兎にも角にも

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王者と挑戦者

2018-08-21 15:13:34 | Weblog
今日は全国高校野球選手権、いわゆる甲子園の決勝戦である。
金足農業vs大阪桐蔭の試合中である。

私は普段からスポーツ観戦をしないが、今日はラジオ中継が事務所内で流れている。
話を聞くと、大阪桐蔭には奇跡の世代とも言わんばかりの野球のうまい選手が集っており、
金足農業にとっては、厳しい戦いになるらしい。
立ち位置的には、絶対王者 対 挑戦者 といったところか。

そういう話を聞くと、どうしても挑戦者を応援してしまう。
身勝手ながら、逆転劇というドラマが見たいのだろう。
がんばれ、金足農業。

そういう私も挑戦者
王者になれない挑戦者

応援よろしくお願いします。
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再開?

2018-07-31 17:01:24 | Weblog
再開の悪寒 ⇒ 予感

改変中HP  http://kanseisha.co.jp
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久々です

2012-09-22 18:14:27 | Weblog
訳あって長らく更新できていませんでしたが、また再開致しました。
(決してサボっていた訳ではありません)

更新できていない間に色々なことがありましたが、そんな中で一つうれしいニュース。
ひろしま建築文化賞の優秀賞に選ばれました。(ずいぶん前のことですが・・・)
ぜひご覧ください。

http://www.h-aaa.jp/prize/prize7/prize_fuchuhoiku.html
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継続は力なり

2012-05-16 00:09:28 | Weblog
格言の中でもかなりの有名どころである。
自分の日々の行動もこの言葉通りでありたいと思う。
しかし毎日続けていることといえば、寝ることと食べることぐらいである。(涙)
思えばこのブログの更新期間も随分と間延びしてきた。
サイトによっては毎日ブログを更新しているところもあるというのに。(とても真似できません)
このままではいけない。
初心に戻らなければ。

しかし実際のところ、コンテンツに困ってしまう。
何を書いたらよいものやら・・・
自分の日々に彩りが欠けているのだろうか?
いや、そんなはずはない。
毎日スリル満点とはいかなくても、それなりに感じ入ることはあるはずだ。
これはブログ更新が困難である理由を並べ立てて出来ないことを正当化しようとする逃避行動に他ならない。
過去にも同じ過ちを繰り返して、無数のトライアルを屍とさらしてきたはずだ。

何を書くのか?
何のために書くのか?
この盲目的な行動の先にどんな果実を得ることができるか?
そんなことは一切考えずに、とにかく継続しなければならない。
そう、決して「忙しいから」で片付けないように。
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無用の再考(吹抜け空間)

2012-04-25 00:19:47 | Weblog
老子の著の中に「無用の用」を述べた以下の一節がある。

  30本の輻(や)が車輪の中心に集まる。
  車の中心点の有用性は、その中心の穴の空間にある。

  われわれは粘土の塊から容器をつくる。
  それを有用にするのは、容器の内部の何もない空間である。

  われわれは部屋のために扉や窓をつくる。
  その部屋を住みやすくするのは、これらの何もない空間である。

  こうして有形のものは便利である。
  しかし、それを有用にするのは無形のものなのである。


実際の建築空間において「無形のもの」の代表例は吹抜け空間といえるだろう。
ヴォイドの存在が建物全体に豊かな価値をもたらす例は多くみられる。
しかしながら吹抜け空間の快適性、とりわけ熱環境をコントロールすることはなかなか難しい。
夏は暑いし、冬は寒い。
とりわけ冬の寒さは耐え難いものがある。
そんな訳で特に住宅においては快適な吹抜けをつくることは困難、もしくは大きなエネルギーロスを伴うものだと認識していた。

ところが、である。
この冬に、あるモデルハウスを訪れた時のことである。
このモデルハウスは2階建+ロフトで、1階からほぼ3層分にわたる大きな吹抜けを備えていた。
当然、寒いはずだと思っていた。(もしくはガンガンに暖房をかけていると思っていた)
しかし内部に入ると床暖房しかつけていないにもかかわらず、極めて快適な熱環境を実現していた。
最も驚いたのは、1階とロフトで室温差がほとんどないことである。(体感的にはほとんど同じ)
説明を聞くと、理屈としては理解できるものの、これまでの経験上、すぐには信じられない。
しかし実際にその快適さを目の当たりにし、体感で納得している。
これまでの常識をひっくり返された感じがした。


設計士という生き物は、吹抜けや玄関、階段といった、実生活ではあまり長居しない場所に随分と大きな関心を寄せているものだ。
故にちょっと間違うとこれらの「無用の用」が「有害の用」となることもある。
だから「無用」は慎重に扱う必要がある。
しかしその意識が強すぎると、十分な「用」を発揮できないのかもしれない。
そんなことを考えさせられた経験でもあった。

ちなみに前述のモデルハウスだが、夏にも快適であるらしい。(室温が30度でも涼しいとか・・・)
信じがたいが実体験として納得してしまっている。
本当かどうか、今年の夏に確認してみるつもりだ。
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サクラサク

2012-04-10 00:56:16 | Weblog
自分は自転車通勤をしている。
毎日、川沿いの土手道を通っている。
そして今年もこの季節が来た。
桜の花が満開だ。
川沿いにはたくさんの桜の木が植えられている。
もう10年以上も通っているが、桜の木は律義者で毎年必ず花を咲かせてくれる。
その桜並木の下を、たわわに咲き綻んだ花枝の下を、掻い潜るように進んでいく。
理屈ではなく、全身で「美しい」を体験できる、何とも贅沢な時空間。
普段の設計業務の中では到底生み出せない、圧倒的な美しさだ。

なぜ美しいと感じるのか?
濃褐色の枝に淡桃色の花がつくコントラストによるものか?
たくさんの花弁が幾重にも重なって生まれる重厚な奥行きによるものか?
先入観で「桜の花は美しい」とインプットされているからか?
物理的、現象的、精神的等、様々な理由はあるのだろうが、
ここで体感しているものにはそういった論拠を超えたバックボーンがある。
体験することで納得できる感覚。
理屈で説明することは難しい。
あえて言うならば「散るから美しい」というところか。(月並みだが・・・)
実際に風に吹かれて散っていく桜の花は恐ろしいほどに美しいものだった。
でも今しばらくは香り立つような花景色を楽しむことが出来そうである。
咲いて良し、散って良し。
非の打ちどころのない存在である。
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設計士という職能の生存率

2012-03-25 09:54:51 | Weblog
つい最近、ある自治体の駅前広場活用に関するプロポーザル業務に関わった。
小さな自治体だったこともあり、駅前広場の整備となると、町全体の整備にまで影響を及ぼし、「将来を見据えたまちづくりの方向性」といったことに踏み込むことになる。
地方の小さな自治体では少子高齢化が激しく進行しており、限界集落にもなりかねない。
右肩上がりの時代とは全く違う観点からまちの構造を捉え直す必要がある。

おそらく全国至る所で似たような問題が発生しているものと思われる。
人口が自然減となり、高齢化が進んでくるわけだから、より効率的、集約的なまちの在り方が模索されて当然である。
建設することよりも解体・撤去する方が多くなるかもしれない。
今まで宅地だったところを山林に戻すようなことも起こってくる。
人が減っていく中で自治体を維持するためには、より効率的な自治機能が求められる。
コンパクトシティが標榜され、活動エリアが集約されていく。

少し寂しいシナリオに思えるかもしれないが悲観することはない。
まちが小さくまとまっていく過程でも、新たな生産活動や技術革新は必ず生まれてくる。
ひょっとしたら移民を受け入れて人口が増えることになるかもしれない(それはそれで別の問題を引き起こしそうだが・・・)
こういった状況に応じて現在の社会の在り方やニーズも少しずつ、そしてドラステッィクに変わっていく。
進化や進歩とはそういうものだ。

社会が変われば、当然ながら我々の職能もそれに合わせて変化していかなければ淘汰されるのみである。
建物の図面を描いて報酬を得るといったこれまでの契約形態では社会のニーズに対応できないかもしれない。
設計士の守備範囲そのものが多岐に渡っていくものと思われる。
我々は個人的にも業界的にも大きな転換期を迎えることになる。

ちなみに1000年後には日本人は30人以下になるという推計も出ている。
日本人そのものが天然記念物に指定されている状況だ。
はたしてこの30人の中に設計士は含まれているのだろうか?
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3.11から1年

2012-03-15 00:16:10 | Weblog
はや1年という感じである。
今振り返っても自分にとって極めて大きな出来事であったと思う。
最初に知ったのは打ち合わせ先のテレビでだった。
大きな地震があり、それによって巨大な津波があったこと。
正直言って最初はピンとこなかった。
「この地震による津波の恐れはありません」というのが自分の中に常識として刷り込まれていたからだ。
夜通し続く報道から事の重大さがじわじわと伝わってくる。
同じ日本とは思えないような映像が報道されてくる。
映画のような映像だ。
まさしく衝撃的なものだった。

あれ以来、少しずつではあるが様々なことを知るようになった。
自分の価値観そのものが変わり始めたとも思う。
いろんな出来事を懐疑的に見るようになってしまった。
原子力発電のこと。
放射能のこと。
国家というもの。
新聞やテレビで得られる情報が全てではないこと。
インターネットの情報には嘘も真実も含まれていること。

無知は罪だというが、知らないことはたくさんある。
わからないことを含めればそれこそ無数だ。
自身の職能の社会的存在価値すら希薄に感じられるほどだ。
そんなことを考えるきっかけになった出来事である。

思えば自分は相変わらず1年前のままだ。
未だ自分の足元さえ定かでない。
この職能を携えてどのように社会と渡り合っていくのか?
答えは見つけられないまま、日々時間に追われている。
節目や折々に触れて、ふと焦燥の念に駆られてしまう。
変わらなければならないと。
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最先端の原初住居

2012-03-06 19:11:49 | Weblog
最近読んだ本(というか写真集)から。
世界中の家について紹介された本(※)で、10年以上前の発行だが今見ても非常に興味深い。
発展途上国の家も多数あり、極めてプリミティブではあるが、各地の気候風土や慣習が色濃く反映されており、実に理に適った住まいとなっているように思う。
様々な視点からの論評があると思うが、大別すると「巣」と「洞窟」に分けることができる。
砂漠には洞窟のような住居が多く、多湿地帯では巣のような形式が多い傾向にある。(当然と言えば当然だが)
巣にしろ洞窟にしろ、そこには内部と外部を分けるという意識が働いているわけで、その仕切りがどのように構成されるかで、出来上がる住まいの性質が決まってくる。
ただし、どの家も無理やり仕切っているという印象はない。
外の状況に対して程よく適当な仕切りがつくられている。
そこに調和を感じ取ることができ、その調和は実に説得力がある。

最近の建築プロジェクトの中にも、巣や洞窟を連想するものは多々ある。
コンピューターによって複雑な構造解析が可能になっていることもあり、不定形なチューブ状の空間や細い部材で編みこんだような空間をつくることも可能な時代である。
この技術の進歩は素直に素晴らしいと思うのだが、少し不思議な感覚も覚えてしまう。
最先端の技術を駆使しながら極めて原初的な形式の空間を創造する。
これがどういうことなのか?
本能的な欲求によるものか、時代の流行りなのか、もっと別の理由によるものか。
(何となく一周したという感じもするが・・・)

現在の建物の在り方、住まい方について考えさせられる一冊である。


※出典:「地球生活記―世界ぐるりと家めぐり」(小松義夫)
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不自由のありがたさ?

2012-02-26 02:29:29 | Weblog
設計が面白いからこの職業を続けている。(と思っている。)
しかし設計はとてもメンドクサイものでもある。
何故ならたくさんの不自由がついてまわるからだ。
オファーを受けた時には建物の用途やコスト、工期が決められており、敷地には形状、方位、法的規制などがまとわりついている。
中心市街地などでは工事すること自体もままならないことがある。
それでなくても膨大な要望や法律、条例などに縛られている。
こういった山積みの不自由の中をもがきながら進んでいくうちに、時間切れという最強の不自由が押し寄せてくる。

こんな状況が続いていると、「自由に設計したいのぉー」とぼやいたりするのだが、
この「自由」というのは意外と曲者でもある。
例えば見渡す限り地平線が続く広大な砂漠で何かを設計する場合はどうなるのだろうか。
ギザのピラミッドなどは砂を上から降らせて自然にできる角度でつくられているらしいが、そもそも何故四角錐なのか?
機能は何なのか?
配置の理由は?
こうやってたくさんの?が並んでくる。
不自由が少ないと判断基準が希薄になり、「何故こうするのか」の理由を求める逆説的なパラドックスに陥ってしまう。
真っ白な紙を渡されて「何を描いてもいい」と言われた時の難しさと同じだ。
要するに「自由」も「不自由」という様相の一つにすぎないわけだ。

結局、設計という行為は不自由であるからこそ成立している。
この不自由の中をどれだけうまく泳ぎ切れるか。
それこそが設計者の能力である。
文句を言う前に己の能力を磨くべし。
それでも「もう少しマシな不自由であってほしい」と思わずにはいられない。
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