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第2話(3)

 イスラム革命、そして戦争(3)

 79年3月末、プラントの工事は中断となり、IJPCの日本人職員の本国引き上げが決定された。
初田もラシカリやハキミに別れを告げ、無念の思いで建設途上のプラントを見上げながら、サイトを後にした。
 
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 それから1年、革命後の混乱も下火になり、新しい政府とプラントの工事再開が合意された。
初田らのIJPC職員も新たな気持ちで、工事再開に向けて準備を始めた。
一部の職員は80年7月に現地入りした。

 ところが80年9月、以前から国境の河川、シャト・アル・アラブ河の帰属を巡って国境紛争を繰り返してきたイラク軍が、突如イラン南部フゼスターン州に侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。

 「大変だ、イランとイラクの間で戦争が始まったぞ!」
「国境紛争か?」
「いや、本格的なイラクの攻撃らしい。イランが革命騒ぎで、軍がガタガタになっている足下を見透かして、フセインが攻め込んだようだ。」

 イラク軍の2ヶ機甲師団、2ヶ歩兵師団、約5万人の精鋭部隊が国境を越え、交通の要衝デズフルとアフワーズ、港湾都市ホラムシャハル、石油都市アバダンを目指した。
イラク軍は数百台のソ連製T-62やT-54を先頭に、見渡す限りの砂地の平原を突進した。

 対するイラン軍は、革命騒ぎで将校多数を失った上、西側の軍事援助が断たれたため、戦力は半減していた。
しかし、イラン軍は敵の奇襲から素早く立ち上がり、英国製チーフテン戦車を砂に埋めてトーチカとして使い、粘り強く防戦した。

 陸、空で激しい戦いが続いたが、火力に勝るイラク軍はホラムシャハルを制圧、3週間後にはアバダンを包囲した。

 アバダンとIJPCの建設現場のあるバンダル・ホメイニとの距離は、僅か70キロだ。
IJPCのプラントも攻撃対象になり、イラク機の爆撃が相次いだ。

 工事を続けるわけにはいかず、またもや工事は中断された。

 事ここに至って、本プロジェクトに関して日本側は事業継続を断念した。
しかし、イラン側は何が何でもプロジェクトを完成させたいとする、強い要望を出してきた。

     
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