教育は変化している(再投稿)

2010年の秋に、東京子ども図書館の職員が「図書館の講座」で来たときに、夜、特定のグループの人だけ集められておはなし会があったそうです。(このことそのものについても後で書くことにします。)その時に、聞き手選書型読み聞かせのことに話が及んだのでしょうか、「学校という教育の場所に、ろくに本も吟味せず、プログラムも作らないで行くなんて」と、批判があったことは人づてに聞きました。

これについて、順を追って説明をします。図に書きました。
 昔の教育(A)というのは「何事か教える」ことに重点が置かれました。図の右側の→で書きました。青い部分は教える内容(知識など)です。一つ一つが閉じられて輪になっている孤立・完成した知識です。(1月17日追記)絵本で例えれば「評価の定まった本」です。人は受身なので、自分で変化させようとする「手」がありません。こういう風に習った子どもたち(その当時子どもだった今の私たちも含め)は偉い先生の理論を忠実に理解してそのまま自分のものとする習慣がつきました。それが「教育を受ける」ことだと理解されたのですね。
 そして行き着いたところは、違う意見を排除したり、特定の論理になんとか実生活をあてはめようとしたり、とにかく実際の人間社会とははずれた宙に浮いた学問の世界でした。例えれば兵器の研究に没頭するあまり、それが人を傷つけるものだということを忘れて、兵器の性能を上げることにしのぎを削るような、そういう事態になりました。お話を語ることについても、聞き手がどう思うとか現実の世の中とかに関係なく、論理の世界に陶酔し、自分たちの技能を上げることしか考えなくなったのです。

 やがて、これを反省材料として、人間を科学して研究し、現実にあわせましょうという風潮がおこりました。
 左側のイラスト(B)です。子どもの「教育」に当てはめれば、優れた知識を与えることの他に、人間を科学してそれに対応する「保育」の学問を取り入れ、現実の子どもや世間に寄り添い自らその材料となることで人を育てようという教育に向けて、変化が始まったのです。(1月17日追記)それはつまり「子ども文化」を取り入れましょう、ということでもあります。また、子どもの人権宣言でも「子どもの意見表明権」は謳われていますから、聞き手選書というのはここに着目したものでもあるのです。
 イラストでは、色々なことを、よしあしに関係なくつながりあう情報として捉えるという意味を持たせて、リングでなく他の物と絡まりあうS字フックのように描きました。つまり、ミサンガのように赤い部分を織り込む大きな輪を転がす力を持つように、「広い意味での教育」で人を育てることにしたということを描きたかったのです。情報リテラシー型教育を絵に書いたつもりです。

 個人的なことですが、私は平成20年度から新大の教育学部のいろんな資料を読むことができるようになりました。その年には「教育人間科学部」は「教育学部」に名称変更があったのです。もともと昔から「教育学部」だったものが、平成10年に「教育」に「人間科学」をくっつけて幅を広げた訳ですね。そして十年後、幅が広がった「教育」が定着したから、もとの「教育学部」に20年度には戻ったのです。本来の、人間のありようを認めた教育に軌道修正された「教育」になったということです。図で言えば、「青と赤がバランスが取れた情報」を使って人が試行錯誤する環境を作る教育になったということです。
 私は、20年度に、そういった経緯を知りましたし、もちろん、新聞などを読んで、現実離れした教育現場を是正しようとする動きはあることを何となく知っていました。なにより、読み聞かせの現場にいて、いろいろな呪文が唱えられるとそれを暗誦するように取り込もうとする人たちを大勢見ていたから、これは大変なことになっているという気がしていたのです。
(なお、新潟大学のことを取り上げて「教育学部と教育人間科学部」のページに書きました。) 

  今、人間を研究することが当たり前のことになったのですから、ボランティアは現実の子どもとお互いの様子から学んで、それを情報として捉えて自分なりの考えを積み上げる習慣をつける必要があるでしょう。積んでは崩しの繰り返しかも知れません。「ボランティアの環」に書きましたが、山から下りることです。
 だから、「教育」と言ってはいますが、お互いに学びあう「生涯学習」に向かって舵は切られているのだと思います。

 図書館は、「自分たちは社会教育施設だ」とたびたび口にしますが、広い意味での教育になりましたか?若い職員は、上に書いたような(B)の教育を受けていますが、古い(ごめんね)職員の中には、それをどうしても呑み込むことができないでいる人が多いのはなんとなくわかっています。昔の優等生ほど、呑み込み難いのかもしれません。

 最初に戻りましょう。その、東京子ども図書館の職員が来た、夜の集まりでの話です。「教育の場所なのだからちゃんとしなくちゃ」という経緯の話なのでしょうが、「ちゃんとする」ことは、今の教育に照らし合わせると、「今の子どものありように沿った情報を提供する」ということなのです。
 もう少し突き詰めれば、
 「保育的な思考を取り入れて試行錯誤の過程を見せるおはなし会」は、左の絵(B)の、赤青混合のミサンガであり、子どもはこれを利用して学んでいきます。情報リテラシー型おはなし会です。
 「大人が選びぬいた本を使い、正確に活字を暗誦し、すばらしいプログラムによるおはなし会」は、右側のイラスト(A)の青い○にあたります。
 つまり、私は教育としてのグレードが高いのは、一見いい加減に見える左側(B)のやり方なのではないか、と思っています。
 また、「こんな本を学校で読んでいいんだろうか」と心配しながら絵本を選ぶ(同じ新潟市のブロガーFちゃんのような)場合は、そういう本は赤い線のジャンルの絵本なのでしょう。それを喜んで受け入れる学校司書こそ、今の教育に精通した人なのです。逆に、評価が定まった本しかボランティアに許さない司書は、(A)タイプですね。

 「聞き手選書」のシステムを聞いた時に、「ああ、変化した教育のやり方なんだな」と発想ができないということは、変化した教育スタイルの理解が進んでいないことを示しているのでしょう。
 古い教育イメージを宣伝する講師は多いので、それを鵜呑みにしてしまうボランティアのために、私はせっせと書き続けることにします。ただ、A型の教育が廃れるとしても、A型のおはなし会はいつまでも残ることと思います。みんな同じやり方、というのもつまらないですから。
古参のボランティアに「いい加減なやり方」と非難されて困ったら、このページを印刷して配ってくださっても結構です。それか「ええ、いい(良い)加減にやっています」と涼しい顔をするかね。

 
 
 

 

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