兎にも角にも

kanseisha-weblog

一体改革?

2012-02-15 01:38:25 | Weblog
先日、久方ぶりにホームセンターへ行った時のこと。
商品の量もさることながら、一つの商品に様々な機能、バリエーションがあることに驚いた。
昔からある商品でも相当に改良されており、まさに「かゆいところに手が届く」、「至れり尽くせり」なのだ。(中には「そこまでやることなかろうに」と思えるものも)
翻って我が建設業界である。
前述に負けず劣らずこちらも大したものである。
住宅産業などはその最たるもので、自分が子供の頃の時代と比べれば性能や機能は格段に進歩している。
細かな配慮もすさまじい。
そこには「クレーム産業」と揶揄される業界の地道な努力の積み上げが感じられる。
良し悪しは別として、この進歩(?)のベクトルは際限なく続いていくのだろう。(一体どこにたどり着くのやら)
自分が家を設計するならば、この進歩の成果にあやかって様々なものを盛り込むだろう。
複層ガラスや床暖房は標準装備だろうし、食器乾燥機もはずしがたい。
ロフトも魅力的だ。
だが、木造平屋の建物に杭を打ったりはしないだろうし、Low-eガラスを無暗に採用したりはしないだろう。
この業界にも「そこまでやることなかろうに」はたくさんあるものだ。

不要なものは排除して、バランスの良い家をつくればもっとリーズナブルになるはず・・・
しかしながら現実はそんなに甘くない。
「家」という買い物はめっぽう高い。
工事費もさることながら、土地代が高いのだ。
庶民にとってはまさに「夢」のマイホーム。(自分は当然ながら借家住まい)
何とかならないものか。
税と社会保障の一体改革もいいが「土地と建物の一体改革」もお願いしたい。(どちらも消費税増税とは切り離して考えるべし)
馬淵議員の再登場を期待するか。
いや、いっそのこと維新政治塾に応募してみるべきか。



旧暦のススメ

2012-02-04 23:26:19 | Weblog
2月4日は立春だそうである。
春の始まりだそうな。
嘘だろう。
全国的に相当冷え込んでいるぞ。
広島でも2、3日前は相当な雪だった。
とても春とは言えない状況である。(それでも名古屋では6分咲きの桜があったらしい)
立春に限らず、暦と季節感がずれているのは周知の事実である。
七夕の日は滅多に晴れないし、立秋、立冬も「暦の上では・・・」などと揶揄された表現で使われることが多い。
ならば季節に合うように直せばよいと思うのだが、そんな空気はほとんどない。
連綿と続く慣習をそのまま受け入れてしまう日本人はおおらかというべきか、無関心というべきか。
そもそも何故暦が変わったのか?
ちょっと調べてみたら面白い文面を見つけた。
旧暦はひと月が29日又は30日だったため、1年が今より11日程度短かったらしく、故に3年に一度、閏付(うるうづき)なるものがあって調整していたらしい。
改暦が決定されたのは明治5年11月で、公布から1ヶ月に満たない期間でスピーディに実施された。
明治5年12月3日がいきなり明治6年1月1日に変わったわけである。
しかも明治6年は閏月がある年で、1年が13ヶ月あるはずだった。
つまり、2ヶ月が消えてなくなった訳である。
実は当時、明治政府は深刻な財政問題を抱えていたらしい。
年俸制から月給制に改めた役人の給与を一瞬のうちに2ヶ月分削り取ったことになる。
随分と強引なやり方に思えるが、ある意味、見事な政治主導といえるのではないだろうか。
選挙も近いことだし、暦と季節感のずれも直せる、まさに一石二鳥。
こんなパフォーマンスをされる国会のセンセイ、いらっしゃいませんか?

理想は遥か彼方のその向こう

2012-01-30 02:53:13 | Weblog
他人が手掛けた建物を見てあれこれ意見するのは簡単なことだ。
経緯を知らないため、好き勝手なことが言えるからだ。
ところが自分が設計した建築をきちんと説明するのは意外と難しい。
物理的、機能的なことは与条件としてあることがほとんどなので、割とスムーズに説明できる。
問題は「建築」としての説明を行う場合だ。(そんな場合は滅多にないのだが・・・)
建築とは物理的な構造物を指すのではなく、それによって生まれる空間や環境をひっくるめた感覚的な「もの」や「場所」や「雰囲気」だと思っている。
自分の中には「こんな感じのもの」として漠然と描いているもやもやしたイメージがあるのだが、これを言葉で説明するのが極めて難しい。
しかしながら出来上がった形としての建物には「こんな感じのもの」が若干は含まれていると思っている(自分にしか分からないかもしれないが・・・)
これはつまり、自分にとっては言葉より形の方が扱いやすいことを意味している。
そして「形=言葉」の関係性ができていない場合は、他者に対する説得力が著しく欠けてしまうということも経験的に学んでいる。
要するに、「説明ができんようなものをつくったらアカン」ということなのだが、
残念ながら今の自分はそんなことを軽々しく口にできる立場にはない。
「それでもプロか!」と怒られそうだが、実際のところ過去の仕事を振り返っても完璧に説明しつくせる建築というものは皆無に等しい。
逆に言えば言葉と形を完全に「=」で繋げられれば、それは自分にとって理想的な建築ができたことになるだろうし、他者にも相当な印象を与えられると思う。
形を扱う職業ではあるが、言葉も同様に大事なのだ。

ある有名な建築家が「目指すべき理想は遥か遠くにうっすらと見えてきた」と晩年に言っていた。
巨匠と呼ばれる人物がこうなら、一介の設計士である自分はどうなるのか・・・
先は(とてつもなく)長い。

無駄を省いてほしい(祈)

2012-01-23 02:37:44 | Weblog
政治の話ではない。(政治もかなりひどいが・・・)
仕事の話である。
設計事務所の仕事といえば、一般的には建物の設計監理である。
設計監理とはよりよい建物をつくるための行為であるはずなのだが、
今頃はより多くの(無駄な)書類を作成する作業のウェイトが高くなっている。
このテーマについては過去にも取り上げたことがあるが、さらにエスカレートしつつある。
具体例をあげて示してみよう。
市内で10階建ての共同住宅を設計する場合、工事着手までに以下の手続きを踏むことが必要となる。
 ①緑化推進制度
 ②景観協議制度
 ③広島市中高層建築物の建築に係る紛争の予防及び調整に関する条例
 ④広島市共同住宅型建築物に関する指導要綱
 ⑤建築確認申請
 ⑥消防用設備等計画書
 ⑦福祉のまちづくり条例
 ⑧駐車場附置に関する条例
 ⑨改正省エネ法
 ⑩建築物環境配慮制度

個人的には⑤と⑥以外は全て不要だと考えている。
①、②については建築主及び設計者の良識の範囲内で責任を持つべきものだと考える。
③、④は近隣との紛争を緩和するものらしいが、効果が実感できない(むしろ逆効果では?)
⑦はバリアフリーの促進だが、建築基準法の関連法案であるバリアフリー法とブッキングしている。
⑧については目的がよく理解できない。(違法駐車を減らしたいのか?)
⑨、⑩については環境負荷低減を図るものらしいが、この書類を作成することによる環境負荷の方が遥かに大きいように思えてならない。

こんな手続きを踏んだところでより良い建物ができるとは思えないし、仮に不具合があった場合でも審査側が何らかの責任をとってくれる保証もない。

無駄な手続きは省いて本当に重要なことに傾注できるようにしたいものだ。
この思いはもはや祈りに近いものになっている。

きっかけ

2012-01-15 02:24:35 | Weblog
ずいぶんと更新していない。
ホームページとブログのことである。
建物写真など、かなり昔のものしか掲載されていない。
「お宅の会社、まだ営業されていますか?」
そんなことを言われかねない。
実際、社長からは「早いとこ更新せい!ブログぐらい簡単にアップできるじゃろーが!」との檄が飛んでくる。
仰せ御尤もである。
ブログを毎日更新することは難しいかもしれないが、最低でも週1回くらいのペースはキープすべきだ。
建物写真など、竣工時にアップすれば良いだけなのだ。
困難なことはない。いや、はっきり言って簡単だ。

何故できないのか?
言い訳の余地はない。単に怠惰なだけなのだ。
いろいろ事情を並べ立てて、できないことを正当化しているうちに、
「そのうちに・・・」なんてことを思う完全にダメな子になってしまった。

事を始めるのに準備はいらない。要は自分次第、やるかやらないかだけだ。
それで今、やることにした。

実は今日、自分にとっては非常に貴重な出会いがあった。
職業柄、いろんな企画図を作成するが、
ずーっと前から考えていて、同じネタで何度も似たような企画図を作成しているものの、
その全てがボツになっている企画案がある。
必ず需要があると思っていたが、あまりの連敗続きで無理だと思い始めていた。
ところが今日出会った人は、そのネタをより高尚な形に昇華して既に実現しようとしていた。
何より印象的だったのは、とても楽しそうにやっていることだ。
今回、その手伝いをさせてもらえることになった。本当にありがたいし、必ず実現させたい。

いろんなことを再開する、重要なきっかけである。

どこまで行く

2011-09-28 02:31:44 | Weblog
ひどい判決である。
怪しさを作り出すことで、だれでも犯人に出来るのだ。
不正を取り締まる警察と検察が大量の裏金を私服し、
公正を守るはずの裁判所さえも裏金の存在を告発される事態なのに、
誰も罪に問われる事のない異常な社会システムとなっていたわけだが、
それに少しでも異を唱える者には、容赦しないという宣言が公然と発せられたということだ。
一方で被災地域の汚染は着実に進行している。
そこに住む人々は、公報に擬態した偽の情報に包まれ、
避難する事もなく、日々からだが蝕まれている。
やがて、大量の死者が出ることになるのであろうが、
その数値すら色々な出来事の中に隠蔽されてしまうのだろう。
死者の事にはかまうことなく、
震災復興の錦の御旗の元に、
気付かない者達の資産はエレガントに簒奪されることになる。
世界中どこに、増税を求める馬鹿な国民がいるというのだ。
北朝鮮や中国の、あるいはソ連のことではない。
日本がそうなってしまっている。
日本人として何が出来るのか。
日々の戦いの中で何をすべきなのか。
考えなければいけない。
孫子のためということではない。
自分のことである。
ぶたれ続けて死ぬわけにはいかないと。
腹の底から煮えてくるものがある。

管直人 これで終わった

2011-04-30 23:34:21 | Weblog
自ら選んで依頼した学者に、無責任だと指弾された管直人。
無責任の理由が致命的だった。
「福島の子供達の被爆線量を子供達の危険を省みず、
年間20ミリシーベルトに決定した。
これでは、専門の学者として責任が持てない。」
というものだ。
校庭の線量の計測も、低そうなところを選んで行い、
休校とか、一時移転とかをせずに、
そのまま開校できるようにデータを操作していたらしい。
ということまでがポロポロと出てくる。
偉い学者が命がけで警告しているのだから、
20ミリシーベルトは危険であるに違いない。
親達は必ず直感する。
これで、全ての親達が管直人を許せなくなってしまった。
特に変化を好まない女性を敵に回す事になる影響は大きい。
これまで、「首相をコロコロ変えるのはいかがなものか。」
というマスコミの単純な誘導で折伏できていた女性達が、
「管直人だけは何があっても絶対に許せない。」
という頑迷な存在に変わるのだ。

終わったな管直人。
それにしても長かった。

まさか、引導を渡すことになった小佐古先生が、
このことに関して確信犯だったとは思えないが、
政治家達は早くこのネガティブキャンペーンの威力に気付くべきだった。
何人もが束になってかかっても取れなかった首が、
たった一人の辞任で取れる事があるのだ。
これで、ようやく次のステージが始まる。

おーい姉歯事件

2011-04-29 23:18:12 | Weblog
東日本大震災にからんでよく聞かれる。
自分の家は大丈夫なのか?
大丈夫ですよ。津波で流れた家だって、
流れるまでは無事だったでしょ。
と言うとみんな気がつくのだ。
地震じゃない。津波だったのだ。

大半の建物が無事だったのに、
原発だけは津波の前に、電源を喪失していたらしい。
実は、色々壊れていたらしい。
津波のおかげでそれが露呈しないで済んだので、
損害賠償を国に面倒見てもらえる。
面倒見てもらいやすくするために、
マグニチュードの計算をやり直して9.0にまでした。
解りやすくはなった。想定外。
しかし、原発という兵器が、この程度の脆弱さであったとは。
福島だけの特殊解ではない。
その後の余震でさえ、女川も東通も電源を喪失して、
危機一髪の事態に落ち込んだ。

それにしても、姉歯のマンションは丈夫である。
基準の1/2しか強度がないので、震度5強で倒壊すると
国土交通省が警告していたはずである。
きっと壊れていないんだろうな。
何にも聞こえてこない。
おーい、姉歯はどうしたらいい?

決められない

2011-03-05 01:24:10 | Weblog
肺炎の予防注射を受けて小さい子が無くなった。
その事件で、学識経験者が登場し、
安全が確認されるまで接種するべきではない。
と意見を述べた。
ついでに、ワクチンが犯人と決まったわけではないので、
大騒ぎしないようにとも付け加えた。
こんなことなら、誰だっていえる。
プロなんだから知っているはずだ。
逆に言えば知らないような人に聞く事はないわけだから。
聞かれた人は、もっと本当のことを言って欲しいのである。
「そもそもいらないんです。あんな予防注射。」とか、
「じゃぁ、どうして国が補助金を出しているのですか?」
「儲かるからに決まっているじゃぁありませんか。」とか、
「国が認可したものでの死亡事故ということで、国の責任をどうかんがえるべきでしょうか?」
決してこんなやり取りにはならないのが、公共放送である。
こんなことで責任を取るのであれば、国は何も出来なくなる。
国は責任をとるべきではないし、取らせるべきでもない。
それだけは断言できるようになった。
進歩は失敗の積み重ねである。
日本国は進歩する。
なら、日本国は失敗もする。
責任は予防接種を希望した人の側にある。
ずっと昔の1979年から予防接種の有効性というよりも危険性を懸念した前橋市では、
学校等でのインフルエンザの集団予防接種を中止していたという。
その後、前橋市医師会が近隣地域(学校で予防接種を続けている)での流行状況と、
前橋市のそれとを比較した結果、発症率にはまったく差がなかった(トヨタ財団助成研究報告書、1987年)
というのが有名な前橋レポートであるという。
こんな事実に迫れる事が解ってから、およそ1年である。
小沢事件の国策捜査の怪しさに疑問を抱いて、ネットサーフィンを始めてからのことである。
その結果、ずいぶん常識に疑い深くなってしまった。
インフルエンザの予防注射ひとつ打つ事さえ決定できなくなってしまったというわけだ

郵便局

2010-06-12 02:34:48 | Weblog
学会の会費の支払いが遅れていた。
机の上に放置していた振り替え用紙が毎日目にとまるようになってきた。
もう我慢できん。意を決して郵便局に向かった。
あいたた、電動自転車のバッテリーがない。今、充電中だったのだ。
仕方ない、電池なしの普通の自転車で郵便局へ向かう。
時刻は10時30分、いつものように郵便局の廻りは自転車でいっぱいだ。
何処へ止めようか?悩んでしまう。
どうせなら、もっと早い時刻に来るべきだったのだ。
こりゃぁ整理券で、待ち時間30分は固い。
しょうがない。ここだけは開いている赤いポストの前に止めてやった。
少しじゃまになるとは思う。でも、もちろん投函できる。
他に置くところがないんじゃけぇー。
というか、他の空いている場所ははるかに遠い。
自転車で来た意味が無くなる。
無電動の重たい自転車を漕いできたのだ。
ようやく呵責を振り切って自動ドアの前に立った。
なんだか、閑散としているように見えた。
おおっ、ラッキー、誰もおらんぞ。
整理券無用、お客ゼロか?
これならすぐ終わるから迷惑にはならんぞ。
と思ったところで愕然とした。
じゃあ、あの自転車達はだれのものなのだ。
ここの職員といっても5人しかおらん。
ぜんぶ、郵便局に無関係の駐輪が郵便局を取り囲んでいるというわけだ。
ひょっとしてここは、放置自転車で持って行かれる事がない安全地帯なのかな?きっとそうなんだな。
回収業者だって、郵便局の客の自転車を持って行くわけにゃぁいかんよのう。
なるほど。そういう名目が有れば、たいぎー回収をせんでもすむわけじゃし。
賢いやつがおるもんじゃ。
それにしても、郵便局はええ会社じゃのう。
その自転車をきれーに並べ替えて、整頓している。
気持ちがええ。
やっぱり、郵便局は守らにゃぁいけんのう。