古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

天の沼琴と鳴り物好きの事代主命

2021-04-10 20:15:25 | 歴史

生大刀・生弓矢・天の沼琴。

オオクニヌシがスサノオの娘・スセリヒメとスサノオのもとから脱出する際に持ち出したとされる神宝です。

鏡・剣・勾玉ではなく、大刀・弓矢・琴の組み合わせがスサノオの神宝だったのでしょうか。

大刀・弓矢・琴の組み合わせは5世紀前半の祭祀遺跡から土製模造品として多く見つかっています。

 

スサノオからオオクニヌシに受け継がれたとされる生大刀と生弓矢は、大阪府富田林市にある美具久留御魂神社に奉納されているそうです。

美具久留御魂神社は崇神天皇10年に創建されたと伝わる古社です。

随分前に訪れましたが、下拝殿で鳥居を振り返ると二上山が鳥居の間から見えることが印象的でした。

春分・秋分の日には二山の間から朝日が昇るといいます。

その先には箸墓、大神神社、伊勢斎宮跡などが東へと並んでいます。太陽信仰の聖地です。

背後の神奈備山をご神体とする美具久留御魂神社に生大刀・生弓矢が奉納されているのなら、天の沼琴はどこにいったのでしょうか。

 

神功皇后が神託を乞われた際、仲哀天皇(あるいは武内宿禰)が琴を弾いています。

琴というのは古来より、シャーマンが扱う楽器だったようですね。

八戸市の是川中居遺跡からは紀元前1000年頃の琴と思われる木製品が出土しています。

現存する最古の弦楽器で、同様の木製品は津軽市の亀ヶ岡遺跡、彦根市の松原内湖遺跡、小樽市の忍路土場遺跡からも見つかっているそうです。

縄文時代から脈々と琴は使われてきた様子です。

それにしても 天の沼琴、またもや「ぬ」です。

瓊琴とすると、玉で飾った立派な琴という意味なのでしょう。

表記に異同があり天詔琴という表記を採るならば、のりごと(詔)を請うときに用いる琴という意味なのでしょう。

 

美保神社に祀られる事代主神はオオクニヌシの子神です。

オオクニヌシから事代主が引き継いだはずの天の沼琴が行方不明になった、なんてことはないでしょうか。

事代主が鳴り物好きとされるのは銅鐸との関連かと思っていますが、琴との関係であってもいいのかな?

「関の明神さん(事代主)は鳴り物好き」と評判をたて、鳴り物を奉納させその中から天の沼琴を探し出そうとした・・・

そんなつまらない妄想をするのが私、好きなんですよね!


牛を食す神武天皇

2021-04-08 17:31:09 | 歴史

日本列島で牛が飼われるようになったのは、いつからなのでしょうか。

日本書紀に宇陀の弟猾が牛酒で磐余彦(神武天皇)を饗応した場面が出てきます。

紀元前663年の出来事とされています。

牛の骨が出土するのは5世紀からで、それも5世紀には御所市の南郷遺跡くらいで出土例が極めて少ないようです。

6世紀の出土地は近畿地方に8割以上が集中し、あとは下総国から出ている様子です。

牛形の埴輪も兵庫県朝来市の船宮古墳のものが5世紀後半と考えられていますが、概ね6世紀代のものばかりです。

雄略天皇によって父を殺された、のちの仁賢・顕宗天皇が馬甘・牛甘(牛飼い)として身を隠したという話も書かれています。

牛が畿内にいたのは5世紀の終わりくらいからなのでしょうか?

馬の飼育についても5世紀頃であると考えられているようですが。

 

神武天皇が牛を食していたならば、神武天皇=応神天皇と考えてOKなのでしょうか?それでも1世紀ほど合いませんか。

もしも神武天皇が九州人で、畿内で牛を初めて食べたのなら...と想像すると面白い・・・。

応神天皇と神武天皇とは同一人物だとする説をとる方も多いですね。

牛を食すことだけに拘るなら、神武天皇や応神天皇は崇神天皇とは同一人物ではないと考えるべきなのでしょうね。

崇神天皇は実在の可能性が高い最初の天皇で、実在するならば3世紀後半の人物とされていますから、その頃に牛はいなかったと推測されます。

神武天皇=応神天皇で崇神天皇は別人だとするならば、崇神天皇より前に神武天皇がヤマトに来たという話を作ったのは何故なのでしょう?

そしてその前にはニギハヤヒがいる・・・。

 

皇統が途切れかけたとき、継体天皇が「応神天皇の5世孫」として現れます。

応神天皇が重視されているように感じます。

応神天皇こそが実は大和朝廷にとってのハツクニシラススメラミコトなのでしょうか??

継体天皇は天皇となる前、越にいたとされます。

応神天皇は越の気比大神と名前を交換したとされます。

諱の考えがある時代に名前を交換するというのは、もう人物が入れ替わったに等しいことだとおもわれるのですが…。

神武天皇=応神天皇であるならば、気比大神との関係をどう考えていいのかが私にはわかりません。

神武天皇=応神天皇でなくても、気比大神との関係についてはわからないのですけどね…。

 

う~ん、記紀の細部に拘ると、どうにもなりませんね~ (*´з`)


仲哀天皇と西の海と神功皇后

2021-04-05 11:52:12 | 歴史

記紀において仲哀天皇は神託を信じないように書かれていますが、その直前の部分でも貶められているように感じてしまいます。

仲哀天皇と神功皇后が熊襲を討つために筑紫の香椎宮にいたときに神功皇后に神がつきます。

「熊襲など貧しい地でなく海の西の方へ行け。そこに宝の国がある」というような内容の神託を受けた仲哀天皇は「西の方を見るとただ海ばかりである」と言って信じません。

福岡からは朝鮮半島は見えませんから、仲哀天皇が見えないというのはその通りだと思うのです。

でもこの話だと仲哀天皇は「朝鮮半島に豊かな国があることを知らない」人だと小馬鹿にされていませんか?

 

神託を信じなかった仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后は所謂「三韓征伐」に出向きます。

神功皇后その人であったかどうかは別にして、倭人がしきりに朝鮮半島に侵入していたのは確かなようです。

倭人というのが日本列島の人かどうかについては見解がわかれるところですが。

「三国史記」「梁職貢図」「好太王碑」どれをとっても倭人は朝鮮半島に侵入しています。

この「倭」にヤマトが含まれていないにしても、九州を討とうとしている仲哀天皇が朝鮮半島の国々を知らないかのように書かれているのは、私には貶められているように感じるのです。

鉄だって必要だったでしょうに、朝鮮半島を知らない??

朝鮮半島と直接関わりを持っているのは九州だったとしても、大和の田舎者は朝鮮半島さえ知らないとでも言いたいのかと・・・。

一説には香椎宮付近がイザナギの禊によって多くの神々が生まれた「筑紫の橘の小戸の阿波岐原」だとされます。

香椎宮で死んだとされる仲哀天皇は貶められたわけではないのかな?とも思いますが。

 

神託の裏事情は神功皇后と通じ合っていた北部九州が、ヤマト王権の軍事力を利用して朝鮮半島を攻めたというところなのでしょうか。

朝鮮半島と事を構えたくない仲哀天皇を亡き者として。

仲哀天皇は熊襲に討たれて亡くなっただけかもしれませんが、大王が討たれた後に神功皇后率いるヤマト軍が九州を征して朝鮮半島にまで手を出したって筋書きには無理があるような…。

 

「三韓征伐」を神功皇后の功績として高らかに歌い上げるのであれば、なぜ神功皇后が卑弥呼かもしれないというような辻褄の合わない匂わせをするのでしょうか。

卑弥呼の実績として「三韓征伐」は相応しくないでしょう?卑弥呼の魏への使いの話を変貌させたにしては話が違い過ぎるでしょう?

百済から七支刀などの重宝を献じられたのも神功皇后だとされますが、神功皇后=卑弥呼なのであれば魏を匂わせて鏡を貰っておけ、と思ってしまいます。

神功皇后が台与であるなら台与であることを匂わせ、先代として卑弥呼らしき人物をでっちあげればいいではありませんか。記紀はいろいろでっちあげているでしょうに。

卑弥呼なんて正直、台与よりも奴国王よりも貧相な貢物を献じているじゃないですか。奴国との関係を匂わすなら、日本は倭奴国の後なり でまだ理解できるのですが。

後の大和朝廷にとって邪馬台国はそんなに特別な存在だったのでしょうか?

もし邪馬台国が特別な存在であるならば、神武天皇の出発地が南九州と思しき書かれ方をしているのもその関係なのかも?

神武天皇が邪馬台国の王だったと考えているわけではありません(その可能性も否定しません)。

魏志倭人伝を素直に読むとどうしても邪馬台国は南九州に存在する、と記紀の編者たちが考えたのだと思うのです。

大和朝廷の始まりを邪馬台国に繋げたいという意思が垣間見れるように感じるのは、思い過ごしでしょうか。


天叢雲剣と隕鉄剣

2021-04-03 09:19:11 | 歴史

天叢雲剣が高天原の神たちが自らでは作れない剣であったとしたなら、どういう剣であったかが気になっています。

単なる鉄剣なのでしょうか?

でも単なる鉄剣であれば作ることはできなかったかもしれませんが、唯一無二のものではなかったでしょう。

弥生後半~末期の墳墓出土刀剣は北部九州と丹後、播磨、越前、但馬、上野から北部九州と同等かより多いくらい出土しているそうです。

もちろん弥生後半に中国にルーツをもつ環頭大刀や長剣が、最も高級な武器でありステータスシンボルであったことを否定するわけではありません。

「高天原」はもっと古い時代なのかもしれませんし。

だったら中国よりも早くから鉄器時代に入った沿海州からの鉄剣が越(こし)に伝わっていたとみるのも一興かも。

 

自ら作れない剣というワードから私の脳裏に浮かんだものが「隕鉄剣」です。

人類の鉄の利用は隕鉄から始まったとも言われています。

エジプトのツタンカーメン王の隕鉄で作られた短剣、ああいう隕鉄剣が天叢雲剣なのでしょうか?

カイロ美術館所蔵のツタンカーメン王のダガーは約3300年前のものです。

トルコのアラジャホユック遺跡からは約4300年前の世界最古の黄金装鉄短剣が出土しています。

刀身約18センチのこの短剣も隕鉄の可能性が高いといいます。

 

一度ギベオン隕石を持たせてもらったことがありますが、見た目から想像する重さよりずっと重い!

隕鉄で作られた剣であれば、祭器として重んじられる剣となることは間違いなさそうです。

どこでいつ誰が作った隕鉄剣なのかが大問題ですが・・・。

ウィッドマンシュテッテン構造による模様は「叢雲」と表現するには直線的過ぎますか?

あの模様の浮かび上がった剣を天叢雲剣と名付けたとか。

そもそもウィッドマンシュテッテン構造による特徴的な模様がある隕鉄剣なんて存在するのでしょうか?

 

天叢雲剣(草薙剣)が壇之浦で沈んでしまっていたなら見つかるはずもありません。いや、豊前灘から巨大な銅矛が上がったケースもあるので望みはあるでしょうか。

実は熱田神宮で祀られていたとしても、天叢雲剣がどんな剣なのかは不明です。

ですから天叢雲剣がどんな剣であるかは妄想し放題ですよね♪

でも隕鉄に止めておきます、ヒヒイロカネなどとは言いません・・。

 


天叢雲剣と越王勾践剣

2021-04-01 09:02:09 | 歴史

どうも応援してくださる方がいるみたいで。ありがとうございます。

三種神器の鏡と勾玉については高天原の神が自ら作ったもののようです。

しかし剣はヤマタノオロチの尾から出たものとされています。

「八尺瓊勾玉」「八咫鏡」は長さの単位としての八尺、大きな勾玉・鏡という一般名詞であるにもかかわらず「天叢雲剣」だけ固有名詞です。

天叢雲剣は特別な、唯一無二のもののように感じます。

 

自分たちで作ることが出来なかった剣とはどんな剣であったのか?

妄想をかきたてられます。

高天原がいつの時代の話であるか、どこにあったのか不明なのでなんとも言えませんが、銅鏡を作れるのであれば銅剣も作れるでしょう。

銅剣は九州・中国地方・四国地方に特に濃密に分布していますし、出雲の荒神谷遺跡からは358本もの銅剣が出土しています。

もし本当に草を薙いだ剣なのであれば相当の切れ味ですから、祭祀用の銅剣だとも思えません。(私は草薙とはクシナダの訛りで越の蛇の意だと思っていますが)

 

では鉄剣なのでしょうか?

中国で製鉄が本格化したのはBC600年頃だといいます。

しかし中国の春秋戦国時代の基本的な武器は青銅製だったそうです。

青銅の加工技術が非常に高く、製鉄技術はまだ未熟で青銅剣の威力のほうが高かったからだとされます。

古代中国の名剣は青銅かつ鋳造で作られたといいます。

柔らかい青銅を鋳て剣を作り、その上に成分量の違う硬い青銅を鋳ることでしなやかさと硬度の両方を兼ね備えた剣を作ったそうです。

ここで気になるのがヤマタノオロチが古事記では「越」とされること。

「越」といえばやはり連想されるのが中国の「越(えつ)」ですよね。呉越同舟の、あの越です。

越王である勾践は名刀を8本所持しており、そのうちの1本が出土しています。

なんとこの越王勾践剣、2千年以上の時を経ても腐食していません。

青銅剣なのですが、表面が硫化銅の皮膜で覆われているためなのだそう。

越(えつ)の歴史は多くの謎に包まれたままのようで、倭国との関係も詳らかになっていません。

魏志倭人伝においても倭人の習俗が越(会稽地域の海辺の住民)の文化と共通性があるように書かれていますね。

越(こし)と越(えつ)が関係しており、越王勾践剣のような剣が持ち込まれていたならば、それこそ自分たちで作ることができない唯一無二のものと言えそうです。

越の勾践に滅ぼされた姫姓の呉も日本列島に来たでしょうし(魏略によると倭人は自ら呉の末裔と言ってますし)、そういった中国大陸から持ち込まれた特殊な青銅剣が天叢雲剣なのでしょうか?

始皇帝のクロムメッキされた銅剣なんかもいいですよね。

稲作の始まりも越あるいは呉から温帯ジャポニカを携えてやって来た人々によるのであれば、倭国や朝鮮半島では作る技術のない青銅剣が伝わっていても良いのでは???