古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

魏の張政

2021-03-17 08:49:35 | 歴史

魏の臣である張政は247年に倭国へやって来て(魏志倭人伝より)266年に帰国した(晋書武帝記より)という説があります。

19年もの間、張政は倭国で何をしていたというのでしょうか。

森浩一氏は「張政は台与をつれて大和遠征を行い大和纏向の地に到達し、古代大和政権を打ち立てる大事業を完成した」との説を展開されています。

なんとも歴史ロマンにあふれているではありませんか!

 

しかし、纏向遺跡からは北部九州の影響はほとんどうかがえません、

纏向遺跡の発掘が進むにつれて何かでるだろうと思っていたのですが、未だ出ません。出てくれないかな…。

纏向遺跡からは魏の張政が主導したような痕跡も全く見受けられません。今のところ…。

 

では、張政は倭国で一体何をしていたのでしょうか?

張政の墓は朝鮮半島の楽浪郡の地で方墳として発見されています。

磚に「使君帯方郡太守張撫夷」と型押しされており、これは「東夷を撫順した帯方太守の張」という意味だそう。

張政が主導していたならば、前方後円墳がシンボルとなることなんてあったのかというところも素朴な疑問です。

本人は漢民族でしょうから方墳に葬られるのは当たり前としても、円墳と方墳をくっつけた壺の形のような墓を造ろうと思います?

前方後円墳は台代の死後に倭人が創り出したものだから関係ない??

まつりごとの制度だってもっと中国寄りのものになるでしょう??

また周りの蛮族の変な風習は、こんな変なことをしていると小馬鹿にして書くのが「中華」だと思うんですよね。

中国の書物はなぜ前方後円墳を書かなかったのでしょうね?

案外、古墳が立派なものだったから馬鹿にできなかったということなのかも?

尤も日本の書物も多くの年月も莫大な財も費やして造った古墳について、賛美していませんが。

そもそも張政が倭国に滞在していたならば、倭国の正確な位置さえも伝わっていないなんてこともないような気が・・・。


コメントを投稿