古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

神武天皇は九州から来たのですか

2021-03-19 08:27:14 | 歴史

根本的なこととして九州の人が何故大和へやって来たのかがどうも納得にまで至りません。

また、やって来たとしたらいつ頃の話なのでしょうか。

 

3世紀前半から中葉にかけて、日本列島では土器が活発に移動しているようです。

土器が移動するということは人びとが移動しているということです。

北部九州は弥生時代であっても古墳黎明期であっても、列島の最先端の地ですよね。

出雲なり吉備なり畿内なりが最先端の文物を求めて北部九州へ出ていくのは当然です。

実際、出雲・吉備・畿内などの土器は北部九州へ移動しています。

例えば物部氏がどこの地方の出身であろうとも、北部九州に物部氏の足跡が残るのは当たり前だと思うのです。

九州の地名と大和の地名の一致についても、それがどの時代かはわかりませんが、むしろ大和から九州へ地名が移ったのではないかと思ってしまいます。

 

記紀は神武天皇がやってくるよりも先にニギハヤヒが大和の地を治めていたといいます。

神武天皇=崇神天皇であるならば、纏向時代の話なのでしょうか。

纏向遺跡の在り方を鑑みるに、ひょっとして纏向を創り出した吉備、出雲、丹波や東海・越・近江などの地方勢力のすべてを「ニギハヤヒ」として括ってしまった?

縄文後期の橿原遺跡からは東北の影響がうかがえます。この東北勢力の子孫がナガスネヒコとか・・・。

ここに神武=崇神がどう絡んでくるのでしょう?

神武が吉備に寄ってなければ、当初纏向に集まった勢力がニギハヤヒ、後で加わった地域が神武の立ち寄り地と考えたいところですが、そうは問屋が卸しませんね💧

 

唐古・鍵や中西遺跡・秋津遺跡などの奈良の在地勢力が「都市」というより「市(いち)」を造りたくて各地の首長に声をかけた、なんてことはないでしょうか。

吉備や出雲、丹波や東海などの中間点である奈良に、クニというより「市」をつくりたかったなんてことは。故に環壕などはない…

宗教都市としての纏向ではなく市がまず彼の地にできた。それが都市・纏向へ発展。市の機能は海石榴市へ…。

都市・纏向ができた後であれば、それを乗っ取りに先進地の人が大和へ出向くのも理解できるのです。

ただし、それでも軸足を北部九州に置いておくでしょうが。

 

それとももっと後の時代に九州から来た天皇がいるのでしょうか。

天皇家が九州起源であると記紀は主張するのですから、どの天皇かが九州出身なんですよね??

いつ誰が九州から何のために?? 


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