古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

邪馬台国と神武東征

2021-03-20 17:05:21 | 歴史

かつては私、邪馬台国は北部九州にあったと考えていました。

邪馬台国東遷説についても、さもありなんと考えていました。

しかし纏向遺跡から九州の影響が薄いことと、弥生時代後期の淡路島に鉄加工工房があったと判ったことから、あれ?本当に邪馬台国は九州にあったのか?と思い始めていました。

折しも何かの書物で邪馬台国九州説をとってこられた原田実氏が、五斗長垣内遺跡の存在から現時点では邪馬台国は北部九州よりも近畿地方の方が妥当と考えると書いておられるのを読みました。我が意を得たり、という感じでした。

しかし畿内に邪馬台国があったというのも素直に首肯出来ません。

その時から今まで私には邪馬台国がどこにあったのか見当がついていません。

 

邪馬台国が判らなくなると、神武東征も判らなくなりました。

今は神武天皇については八幡和郎氏の話にも興味がありますし、もっと後の世の天皇に九州出身者がいるのではないかという疑惑も捨てきれません。

八幡氏の話では「記紀は崇神天皇は大和朝廷の創始者としたうえで、その先祖の磐余彦(神武天皇)は日向出身だが少人数で故郷を出奔し、各地を経て橿原市あたりに領地を得たらしいと書いてあるだけ」だといいます。そのとおりです。

神武天皇の一行というのは少人数で邪馬台国(あるいは狗奴国でも)東遷という規模の話ではなさそうです。

本国ではうだつの上がらない庶子が親戚を頼ってなのか新天地へ展開し、大和の橿原市あたりに領地を得た。その子孫が力をつけ崇神となった・・・。

長浜浩明氏によると、神武東征は「河内潟の時代」。すなわち紀元前1050年~紀元前50年に神武天皇は河内潟から白潟の津へやってきたといいます。

邪馬台国より前の時代に神武は大和へやって来て、その子孫は大和で勢力を伸ばしていった…?

いやいやもっと後の時代、天武天皇が九州から来たのではないか?いやいや天武天皇より万葉集などで皇子扱いされていない天智天皇か?天智なら九州から逃げて来るに相応しいか?

・・・と、まだまだ どうにも判りません。

 

纏向遺跡の発掘が進み、九州の影響が強くうかがえるようになれば邪馬台国九州説を支持するようになるかもしれませんし、もはやそれでもならないかもしれません。

パズルのピースが絶対的に足りないから面白いのですよね

パズルがどんどん詰んでいっても最後の一枚に大どんでん返しの絵が隠されているかもしれませんしね。

女心と秋の空です。コロコロ考えは変わります。

それではごきげんよう。


神武天皇は九州から来たのですか

2021-03-19 08:27:14 | 歴史

根本的なこととして九州の人が何故大和へやって来たのかがどうも納得にまで至りません。

また、やって来たとしたらいつ頃の話なのでしょうか。

 

3世紀前半から中葉にかけて、日本列島では土器が活発に移動しているようです。

土器が移動するということは人びとが移動しているということです。

北部九州は弥生時代であっても古墳黎明期であっても、列島の最先端の地ですよね。

出雲なり吉備なり畿内なりが最先端の文物を求めて北部九州へ出ていくのは当然です。

実際、出雲・吉備・畿内などの土器は北部九州へ移動しています。

例えば物部氏がどこの地方の出身であろうとも、北部九州に物部氏の足跡が残るのは当たり前だと思うのです。

九州の地名と大和の地名の一致についても、それがどの時代かはわかりませんが、むしろ大和から九州へ地名が移ったのではないかと思ってしまいます。

 

記紀は神武天皇がやってくるよりも先にニギハヤヒが大和の地を治めていたといいます。

神武天皇=崇神天皇であるならば、纏向時代の話なのでしょうか。

纏向遺跡の在り方を鑑みるに、ひょっとして纏向を創り出した吉備、出雲、丹波や東海・越・近江などの地方勢力のすべてを「ニギハヤヒ」として括ってしまった?

縄文後期の橿原遺跡からは東北の影響がうかがえます。この東北勢力の子孫がナガスネヒコとか・・・。

ここに神武=崇神がどう絡んでくるのでしょう?

神武が吉備に寄ってなければ、当初纏向に集まった勢力がニギハヤヒ、後で加わった地域が神武の立ち寄り地と考えたいところですが、そうは問屋が卸しませんね💧

 

唐古・鍵や中西遺跡・秋津遺跡などの奈良の在地勢力が「都市」というより「市(いち)」を造りたくて各地の首長に声をかけた、なんてことはないでしょうか。

吉備や出雲、丹波や東海などの中間点である奈良に、クニというより「市」をつくりたかったなんてことは。故に環壕などはない…

宗教都市としての纏向ではなく市がまず彼の地にできた。それが都市・纏向へ発展。市の機能は海石榴市へ…。

都市・纏向ができた後であれば、それを乗っ取りに先進地の人が大和へ出向くのも理解できるのです。

ただし、それでも軸足を北部九州に置いておくでしょうが。

 

それとももっと後の時代に九州から来た天皇がいるのでしょうか。

天皇家が九州起源であると記紀は主張するのですから、どの天皇かが九州出身なんですよね??

いつ誰が九州から何のために?? 


魏の張政

2021-03-17 08:49:35 | 歴史

魏の臣である張政は247年に倭国へやって来て(魏志倭人伝より)266年に帰国した(晋書武帝記より)という説があります。

19年もの間、張政は倭国で何をしていたというのでしょうか。

森浩一氏は「張政は台与をつれて大和遠征を行い大和纏向の地に到達し、古代大和政権を打ち立てる大事業を完成した」との説を展開されています。

なんとも歴史ロマンにあふれているではありませんか!

 

しかし、纏向遺跡からは北部九州の影響はほとんどうかがえません、

纏向遺跡の発掘が進むにつれて何かでるだろうと思っていたのですが、未だ出ません。出てくれないかな…。

纏向遺跡からは魏の張政が主導したような痕跡も全く見受けられません。今のところ…。

 

では、張政は倭国で一体何をしていたのでしょうか?

張政の墓は朝鮮半島の楽浪郡の地で方墳として発見されています。

磚に「使君帯方郡太守張撫夷」と型押しされており、これは「東夷を撫順した帯方太守の張」という意味だそう。

張政が主導していたならば、前方後円墳がシンボルとなることなんてあったのかというところも素朴な疑問です。

本人は漢民族でしょうから方墳に葬られるのは当たり前としても、円墳と方墳をくっつけた壺の形のような墓を造ろうと思います?

前方後円墳は台代の死後に倭人が創り出したものだから関係ない??

まつりごとの制度だってもっと中国寄りのものになるでしょう??

また周りの蛮族の変な風習は、こんな変なことをしていると小馬鹿にして書くのが「中華」だと思うんですよね。

中国の書物はなぜ前方後円墳を書かなかったのでしょうね?

案外、古墳が立派なものだったから馬鹿にできなかったということなのかも?

尤も日本の書物も多くの年月も莫大な財も費やして造った古墳について、賛美していませんが。

そもそも張政が倭国に滞在していたならば、倭国の正確な位置さえも伝わっていないなんてこともないような気が・・・。


土佐の遺跡群

2021-03-15 08:26:29 | 歴史

縄文時代末期や弥生時代の土佐が各地と繋がっていたことに、私ただいま興味津々です。

土佐市の居徳遺跡群からは縄文晩期の面白い遺物がたくさん出土しています。

まずは、金属器によるとみられる鋭い傷や矢じりの貫通痕がある人骨が三体分。

人骨にはノミ状の金属器によると思われる刺突痕があり、同時に出土した猪の解体痕にも同様の金属器が使われた様子がうかがえます。

国内最古の集団同士の戦闘行為の痕跡なのだそう。縄文時代末期に金属器で戦闘です!

この遺跡から出土した木胎漆器は、東北地方の漆を使う特徴と中国・長江流域の影響を受けたと考えられる文様を併せ持っています。

東北地方と長江流域、なんて広域なんでしょう!わくわくします❤️

日本最古の木製鍬や、全国最大級の土偶頭部なども出土しています。

 

南国市の田村遺跡群もまた面白い!

現在までに発掘された日本最大の弥生遺跡で、三重の環濠をもつ農耕集落跡です。

朝鮮無文土器の直接の影響をうけて成立したと考えられる弥生土器は、北部九州の遠賀式土器よりも古い可能性があるといいます。

大陸的要素の強い石器や九州系の石材も出土していますが、紀伊半島南部の弥生初期農耕集落との関係も考えられるようです。

紀伊半島からは太平洋ルートによる伝播が想定されています。

 

平安時代の「土佐日記」の印象からか、遠流の印象からか、土地のかたには失礼ながら土佐は辺鄙な地と勝手に誤解しておりました。

ところで太平洋航路っていつからあったのでしょうね?

どうやって渡海していたかは不明ですが、縄文の人びとは事実として遠路はるばる移動しています。

弥生時代には土佐の特徴を持つ壺や甕が少数ではあるものの宮崎にも持ち込まれている様子ですね。

太平洋ルートがもし既にあったなら、神武天皇はなぜ何年もかけて瀬戸内海を西に進んだとされるのかが疑問です(瀬戸内海航路も通れなかったと言われていますが)。

ニギハヤヒの天降りしたクニがヤマトにできて、そのクニを乗っ取りに行くのであれば宮崎を出発し、土佐経由で紀伊半島、そこから大和へ・・・となりませんか?

塩土老翁が瀬戸内の勢力だったからですか??


物部守屋と信濃国 2

2021-03-13 10:53:07 | 歴史

6世紀に物部氏と蘇我氏が「崇仏・拝仏論争」で戦ったというのは本当なのでしょうか。

もし本当であれば、物部が難波の堀江に棄てた仏像がご本尊のはずの善光寺。

このご本尊は日本書紀によれば百済から贈られた釈迦仏金銅像。

しかし善光寺の本尊は阿弥陀如来だといわれています。

誰も見たことがない秘仏ですが、秘仏本尊を模した前立本尊の印相は薬師如来に似ているとされるし、一体どんな仏様がどんな由来でまつられているのでしょうね?

善光寺本堂に「守屋柱」なる柱があり、柱の下にはその首が埋まっていると言われるのは有名な話です。

四天王寺の守屋祠とともに謎ですね。

守屋の墓は大阪府八尾市に現存し、全国の有名神社が玉垣を寄進しています。

なのになぜ守屋の首が善光寺にあると言われるのでしょうか。

 

諏訪大社上社の神体山は「守屋山」です。

上社の大祝に次ぐ神官「神長」を洩矢神の末裔とされる守矢氏が代々つとめてきました。

諏訪大社上社の御神体は山のはずなのに、拝殿は守屋山を向いておりません。

本当に守屋山が御神体なのでしょうか?

このあたりも何か曰くがありそうですが、大神神社の拝殿も三輪山の頂上を向いておらず、例えば神体山をまっすぐ見上げてはいけないような思想があったやもしれず、何ともいえないところでしょうか。

 

守屋の次男坊が落ち延びただけで、これほど色濃く物部守屋の影が信濃に残っているのが私には解せません。

物部氏の痕跡なら そらあるでしょ なんですが、守屋を特定してくるのがどうも・・・

しかも信濃には蘇我氏も進出していたと言われています。

親百済派の物部氏と親新羅派の蘇我氏の利害対立で守屋が弑されたならば、守屋の一族が逃げ落ちる地として信濃は相応しくないように思えます。

タケミナカタ、イセツヒコなど敗者が信濃に逃げ落ちるのと同じ理由なのでしょうか。

ではその理由とは??

信濃はずっと「治外法権」的な様子なのに、天武天皇は遷都の候補地にします。 信濃が「始まり」のクニだったら面白いな~♪