司書と読む『児童文学論』読書会

ごくたまに借りて読むことがあるので蔵書検索をして、いつも、ギョエッと思います。
32冊あります。貴重な基本資料だからこうして読書会をして活用していただきたい。

 数年前だったか、沼垂図書館の書棚にこの本が5冊くらいずーっと並んでいるのを見たことがある。「へー、こんなこともあるんか」と思いました。今はそんなことないけど。だって、スミスさん個人の考えだからね。
この本が出版されたころは「外国のものはいいものだ」という考えがあったのでしょうか、そこから枝葉のようにいろんな本が書かれ、私たちも読んでいった。

おちょくるみたいですが、その本で気になっていることがあります。「司書になって、今までの本を破り捨ててしまいました」みたいなところがあったでしょう。どんなすごい腕力なのかと目が点になりました。今ならゴミの分別のため、カレンダーなんかを捨てる時には金具からはずそうとばらばらビリビリ一枚づつはがしてビニール袋に入れると、かさ張ってしょうがないので踏みつけてちいさくして、それはもうタイヘン。
何冊捨てたんだー、一人の判断だよねー、スミスさんの趣味だよねー、それを神聖視するわけには行かないと思います。(と、私は思う)

それから、国際子ども図書館の協議会だったか、議事録がHP上にあったので読んだことがあります。今、見つからないのですみません。
そのなかで、M先生が「今のボランティアは、児童文学のためにボランティアするのでなく、ボランティアしたくてボランティアしている。」というような発言をしていらっしゃった。
 私は、「ボランティアしたくてボランティアしている人」が多い方が健全だと思うタチです。実体のない児童文学のためにボランティアするのは、したい人はすればいいけど、実体のない国のために命まで奉仕したあの時代と同じような気がするからです。
 新潟には、本に奉仕するボランティアの気風がまだあちこちにある。東京でその講座を受けてきては、同じ団体の会員を罵倒するようになった人たちを知っています。なぜそうなるか、ここで書いてはいけないのでしょうか。
誰だって自分の学んだことを否定されるのは嫌だし、バカに見られるのもいやだしね。できたら上等な人間に見られたい。

 それから、県立図書館です。新潟県立図書館は児童サービスをしていないので有名です。建設のときには児童サービスをしてくれるよう、たくさんの願いが出されたと思いますが、そうならなかった。
ここ一年、ずっと考えてきて「あっ」と思ったことがあります。「私たちが嘆願したのにならなかった」のではなく「私たちが嘆願したせいでならなかった」のではないか。いまだに適正な冊数にならない『児童文学論』の本を思い浮かべて、もし、その状態が県立図書館に起こったら・・。

 「図書館司書と読む『児童文学論』」だったかな、市報のタイトルは。どうぞ、中立の立場で本を司っていただきたいと思います。
MさんだってMさんの生きてきたことしか分からない、私だって私の生きてきたことしか分からない、その企画をした人だってその人が生きてきたことしか分からないのです。
 「子ども」の人権とか、「子ども」観とかに照らし合わして読み直したらいいかなあと思います。それは、ここ十年くらいの働きだから、その本が出たころはまだ、確立してなかったので。
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