様や妹の髪とも違っていた。
雪のように白い顔はとても綺麗で、汚れていなかったけれど、
なんだかとてもつまらなさそうで、目は周りの大人すべてに怒っているように見えた。
それがソラのお姫様への印象。
ソラはお姫様のことが大嫌い。
だって、きっと、領主様のお家なのだからいつも温かい暖炉の前で美味しいご飯をお腹いっぱい食べられるはずなのに、
そんなつまらなさそうな顔をしているのだから。
だから、本当はお姫様への誕生日プレゼントなんてまっぴらごめん。
それでも、ソラが、妹だけに見せていた秘密の特技であえて妹のために作ったそれを、誕生日プレゼントとしてそのお姫様に献上したのは、
それがお姫様に気にいられれば褒美がもらえたからだ。
今年の天候はそれだけ悪かった。
ーーどうして? ねえ、どうして誰もあたしの話を聞いてくれないの?
領主のお姫様はとても我儘。
いつも不満顔。
いつだって与えられてばかり。そこにお姫様の意思は無い。
皆が自分のことを大事にしてくれるけれど、それはお人形を愛でるのと一緒。
誰もお姫様の言葉は聞いてくれなかった。
だから、今年は旅の行商も来れず、しょうがなく領主の父親が開いたその余興も、
お姫様はわざと我儘を言ってお気に入りの誕生日プレゼントなんて選ぶつもりは無かった。
なのに、お姫様はそれを観た瞬間に心を奪われてしまう。
「まあ、なんて、不思議な、絵……」
それは平たい石っころに描かれた雪うさぎ。
けれども、その雪うさぎは石の表面で跳ね飛んだり、駆けまわったり、寝ていたり。
まるで石の表面で生きているみたい。
確かにそれは平たい石の表面に白墨で描かれたただの雪うさぎなのに。
姫は目を輝かせその雪うさぎ以外、その目に入れることはなかった。
「この絵は誰からのもの?」
「ソラという貧しい農家の家の息子が持ってきた物です」
「あたしは、これが、この絵が欲しいわ」
ご褒美をたくさんもらい、ソラの家は確かにこの例年よりも雪の多い冬を越せるだけの蓄えはできた。
しかし、代わりにソラは失った物があった。
領主のお姫様が気に入ったソラのその雪うさぎを他のお金持ちも欲しがったのだ。
領主のお姫様が気に入ったそれを自分たちも持つことでステータスにしようというのだ。
ひょっとしたら自分の子息とお姫様がそれが縁でお近づきになるかもしれない。
ソラにたくさんの絵の仕事が入ってきた。
けれども、ソラはそれを描きたくなかった。
絵は好きであったけれど、その動く絵は妹のためであり、妹を喜ばすための魔法だった。
満たされたお金持ちたちの欲を満たすための物ではなく、
お腹を空かせて、忙しい親にも甘えられない妹のための物であった。
ソラは激しく後悔したが、しかし、それでもソラがお姫様に献上した雪うさぎがソラの家族を救ったのは確かであった。
「お金はいくらでも出すから、私にもお姫様と同じ動く絵を描いておくれ」
来る日も来る日も描きたくない絵を描き続けたソラは、やがて絵を描けなくなり、
動く絵を欲するお金持ちたちはソラや、ソラの親を激しく罵り、責めたてた。
「ソラ、無理しなくても良いのだよ。優しいソラ。大丈夫だよ」
ソラの親は絵を描こうとしないソラを叱ることも無く、ただ笑いながらくしゃりと優しく大きなごつごつとした手でソラの頭を撫でた。
節くれだって、あかぎれで荒れたソラの両親の手は、痩せた土地を耕し続ける。
それは自分や妹のためであるとソラは知っていた。
なら、自分のこのあかぎれで荒れた手で畑を耕し、妹の頭を撫でよう。
もう二度と絵を描くことは辞めて。
---絵なんてもう、大嫌いだ。
ソラは両親と一緒に畑を耕し、妹の面倒を変わらずによく看た。
ただ、ソラの表情がほんの少しだけ前とは違っていた。
ある日、ソラの前に女の子が現れた。
その子は頬を膨らませて、ソラを見るや否や、
ソラの目の前まで足早にやってきて、
目の前に立つと、ソラの頭をげんこつで叩いた。
「どうして、絵を描くことをやめたの? あたしがせっかくはじめて見つけた素敵なことだったのに!」
「素敵なこと?」
ソラはきょとんとし、小首を傾げる。
女の子はじれったそうに頭を掻いて、地団太を踏んだ。
「あたしの誕生日会、本当はあたしは誰の誕生日プレゼントも選ぶつもりなんて無かったのに! なのにあなたの雪うさぎの絵がとても気に入って、選んでしまったの! あたしはあたし自身が初めてあなたの絵を見つけて、好きになって、とても喜んだのよ。あなたの絵をこのあたしが好きになってあげたの! なのになのにあなたは絵を描くことをやめてしまうなんて! ばかだわ!」
「絵を? そんなにぼくの絵を気に入ってくれたの?」
ソラはその時ようやく今、自分の目の前に立つ女の子が領主様のお姫様であることに気づいた。
だって、いつも不満そうでつまらなさそうだったお姫様の顔が怒ってはいるけれども、それでも随分と楽しげで満ち足りた満足そうな顔をしているから。
「ねえ、どうして絵を描くのを辞めたの? あたしは気にいったのよ?」
「描くのが苦しくなってしまったんだ……」
「じゃあ、苦しくない絵を描けばいいじゃない? 絵は好きなのでしょう? 好きだからあんな素敵な絵を描けたのでしょう? 魔法が使えたのでしょう? なら、その時の想いを呼び出したら?」
ソラは目を大きく見開き、ぽろぽろと涙を零した。
思い出したからだ。
最初は自分が絵をとても大好きで、ただそれだけで描いていたことを。
それから両親や祖母、妹が自分が描いた絵をとても喜んでくれてそれが嬉しかったから、
自分のための絵から、人のための物になってしまっていたことを。
ソラは人差し指の先の自分の涙をつけて、
その指先で足許の石畳に絵を描いた。
雪うさぎや鳥、犬や猫、たくさんの動物を。
それらは元気に動き出して、
石畳を飛び出し、
町を元気に走り回る。
町の皆はそれを見て、最初は目を丸くして驚いて、次にとても喜んで。
ソラが描いた動物たちはその日一日消えずに町の皆を喜ばせた。
それは魔法。
ソラの絵が好きという温かな気持ちは、
魔法の絵によって生まれた動物たちと姿を変えて、
人々のもとへと訪れて、
そうして深い雪に閉ざされたこの町のように何かを諦めてしまった人の心の雪をほんの少しだけ溶かす手伝いをした。
たった一日だけの絵の魔法はしかし、その日から町の皆の心にも魔法を起こす力を与えた。
生きる希望、誰かを想い、そして、自分の大切な物を大事にする力をもう一度呼び起こし、
それが心に花を咲かせ、
雪に閉ざされた町には人の温かな笑顔という花を咲かせ、幸せという種を育んだのだ。
一年のほぼ半分以上を雪に閉ざされた異国の地に、けれどもその環境に負けずに幸せに暮らす町で起こった、
優しい奇跡のお話。
お終い。