古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

物部守屋と信濃国 2

2021-03-13 10:53:07 | 歴史

6世紀に物部氏と蘇我氏が「崇仏・拝仏論争」で戦ったというのは本当なのでしょうか。

もし本当であれば、物部が難波の堀江に棄てた仏像がご本尊のはずの善光寺。

このご本尊は日本書紀によれば百済から贈られた釈迦仏金銅像。

しかし善光寺の本尊は阿弥陀如来だといわれています。

誰も見たことがない秘仏ですが、秘仏本尊を模した前立本尊の印相は薬師如来に似ているとされるし、一体どんな仏様がどんな由来でまつられているのでしょうね?

善光寺本堂に「守屋柱」なる柱があり、柱の下にはその首が埋まっていると言われるのは有名な話です。

四天王寺の守屋祠とともに謎ですね。

守屋の墓は大阪府八尾市に現存し、全国の有名神社が玉垣を寄進しています。

なのになぜ守屋の首が善光寺にあると言われるのでしょうか。

 

諏訪大社上社の神体山は「守屋山」です。

上社の大祝に次ぐ神官「神長」を洩矢神の末裔とされる守矢氏が代々つとめてきました。

諏訪大社上社の御神体は山のはずなのに、拝殿は守屋山を向いておりません。

本当に守屋山が御神体なのでしょうか?

このあたりも何か曰くがありそうですが、大神神社の拝殿も三輪山の頂上を向いておらず、例えば神体山をまっすぐ見上げてはいけないような思想があったやもしれず、何ともいえないところでしょうか。

 

守屋の次男坊が落ち延びただけで、これほど色濃く物部守屋の影が信濃に残っているのが私には解せません。

物部氏の痕跡なら そらあるでしょ なんですが、守屋を特定してくるのがどうも・・・

しかも信濃には蘇我氏も進出していたと言われています。

親百済派の物部氏と親新羅派の蘇我氏の利害対立で守屋が弑されたならば、守屋の一族が逃げ落ちる地として信濃は相応しくないように思えます。

タケミナカタ、イセツヒコなど敗者が信濃に逃げ落ちるのと同じ理由なのでしょうか。

ではその理由とは??

信濃はずっと「治外法権」的な様子なのに、天武天皇は遷都の候補地にします。 信濃が「始まり」のクニだったら面白いな~♪

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