goo blog サービス終了のお知らせ 

メイキング・オブ・マイマイ新子

映画「マイマイ新子と千年の魔法」の監督・片渕須直が語る作品の裏側。

諾子ちゃんのできるまで

2009年11月05日 15時27分40秒 | mai-mai-making
 千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に展示されているマネキンです。
             
 こうしてみると、小柄な女性の十二単(じゅうにひとえ)姿は、意外とこじんまりしてて、なかなかかわいらしいものです。ちなみに、このマネキンは季節に応じて着替えたりもします。
 こういう十二単はいかにも千年前の平安装束らしくてよいのですが、けれどこれは大人の女性の衣服なので、諾子のような子どもはちょっと違う服装になります。

 ということでこれが童女の衣服、「汗衫(かざみ)」です。手ブレしていてすみません。三重県の斎宮歴史博物館で撮りました。
             
 うしろはこんな感じ。
             

 斎宮歴史博物館の近所には、いつきのみや歴史体験館があります。ここのすばらしいのは、平安衣装を実際に着られるところです。我が家の末っ子を連れていって着せてもらいました。
 最初は「単(ひとえ)」です。下着です。
             
 この上に袴をつけます。まるっきり今の神社の巫女さんの格好になりました。袴の色は、子ども用なので、派手な真っ赤ではありません。
             
 その上に着るのが「袙(あこめ)」。
             
 こんな感じになります。
             
 さらにその上に、薄物の「汗衫(かざみ)」を重ね着します。
             
 完成です。
             

 さて、ここからが大事。
 さあ、子どもっぽく座り込んだらどうなるか。
             
 絵巻物なんかでは見られない、こういう生活感のある崩したポーズをさせられるのが、実物取材の良いところです。


 
                       

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

色鉛筆ウンチク

2009年11月04日 10時43分39秒 | mai-mai-making
 千年前の歴史的な考証について、監督の個人的な友人である永沼幸仁さんに協力いただいている、というお話は前にしました。もうひとり、同じく友人の前野秀俊さんには「昭和30年担当」として考証協力をお願いしています。
 前野さんは戦前から戦後にかけての通俗文化に詳しい人です。休日のたびに古本屋や古本市を巡って、家が埋まるほど古書を買いこんではなにやらおもしろい話を蒐集しています。
 前野さんには、まず当時の子どもたちの使う色鉛筆がどんなものだったか調査を依頼することにしてみました。いえ、こちらとしては、「当時の色鉛筆のこと、知らない?」くらいのムードで話したつもりだったのですが、それから前野さんの行脚が始まります。なんともはや、前野さんは当時の色鉛筆の実物を入手しようと思い立ってしまったのです。仕事が休みの日に骨董市などを巡りまくっているようで、ときどき「古い鉛筆コレクターは結構いるけど、色鉛筆コレクターはほとんど存在していないようです」などというメールが送られてきます。
 そうやってしばらくした頃、前野さんはとうとう手に入れた何種類かの色鉛筆を手に、マッドハウスへやってきました。さすがです。頭が下がります。
             
 どうも、当時の学童用色鉛筆は、
「朱」「紺」「緑」「紫」「茶色」「黄」
 の、6色入りが一般的だったようだとよくわかりました。二箱ともその6色で構成されていました。まったく、世にウンチクの種は尽きまじ、です。
 とはいいつつも、すでに12色箱入りも発売されていて監督も新子と同世代の叔母が使っていた記憶を持つのですが、画面上では前野さんが入手してきてくれた6色入りの方を選んであります。
 前野さんはもうひとつ、舶来ものの缶ケースに入った瀟洒な色鉛筆も実物を見つけてきてくれたのですが、こちらは貴伊子の自宅の机の上に置いてあります。鉛筆削りのうしろ、ヨットが描いてある青灰色のがそれです。
             
 ついでにいうと、その同じ画面に見える貴伊子のランドセルがピンク色なのは原作どおり。そしてランドセルの上の方、棚の下に見える銅色の唐草模様の菓子缶は、監督が2007年11月にフランス・リール市に行ったときにおみやげに買ってきた薄荷キャンデーのカンカンです。れっきとした本物の舶来ものです。
 前野さんとは『貴伊子』像についても相談しました。
「戦前の中流階級の空気がそのまま、戦後に残ってるんじゃないですかね」
 そんな感じを貴伊子の周囲に漂わようと色んなものを持ち込んでいるわけです。

 貴伊子の家の近所には、貴伊子が苦手な犬が飼われています。
「この当時、犬種ってなんだろうね。スピッツとかかね」
 と、うっかり前野さんに問いかけたのが失敗でした。
 前野さんは、また古本屋を巡り、こんな本を買ってきてくれてしまいました。
             
 おかげで、当時買われていた犬の趨勢はよくわかりました。ただ、結局、問題の犬は、監督が幼稚園のときに膝小僧を噛まれて血が出てしまった、当時の遊び友だちオカモト君の家の秋田犬、その名も「クマ」にしてあります。
 いたたたた。


 まったく友だちというのは得がたいものです。
 わざわざマッドハウスまでポスターを受け取りに来ては、こんなことまでしてくれる別の友人もいます。あたま下がりっぱなしです。
http://www.warbirds.jp/hayabusa/maimai1.html

 このほかポスターは、神奈川だとか福岡だとか埼玉だとか、あちこちにゲリラ的に張ってもらってます。みんな感謝です。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スタッフルームの壁の花

2009年11月03日 17時36分58秒 | mai-mai-making
 WEBアニメスタイルで、週刊コラムを持たせてもらっています。
http://www.style.fm/as/05_column/05_column_top.shtml
「なんで『マイマイ新子と千年の魔法』のような映画を作るようになったのかなあ」
 という自分自身への問いかけを、そもそもの出発点にまでさかのぼって考えてみようと思いながら書いています。

 こんど同じWEBアニメスタイルで、『マイマイ』の資料を連載で紹介していただけることになりました。
 まずは、水彩のイメージボードからです。
http://www.style.fm/as/02_topics/artwork/artwork_maimai1.shtml
 浦谷千恵さんのイメージボードは、実は「こういう絵を描いて」という注文をまったく出すことなく、シナリオから自由に発想して描いてもらっています。
 WEBアニメスタイルに掲載予定のない絵を2枚ほど掲げておきます。
      
                    
 この頃、机を並べて辻繁人さんはキャラクター設定の作業に没頭していました。今回の浦谷さんのイメージボードは、辻さんが「新子」「貴伊子」「小太郎」のキャラクターを固めつつあった頃のものです。ひづる先生はまだ出来上がってなかったので、イメージボードのひづる先生は完成画面に登場する彼女とはまだちょっと雰囲気が違っています。
 辻さんが描いたキャラクターもそのうちにこの資料紹介ページに載ることになっていますので、お楽しみに。

 こんなふうに描かれた絵は、キャラクター・デザインのモチーフにするモデルの写真や、昭和30年頃の防府の写真なんかといっしょに、スタッフルームの壁に貼りめぐらしてありました。
 通りがかりにそれを見たアニメーターの中には、「こんな作品ならやってみたい」とそそられてしまった人もいたようです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

のりものウンチク

2009年11月02日 11時32分51秒 | mai-mai-making
 予告編でも紹介されている、貴伊子が三田尻へやってくるシーン。
 C59-164号機はこの当時、山陽本線に実在していた機関車です。特急用じゃないのでランボードの白線はなしです。
 ついでにいうと、このもうもうとした煤煙は、『ブラック・ラグーン』の背景から雲だけを切り出したものです。それを黒っぽく染めて、何層にも重ねて使っています。
             
 そして、列車そのものは、東京駅13時ちょうど発の急行『雲仙』です。貴伊子は父といっしょに8時間揺られて三田尻に着いたことになります。
 ということで貴伊子の到着シーンは朝8時台です。だとすると光の向きが実際とは違っちゃうのですが、そこは映画ですから効果優先でわざとやってます。
             
 昭和29年には特急『かもめ』も誕生しているので、はじめはこれに乗ってきたことにして「いやあ、トンネルばっかりでまるで特急『カラス』か『ふくろう』だったでしょう」と冗談いわせてみようとも思ったのですが、残念なことに特急は三田尻通過でした。
 でもって、貴伊子たちが乗って来た客車は、寝台車ではなく、リクライニングシートの特別二等客車スロ51だったのでした。山陽本線の電化よりもリクライニングシートの方が早かったというのは、ちょっとおもしろいです。
 窓の下の青帯が二等車の印です。監督は昔、赤帯の三等車になら乗ったことがあります。
             
 機関車や客車は、こちらでデザイン設定図を起こすことなく、実物の図面を国会図書館などで手に入れて、それを元に直接絵を描いてしまっています。
 列車の様子は、昭和33年の松竹映画『張込み』なども参考にしています。

 映画の舞台は山口県防府市なのですが、駅の名前はこの頃は「三田尻」です。昭和37年になって「防府」駅と名前が変る、その前なのです。
             
 その駅前に貴伊子たちを迎えにやってくる紡績会社の社用車は、トヨペット・クラウンの初代タイプ。
 トヨペット・クラウンを描くためには、演出の香月さんが愛知県のトヨタ博物館まで実車を取材に行ってくれています。
 この車種は昭和30年に新発売されたばかりです。
 ピカピカな感じを出そうと、処理を工夫してみました。
             
 そのクラウンが通りかかる天神銀座前の交差点。ここには昭和33年になってはじめて防府で第一号の交通信号が立ちます。ということで、昭和30年の防府は道路に信号がひとつもない世界だったのでした。
             
 商店街入り口右側の山口銀行は建物が新しくなっていますが、左側の権太寿司は今でもあります。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長靴をはいた係長と千年の魔法の鍵穴

2009年11月01日 14時27分59秒 | mai-mai-making
 防府市教育委員会文化財課の吉瀬勝康さん、鞆雅子さんほかのみなさんには、最初のロケハン以来お世話になり続けています。
 今も、なのです。
『マイマイ新子と千年の魔法』が公開された折に映画館に並ぶことになるプログラムに載せるため、「防府マップ」をわれわれスタッフの手で描き起こしたりしたのですが、細かい地名や何かで教えを請うことが続いています。恐縮です。
             
 それから、映画の公開にあわせて『防府にかかる千年の魔法~「マイマイ新子」のふるさとを訪ねて~』展を開催していただけることにもなっています。
http://www.city.hofu.yamaguchi.jp/8040bunka/index.htm


 文化財課は、われわれのロケハン当時には「文化財保護課」といい、今では課長を勤めておられる吉瀬さんはたしか係長さんでした。
 文化財保護課は、防府の地上に残る歴史的文化財に関する仕事のほかに、防府を写した古い写真の収集もしていれば、地下から掘り出された埋蔵文化財についての発掘調査報告書の刊行も行っています。われわれが昭和30年のことを知ろうと思っても、千年前のことを知ろうと思っても、必ずお世話にならなければならないところだったのでした。

 防府市役所でたくさんの写真を見せていただいたり、貴重なお話を聞かせていただいて、
「それではこれで。どうもありがとうございました」
 と、その場をあとにしたわれわれは、その足で松崎小学校に行き、さらに時間があったので周防国分寺へ築地塀を見に出かけました。
             
 と、なぜかそこで、先ほど分かれたばかりの吉瀬さんがゴム長靴を履いてやってくるではありませんか。
 国分寺の前の道は江戸時代には山陽道だった由緒ある道で、
「当時道幅を広げる工事を行ったときの石碑がこの道の脇の石積みの中に残ってるんです。よいしょ」
 と、吉瀬さんは側溝みたいな中に跳び下りました。じゃぼじゃぼと水の中を進んで、
「ほら、ここに」
 と、指差す盛り上げた道路の肩にあたる石組みの中に文字を刻んだ石があります。
             
 またひとつ勉強になってしまいました。映画に登場させられないのが残念ですが。
「明日、拓本を採るんですが、事前調査をやっとこうと思いまして」
 吉瀬さんは、元々は考古学を究められた方のようで、「京都、掘ってみたいですねえ」などともいっておられれたのですが、こんなふうにフィールドワークをこなす係長さんだったわけです。

 完成直後に『マイマイ新子と千年の魔法』をご覧いただいた吉瀬さんから、感想をいただきました。
 平安時代の防府の鳥瞰全景カットで、多々良山の麓に前方後円墳が描かれていたのが、吉瀬さんの目にとまってしまったようです。

          「国衙のまちを鳥瞰で引いていくシーンがありましたが
          国衙の北、多々良山のふもとの毛利邸がある位置に
          前方後円墳があり、頬が緩んでしまいました
          監督は奈良の都平城京を造るときに前方後円墳を
          壊していることをご存知なんでしょうね
          私には『千年の魔法』を解く鍵穴に見えました」

             
 やっぱり目のつけどころが違うなあ。
 こちらとしてはそんな大それたつもりじゃなかったのですが、でも思い浮かべるうちに、「千年の昔にだってさ。それよりもっと昔の世界があったんじゃないの?」そんなふうに素朴に思っていたのはまちがいないことでいた。

 ああ、映画の中に出てくる考古学者の先生が吉瀬さんに似ていたとしたら、それは偶然ではないかもしれません。われわれとして一生懸命、吉瀬さんのお顔を思い浮かべて描こうとはしたのでした。でも、実物の吉瀬さんはもっとずっと若々しい感じです。
             

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする