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ローマとカルタゴ(10)

原本はイギリス人、Shippen Edwardにより書かれた「Naval battles of the world: from Salamis to Japan Sea」(1905年刊)で、サラミスの戦いから日本海海戦までの歴史的な海戦を紹介している。 日本は周囲を海に囲まれてはいるが、とても海洋国家とはいえない。日本人がはるかなる海に眼を向けたのは、室町や明治のほんの一時期にすぎない。世界では海の支配をめぐり、いくたびかの戦いが繰り広げられた。それを垣間見ることにより、歴史の舞台では忘れられがちな部分にスポットを当ててみよう。

ROMANS AND CARTHAGINIANS (10)
     Slight skirmishes and collisions continued to occur, and both nations became convinced that ultimate success could only be obtained by the one which should obtain complete mastery of the Mediterranean Sea. Both, therefore, made every effort; and the dock-yards kept busily at work, while provisions, arms, and naval stores were accumulated upon a large scale.

The Romans fitted out three hundred and thirty, the Carthaginians three hundred and fifty quinqueremes; and in the spring of the year 260 B.C., the rivals took the sea, to fight out their quarrel to the bitter end.

The Roman Consuls Manlius and Regulus had their fleet splendidly equipped, and marshaled in divisions, with the first and second Legions on board. Following was a rear division, with more soldiers, which served as a reserve, and a guard to the rear of the right and left flanks.

ローマとカルタゴ(10)
     小さな小競り合いと衝突が続いた。  そして、ローマもカルタゴも、地中海を完全に支配した者のみ、真の成功を得られることを確信するようになった。  そのため、両国は最大限の努力をした。  造船所は建造に忙しく、食糧や武器、海事関連貯蔵品が大変な規模で蓄えられた。

     ローマは330隻、カルタゴは350隻の5段櫂船を送り出した。  そして、B.C.260年春、ライバルは争いに最終的に決着をつけるため、海に出た。

     ローマの執政官、マンリウスとレグルスは彼らの見事に装備され、船上に第1と第2軍団を持つ部隊に組織された艦隊を掌握した。  予備としての任務をもち、左右側面後方の守りとして、より多くの兵士を持つ後方部隊がそれに続いた。

(ひとこと)
      海軍を持っていなかったのもかかわらず、短期間に330隻もの当事の巨大船である5段櫂船(100~200トン)をつくった古代ローマ人の造船能力は、同盟都市の協力はあったにしても、驚くに値する。  古代ローマ人の建築技術、建造能力の高さは、よく知られている。  今に残るローマ街道やコロセウム、水道橋などの建築物は有名である。  話は飛ぶが、第2次世界大戦でのイタリア軍は連戦連敗だったが、北アフリカにイタリア工兵隊が建設した道路は立派で、相手のイギリス軍を感心させたという。
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