表現の工夫は限りなく

 絵の表現は限りがなく、作家はいろいろ工夫をします。Aという工夫が一つ作品として発表されれば、次の瞬間からはそれは古いものとされて、新しい表現が工夫されるわけです。
アマチュアの習作であればAを試しにやってみることはたまにあります。ただ、いつまでもそこに留まっていればいつまでも自分のものにならない、ということです。

工夫Aとして有名なものを取り上げてみます。絵本サークルで、よく学習ポイントとされるところです。
「林明子」・・・・『きょうはなんのひ?』など、絵本のここかしこに、今までの自作絵本のキャラクターが登場する。
「赤羽末吉」・・・・『だいくとおにろく』で、白黒画面と彩色画面が交互に出てくる。
それぞれが、受け手を楽しませようとしたり、自分のストーリー展開を絵にしたときに自然に現れた工夫だと思います。キャラクターを登場させるのは手塚治虫のマンガが有名ですよね。

困ってしまうのは、絵本サークルの学習の時に、「だから作家○○はすばらしい」という結論に導かれ、古典絵本はすばらしい、とみんなで納得しちゃったりすることです。
 そんなようなこと誰でもいつでもやっているじゃんと、私はそのたびにおろおろしていました。「それが一体どうかしたんだろうか・・」とぶつぶつ言って、先輩から「だから絵本って素晴らしいのよっ」と厳しく言われたりしました。というわけで反論もせず「???」の思いを抱えたままやってきました。今、それと同じ思いの方はおられないでしょうか?

 私が「そんなこと大した事じゃないじゃん」と言うのはどうしてかというと、それらの工夫は、その作家が試している工夫の、浜の真砂の一粒でしかないからです。絵を書くときは、無限大の試行錯誤が頭と目と手で繰り返されます。「もうちょっと青を混ぜてみようかな、あっ、これじゃだめだ、じゃあ黄色をもう少し、あ、この黄色でなくもうちょっと白い黄色・・」というような作業が、たった1枚の一部分に繰り返されるわけですね。
 それと同じように、絵本の構成でも「この画面はもう少しロングの視点で、や、もう少し右からの目線で」という作業を果てしなく繰り返します。
 また、文章にしても「これは、じゃなくて、これ・・・、にしようか」というような試行が無限大にあるのですね。

 「お粗末に作られた」と傍で見て思うような絵本でも、実は「そう受け取られることを覚悟の上での革新的な創作」をしてきた人は大勢いるのです。高級志向の大人にとって「お粗末」であることは別の側面から見れば子どもの文化に近く、それを肯定することは子どもの今を肯定することにつながります。
 今まで一つの物差しにとらわれてそれ以外を「お粗末な表現」と笑ってきた人たちを、私はたくさん見てきました。改革者はそれでも黙って自分の道を行ったのだと思います。そしてこれからも、それが続くのでしょう。読みボラ研修でも、「創作体験」が提案されています。自分で試しに作ることで、作家の気持ちに近づくことができるでしょう。
 語りも同じことです。語る場所それぞれに、表現者が試行錯誤を繰り返していくはずです。

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