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第2話(4)

 イスラム革命、そして戦争(4)

 優勢なイラク軍は、最大100キロ、イラン領内に侵攻し、クゼスターン州の半分を占領した。
しかし、イラン軍の必死の抵抗と、自軍の作戦指揮の不手際から、重要目標の奪取には失敗した。

 イランの石油都市アバダン包囲戦では、イラクの戦車部隊は近接航空支援がなかったため、
イラン軍の武装ヘリコプター、AH-1Jコブラ(TOW対戦車ミサイル搭載)に攻撃され、大損害を出した。

 こうして11月中旬には、両軍の戦いは砲爆撃を繰り返す陣地戦になった。

 この戦争を巡る各国の対応は別れた。
イランのイスラム原理主義の波及を恐れるヨルダン、サウジアラビア、クウェートはイラク支援に回り、シリア、リビアなどはイランを支援した。

 エジプト、PLO、イスラエル、アメリカ、ソ連は中立の立場を取った。
また、イラン、イラク両国のオイルマネーを充てに、各国の武器が大量に流れ込んだことも、この戦争を長期化させた原因の一つだ。

 初田らは中途半端な状態に置かれ、図面を前にため息をついた。
「イラン、イラクとも、軍需産業がないんだから、弾を打ち尽くしたら終わる、と思っていたのに。」
「イラクは早く停戦して、交渉に入りたいようだ。」

 「イランはイスラム共和国の存亡がかかっているんだ、簡単には引かないよ。」
「プラントは立ち枯れか。何と付いていないことだ。」
そして各々、別な仕事に散っていった。

 1981年に入ると、イラン軍は機甲部隊を先鋒に総攻撃を開始した。
両軍とも300両以上の戦車を繰り出し、激しい戦いを展開した。
また、宗教的情熱に燃えるイランの革命防衛隊が、人海戦術による突撃を繰り返した。

 こうして1年後には、イラン軍は失地を回復し、イラク軍を国境の外に追い出した。
しかし、戦争はこれで終わらなかった。
勢いづいたイラン軍は、イラクのフセイン政権打倒、イラクの解放を目指し、バスラ北方の湿地地帯で国境を越え、イラク領内になだれ込んだ。

 バスラはイラクの重要な港湾都市であり、また、大きな製油所や海軍基地があることから、イラクにとり失ってはならない場所だ。

 このイラク南部での消耗戦は、以後6年弱も続くことになる。
イライラ戦争”と呼ばれる理由だ。

 そして、この戦火はペルシャ湾へと拡大していく。

     
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