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あの本はここにはあって欲しいよね

まず、私は、意見を並べて置いておきたいのだ、と前置きしておきます。

昨年度の協議会議事録に、「この図書館にこの本は常に置いてあるように、複本を揃えて欲しい」というような意見がありました。郷土資料でなく、絵本についてです。事務局は「ブックリストの本のこと」と思われれ返事をなさったのだと、推測しています。


その方にとって、置いておきたい本であっても、他の方にとってそれはどうだかわかりません。どんなに知識を積んでも知識とは関係なく、人間に同じ人はいませんし、それぞれが固有の人権を持っています。そして常に揺れ動いています。そのために研究者は、今も絶えることなく研究を続けています。完璧な本の選び方がどこかにあるのなら、研究者はもう、研究する必要はないのです。
 
 本物の絵本は、人それぞれが違って当たり前であり、他人に侵されるものではありません。そういうのを内心の自由というのではないでしょうか。偉い先生であればあるほど、それを侵すことの恐ろしさのようなものを知っているはずです。
犯罪者でもない限り人は対等であり、それと同じように本も対等に扱っていただきたいと思います。

 別の人の考えで「図書館の延長線上に市民社会がある」というのを読みました。図書館が上等な資料を提案すれば市民社会が上等になる、という発想でしょう。絵本にしても、芸術的な画風のもの、正しい日本語、そういったものを「選べばよい」「それだけあれば良い」ということです。
しかし、それは逆に見れば、世界征服をたくらむナゾーのようなもんで、図書館が上にいて市民を教育しコントロールするつもりであります(活弁調)。市民がお互いに協調し学びあうことより、自分たちの知識が勝っているという、傲慢であります。新潟市の図書館は危ういところでハンドルを切れて、良かった。
 
 それとは別のことでしょうか、本離れがあり、格差が広がり、異端者を排除し、自尊感情を認められない人々が増えてきました。ボランティアを始めたばかりの人は、おどおどと「この本はいいでしょうか」と会の古株に許しを乞い、古株は高笑いしながら、その本の表現の些細な違いや作家が新しく工夫したところを「こんなのだめじゃないの」と評価するようになりました。「絵本の見方をボランティアに教えなきゃ」と思う人もいるようです。
 ただ自分の頭が固まって受け入れられないだけなのに。

 集団相手であれば、長さに限度があり、絵が遠目がきき、ストレートに分かりやすい、ということはありますが、それらを拡大解釈して、全ての絵本を誰かの好みに合わせるという、上下関係ができました。図書館は、団体活動の自由ということで、黙認せざるを得ないのでしょう。

 実は、私も思います。「とりあえず、幾つかの中から選べれば楽なのに」。で、図書館はおすすめのリストを作っている。そしていつもあるように複本を揃えている。そして、それも時々改訂されている。それは管理者として要望や必要があればする作業ではないかと思います。
複本は、それで十分ではないでしょうか。
 本当は「図書館のおすすめ本」のリストも要らないと言いたいのです。「こういうのが良い本ですよ」という指導と同じからです。内心の自由は大切にしたいし、他人のものも侵したくありません。でも、あったほうがいいというのが大勢なのでしょう。


 絵本が好きな人はそれぞれ、それ以上の数、自分なりのおすすめ本があります。ちょっとは他人に勧めたいと思うこともあります。
 でも、やはり他人には強制しないし、図書館にいつもなくても構わないし、問われれば恥ずかしそうに答える程度であります。もちろん自分好みの本を、公共の図書館に、常に目に見えるところに置いておけなど、恥ずかしくて言えるものではありません。人を集めて教えてやろうとも思いません。10年やっても20年やっても、逆に やればやるほど、人間の多様性に目が眩む思いがするのであって、それを知識で押さえつけようとするのは、傲慢です。
 自分は神様じゃないし、そういう「上から目線」ではボランティアとしてやれるはずはないのです。

 良い本を集めておはなし会をして、聞き手が極端に少ない状態が10年続き、それでも自分たちの方向を修正できないのは、刷り込みから逃れられないか、権力にボランティアする体質に、慣れているのかもしれません。
 

それから、
これから県立図書館にボランティアさんが何人も行くことになりますが、時間があったら図書館の「館報」を見せてもらえばいいかと思います。今の図書館便りのようなもの。それは、戦中の数年は無かったようで、数十分待ってもでてこなかった。
で、戦後数年して復活したのですが、その文章のすごいこと。
外来語(英語)を日本語の中に、なるべくたくさん差し込もうとしてありました。控えてこなかったのが残念ですが、今のJ-ポップの上をいくすごさです。
 つまり、それくらい欧米のものはすばらしいと、思いたかったのでしょう。当時の人たちが欧米に憧れ、自分の子どもにもそのように教育し、日本全体がそういう雰囲気でした。その環境で育ってきた私たちは、近代化というのはそういうものだと刷り込みを受け、洋行帰りの先生の方針に従い、やってきたのだと思えてなりません。
 絵本の好みは、生育環境の違いにも大きく左右されるということは、大勢の方が感じておられると思いますので、そちらにも重点を置き、一層、一人ひとりが尊重される図書館であってほしいです。

  親子連れを集めて教えるのでなく、そこからボランティアは情報を得たり、自分が育てていただいたりするのだと、イメージしてみませんか?
 教えるつもりの人たちは、「私たちは、聞き手に助けられているのだな」と実感したことを思い出してください。
 若い保護者や絵本の会に在籍する若い人は、年嵩の会の代表にしっかり教えなくてはならないのだと思います。「人それぞれ、好きな本や大切に思う本は違い、違うということを認め、聞き手から学ばなくてはならない。自分がなぜそんなことをするのか、自分の本音を検証してください。」と。
 

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