なぜおはなし会の聞き手が少ないのか①

いろんな利用者アンケートを見ると「図書館でおはなし会をしてほしい」という希望はとっても少ない。事実、お客さんはほとんどいない。しかし養成講座は花盛り。
学校からの要請は結構ある。子どもにお話を、という先生方は多い。どこかでねじれが起こっているような気がします。


①ストーリーテリング

誰か 「やーね、あなたってお客さんが少ないことを気にしてるの?子どものためを思っていいお話を選んでしているんだから、仕方ないじゃない」
私 「お客さんが少ない状態が十年も続いているのだから、どこかに問題があるのだと思います。お話ややり方を考えなおしませんか」

誰か 「グリム童話や民話はおもしろいでしょ、あなたは勉強が浅くてよくわからないのよ」
私  「はい、私は勉強が浅いです。浅い人も楽しめるように、語り手は自己変革をしなければ、だれもが利用する図書館ではお客さんは来ません」

誰か 「じゃあ、学校でみんなあんなに喜ばれるのはなぜ?」
 「学校によそのおばさんが来て、なんかお話をしてくれることが、好きなのです。授業とは目先がかわってるからね。中身なんか二の次で、語り手がやさしそうであればいい。ちゃんとやってくれてもいいけど、間違えてくれたほうがなんとなく親しみがわくし、失敗してやり直す姿を見て、ああやってやればいいのかなと安心もする。」

誰か 「子どもには表面をくすぐるのでなく深い楽しみを、って。そういう深い楽しみを与えなくちゃね」
私 「『与える』という考えは大人の高さから低い子どもに向けた視線です。学校は基本的に児童文化といって、大人が子どもを教育する場所ですから、それもいいでしょう。
しかし、図書館はこれから、以前の『児童図書館』から『子ども図書館』の意味合いが大きい児童サービスをして、子どもの身の丈の本や文化を楽しむところに変革している最中です。ですから、公立図書館でおはなし会をするときに、児童文化の感覚でいた私たちが間違っていたのです。そう説明してくれる先生がいなかったのです。子どもの文化、子どもがもともと持っている文化の中に、そもそも<ストーリーテリング>などという言葉はあるでしょうか」

誰か 「じゃあどうするのよ」
私  「私の考えたことですから、会の方みんなで話し合って進めてください。
子どもの気持ちになればいいのです。例えば「ミアッカどん」です。『ミアッカどん・・・トミー・ヨゴレンボは言うことを聞くこともあるし聞かないこともありました』
さあ、あなたが子どもだったら、『???何?このおばさんなに言ってるの?トミーっておばけ?ミアッカどんって?』となりませんか。翻訳本は翻訳本だから正確に翻訳してあるだろうけど、物語の言葉を記録してあるだけで、これでは聞いてなんのことだかわかりません。タネ本でしかないので、種のままでなく、発芽した状態で語ったほうがいいとは思いませんか?

あなたの家に子どもが来て、おはなしをしてやるならば、
『ミアッカどんっていうこわいばけものの話をするね。昔、イギリスのあるところに、トミー・ヨゴレンボっていう男の子がいたんだって。トミーはヨゴレンボっていうくらいだから、きっとキカンボだったんだね、あんまり大人のいうことをきかなかったんだって』となりませんか。

誰か 「だって、本に書いてあるのを覚えて語れ、っておそわったよ」
私  「教えてくれた先生だって自信がないんです。図書館だってね。普通の人が余計なことを吹き込んだらこまるでしょ。本に書いてあることはちゃんとチェックされてるからそれをそのまま語れば間違いないじゃん。間違って批判されるのいやだしね。大人のあなた任せ主義が積み重なって来た結果、お客が来ないようになったんじゃないかなと思います。先生の親分は『ゲームが悪い、勉強不足のボランティアが悪い』と言いつのったけど、親分自身が子どもの生の姿を受け入れようとしなかったことが一番問題だったんだと思います。きっと親分の周りはそういう人たちばかりが集まっていたんだし、過去、「いい時代にしよう」と頑張ってきたのはその人たちの努力でしょう。近代化ということです。
 よく「子どもの本を大切にする人たち」って言う先生方がいるでしょう。子どもそのものより、本の方が大切なんですね。「トミーヨゴレンボは言うことを・・」って聞いて呆然とする子どもの気持ちより、きちんと本を読み上げることの方が大事だということ。
このお話を語るとき、私は割り切れなかったのです。話はなんとなくおもしろいのに、この文や出だしの言葉が気に入らなくてつまらなさそうに語ってしまい、先生に指摘されたこともありました。
 童心主義といって、子どもは穢れのないものというような思想もあったけど、子どもは大人と同じ雑念もいっぱいあるし大人以上の想像力もある、ということが分かってきた。子どもの人権宣言があって、子どもに対して偏った情報しか与えないのは大人の身勝手だという認識も広がりました。
 人種差別があったとき、黒人に対して白人は「あなたたちは劣っているのだから自分たちが守ってあげているんだ」というような考えもあった。それと同じ。

 新潟でストーリーテリングは十数年前から始まったけど、そのころの子どもは今、高校生くらいでしょうか。高校生アンケートを見てみればいいです。おはなし会にいい思い出がないから次の世代にもおはなし会を、とは思わないんだと思います。
これからストーリーテリングを進めようとする図書館にも、よく考えて欲しい。結局しわよせは子どもが学校でガマンして聞いて、引き受けることになるでしょう。これはひどい。息苦しさの配達のようなもの。それでもよそのおばさんが来てくれればと思って聞く子どももいるのでしょうか。
図書館のおはなし会も最初はわかんなくて聞きにくるでしょうが、『トミーヨゴレンボはいうことを聞くときも・・』とやられたんじゃ『ゲームでもしてたほうが良かった』って思うでしょうね。」

誰か「結局間違えて、本と違うようになっちゃうよ」
私  「そうやって、昔話は口承できたのではないですか?間違えてとっさに言い換えたり、忘れて別の話と混ざっちゃったり。語り手が自由に変えたり。そういうのが聞き取られ、文章化されて昔話本になったでしょ。変化してきたからこそ次の世代でも受け入れられた。釜炊きだった炊飯が電気炊飯器になっていったおかげで米食文化が継承できたようなもんです。
でも、なるべく正確に、って言い出されたころから、昔話は変化しないものになった。数十年前の本をそのまま暗誦するような昔語りが主流になっていった。日本の昔話はまだしも、外国の翻訳本は、昔は「外国のものはいいものだ」という感性の訳者が多かっただったろうから、ほとんど血の通っていない文のものもあります。それをそのまま暗誦するのは情けないですよね。形を整えると言ってノイズを切り捨て、その土地の息遣いみたいなものを切り捨てていった。
つまり 口承→口承→書止め→口承→口承→書止めだったのに、
口承→書き止め→形を整える→暗誦(ずーっとそのまま聞き手がガマンして10~20年)
それがつまらないし大変だから廃れていったんじゃないかと思うくらい。
 新潟のボランティアは暗誦者でしかないので、学校では「地域交流のおばさん」で、図書館では「昔話本の利用者」になるのです。
聞き手のいない図書館のおはなし会をやるという無駄な時間をボランティアは過ごさなきゃならないのはわかっているのに、図書館は、新人養成する。これもまたひどい。おはなし会と言って大量のボランティアを学校に派遣する市もあるそうだけど、つまりは交流のおばさんとしての役目だってことですね。
 








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