図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
なぜおはなし会の聞き手が少ないのか②
新潟市はプログラムを決めてそれに沿ってやるという方法でずっとやってきました。ひまわりクラブの人が来ればそれなりに多いが、先生の判断で連れてくるのであって、子どもが自発的に足を運ぶものではない。常連さんがごくたまにいる。「お客が少ないのはガマンしなさい、たった一人でもその子に届けばいいのです」という言葉がつきまとっていた。
②絵本の読み聞かせによるおはなし会
誰か 「みんなで一緒に楽しむのもいいですよ」
私 「そのとおりです。過去に街頭紙芝居を見るという子ども文化がありました。子どもが好き勝手なことを口にしたり、いっしょにハラハラドキドキして、あんまり教育的でない筋書きをこっそり見たりしました。屋外だったので部屋に閉じ込められることもなく、なにか食べながら見ても良かった。とてもいい加減な空間でした。そういう空間だったから自分から見に来たし、自由に出入りした。」
誰か「子ども時代は短いのだから、その間になるべくいい本だけに出会わせたい。それらを集めて一斉に見せればいい」
私 「出会わせたい、というのは大人の希望です。いい本というのも大人の視点から評価した本がかなりあります。それらは大人の視点から低い子どもに向けた考えです。それは児童文化のメッカ「学校の授業」で十分です。それらを全て否定するわけではありませんが、子どもがもともと持っている子ども文化と5:5くらいになるよう、調整するべきではないでしょうか。
入門講座で講師の先生が「よく選べ」と仰った。大人が与えたい本を選べというのか、子どもが自ら手に取りそうな本を選べというのか、よくわかりません。もしかしたら講師自身がわかっていないか、前者を指して言っているのではないか。それならば、その講師は公共図書館の児童サービスがこれからどこに向かおうとしているのか、子どもの権利はどういうものなのか、認識不足ではないでしょうか。
誰か 「きちんとしたプログラムを作れば、一度に数冊の本を楽しむことができる。複本も用意できる。音楽のコンサートでもプログラムが決まっている」
私 「図書館に来る子どもは、しおりいらずの一気読みしたくて来ているのでしょうか?来館目的はさまざまですが、もっといい加減な感情ではないかと思います。
ただ好きなものを探したい、面白いものを見たい、もやもやとした感情です。
短時間になるべく多くの本、という発想は大人が子どもに「こうあってほしい」と感じる、その権化のように思います。
現実は、授業もお稽古事も、「決められたプログラムをこなしていく」ことです。けれど、子ども自身が楽しむ子ども文化は、自由に本の棚の中を右往左往して迷うことやのんびり図書館の中で歩き回ることだと思います。探すこと自体が楽しみなのではないでしょうか。
誰か「常連さんがいたことはいたよ。楽しそうな子どももいたよ」
私 「そのとおりです。その子は集団であっても、読み手と一対一の独占的な関係にトリップできたのだと思います。あるいは、本とは別に、読み手とどこか心のつながりが持てたか。」
誰か「たった一人の心に届けばいいよね」
私 「その一人が都合悪くて来ないので参加者0ということもありました。たった一人に届ける目的なら、そういう目的に合ったやり方に変更すればいいということです」
誰か 「いい本とあんまりよくない本があるから、いい本を優先させればいいよね」
私 「膨大な出版数を全て図書館に入れるわけは行かないから、図書館員が選んでいる。そのほかに市民リクエストの本もある。本を人間に例えてみればいいです。良い子といわれる特徴を備えた子だけ生きていて、悪い子の特徴をもつ子どもは排除すればいい、という論理はヘンですね。自分の子どもが悪い子のレッテルを貼られたらどうしますか。とにかくあるものを受け入れること。その悪いとされる表現を必要としている子もいるに違いないから、子どもに聞いて選んでもらうのです。」
誰か「あなた、こうやって文章を書いて公開しているけど、文は一人歩きするから危険なんだよ」
私 「一人歩きさせるために書くこともあります。それが、本です。間違ったことを書いて笑われるかも知れないけど、それでも伝えたいことがあるのです。
私は以前から不思議に思っていたことがありました。誰かさんたちは何か意見を言ったり答えたりするとき、某先生の発言集から常にもってくる様子があります。○○先生はこう言った、あの機関紙にこう書いてあった、それをまるで自分で考えついたことのように仰る。
これから紙芝居のQ&Aが発売されれば、紙芝居でも同じことが起こるでしょう。××先生がこう言ったからこうだ、と。
例えば「なぜ、おはなし会のお客さんが少ないの?」との疑問に、頭の中で○○先生の語録から引っ張って来る。「他に魅力的なメディアが増えたから」「私たちが面白くない本を選んでいるから」
「なぜ、集団で読み聞かせするの?」には、「みんなで聞くのも楽しいでしょう」
「なぜ、ウン万円の講座に行くの?」「東京に通うことを考えれば安いものでしょう」
・・・でも、講師一人が東京から来れば往復2万円程度。100人が受ければそれを100人で割ればいい。でもあの講座は諸経費を人数分で割った金額の負担だったでしょうか、あまりにバカ高くなかったですか?ムードに乗って一斉にあっちに動いたのではなかったでしょうか。
見る方向は、現在の子どもの姿でなく、某先生方のいる方向で、そっちに向かって語っている。「先生、私たちこんなに頑張っているのです」と。ブックリストを皆で作って、某先生に最初に進呈したり報告しようとしたり、感謝の言葉を書き連ねようとした、その気持ちがすべてではなかったでしょうか。
もちろん私もその仲間にいました。違和感もあったけど、まあいいか、と思っていました。時が過ぎ、離れたところから見て、そのおかしさに気がつきました。人間って変わっていくのですね。
これからは、子どもの気持ちを第一に、自分がいいなと思った本を選びませんか?集団で見るなら、だれに気兼ねなく「この本は見えないからやめよう」と言いませんか?本の読み聞かせをしたいなら、相手に合わせませんか?ボランティアって相手のためにやるんだよね。
②絵本の読み聞かせによるおはなし会
誰か 「みんなで一緒に楽しむのもいいですよ」
私 「そのとおりです。過去に街頭紙芝居を見るという子ども文化がありました。子どもが好き勝手なことを口にしたり、いっしょにハラハラドキドキして、あんまり教育的でない筋書きをこっそり見たりしました。屋外だったので部屋に閉じ込められることもなく、なにか食べながら見ても良かった。とてもいい加減な空間でした。そういう空間だったから自分から見に来たし、自由に出入りした。」
誰か「子ども時代は短いのだから、その間になるべくいい本だけに出会わせたい。それらを集めて一斉に見せればいい」
私 「出会わせたい、というのは大人の希望です。いい本というのも大人の視点から評価した本がかなりあります。それらは大人の視点から低い子どもに向けた考えです。それは児童文化のメッカ「学校の授業」で十分です。それらを全て否定するわけではありませんが、子どもがもともと持っている子ども文化と5:5くらいになるよう、調整するべきではないでしょうか。
入門講座で講師の先生が「よく選べ」と仰った。大人が与えたい本を選べというのか、子どもが自ら手に取りそうな本を選べというのか、よくわかりません。もしかしたら講師自身がわかっていないか、前者を指して言っているのではないか。それならば、その講師は公共図書館の児童サービスがこれからどこに向かおうとしているのか、子どもの権利はどういうものなのか、認識不足ではないでしょうか。
誰か 「きちんとしたプログラムを作れば、一度に数冊の本を楽しむことができる。複本も用意できる。音楽のコンサートでもプログラムが決まっている」
私 「図書館に来る子どもは、しおりいらずの一気読みしたくて来ているのでしょうか?来館目的はさまざまですが、もっといい加減な感情ではないかと思います。
ただ好きなものを探したい、面白いものを見たい、もやもやとした感情です。
短時間になるべく多くの本、という発想は大人が子どもに「こうあってほしい」と感じる、その権化のように思います。
現実は、授業もお稽古事も、「決められたプログラムをこなしていく」ことです。けれど、子ども自身が楽しむ子ども文化は、自由に本の棚の中を右往左往して迷うことやのんびり図書館の中で歩き回ることだと思います。探すこと自体が楽しみなのではないでしょうか。
誰か「常連さんがいたことはいたよ。楽しそうな子どももいたよ」
私 「そのとおりです。その子は集団であっても、読み手と一対一の独占的な関係にトリップできたのだと思います。あるいは、本とは別に、読み手とどこか心のつながりが持てたか。」
誰か「たった一人の心に届けばいいよね」
私 「その一人が都合悪くて来ないので参加者0ということもありました。たった一人に届ける目的なら、そういう目的に合ったやり方に変更すればいいということです」
誰か 「いい本とあんまりよくない本があるから、いい本を優先させればいいよね」
私 「膨大な出版数を全て図書館に入れるわけは行かないから、図書館員が選んでいる。そのほかに市民リクエストの本もある。本を人間に例えてみればいいです。良い子といわれる特徴を備えた子だけ生きていて、悪い子の特徴をもつ子どもは排除すればいい、という論理はヘンですね。自分の子どもが悪い子のレッテルを貼られたらどうしますか。とにかくあるものを受け入れること。その悪いとされる表現を必要としている子もいるに違いないから、子どもに聞いて選んでもらうのです。」
誰か「あなた、こうやって文章を書いて公開しているけど、文は一人歩きするから危険なんだよ」
私 「一人歩きさせるために書くこともあります。それが、本です。間違ったことを書いて笑われるかも知れないけど、それでも伝えたいことがあるのです。
私は以前から不思議に思っていたことがありました。誰かさんたちは何か意見を言ったり答えたりするとき、某先生の発言集から常にもってくる様子があります。○○先生はこう言った、あの機関紙にこう書いてあった、それをまるで自分で考えついたことのように仰る。
これから紙芝居のQ&Aが発売されれば、紙芝居でも同じことが起こるでしょう。××先生がこう言ったからこうだ、と。
例えば「なぜ、おはなし会のお客さんが少ないの?」との疑問に、頭の中で○○先生の語録から引っ張って来る。「他に魅力的なメディアが増えたから」「私たちが面白くない本を選んでいるから」
「なぜ、集団で読み聞かせするの?」には、「みんなで聞くのも楽しいでしょう」
「なぜ、ウン万円の講座に行くの?」「東京に通うことを考えれば安いものでしょう」
・・・でも、講師一人が東京から来れば往復2万円程度。100人が受ければそれを100人で割ればいい。でもあの講座は諸経費を人数分で割った金額の負担だったでしょうか、あまりにバカ高くなかったですか?ムードに乗って一斉にあっちに動いたのではなかったでしょうか。
見る方向は、現在の子どもの姿でなく、某先生方のいる方向で、そっちに向かって語っている。「先生、私たちこんなに頑張っているのです」と。ブックリストを皆で作って、某先生に最初に進呈したり報告しようとしたり、感謝の言葉を書き連ねようとした、その気持ちがすべてではなかったでしょうか。
もちろん私もその仲間にいました。違和感もあったけど、まあいいか、と思っていました。時が過ぎ、離れたところから見て、そのおかしさに気がつきました。人間って変わっていくのですね。
これからは、子どもの気持ちを第一に、自分がいいなと思った本を選びませんか?集団で見るなら、だれに気兼ねなく「この本は見えないからやめよう」と言いませんか?本の読み聞かせをしたいなら、相手に合わせませんか?ボランティアって相手のためにやるんだよね。
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