戦時メディアの役割

 明るいアピールをして会の運営をサポートしなくちゃいけないのに、ときどきゲッ、というようなページが現れるブログです。どうもすみませーん。

別のページで「他団体に入場料を全部寄付することは、変だ」「戦時の社会と同じ」というふうに書きました。それらの説明です。
今、新潟市で「語り」をやっている人たちは、知識も経験もとても優れた人材です。それらの貴重な財産が無駄になっている。これからやりたいと思う方も潜在的な貴重な財産です。自己改革して、なんとか市民のために語っていただきたいと願っています。

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 戦時メディアの役割として、紙芝居が戦意高揚に利用されたということは、昔の方はよくご存知です。もちろん児童文学や、新聞や、他のメディアもみんなそうだったのですね、朝日新聞にも今、連載されています。
 紙芝居の本で、当時のナントカ協会の幹部に指名されて「うれしくて」紙芝居実演の指導員になった人のことが書いてある部分があり、「あーあ、この瞬間なんだな」と思ったことがあります。普通の人が官に取り込まれていく瞬間です。そういった指導員から実演方法が広められていきました。本人はほんとうに名誉なことでうれしかったのでしょうし、それが国威発揚という官側の大きな目標であり、当時の常識だったのだと思います。
 
 それをそっくりそのまま、現在の、読書推進という官の目標にあてはめてみればいいと思います。自分でもかつて「図書館に登録されたボランティアとして・・」と説明して、喉に何か引っかかったような気分になったときがあるので、自分もそこに足をつっこんだのだなあと、今、思っています。
 国やナントカ協会の幹部に指名されて「うれしくて」協力していく人々。民間の団体もそれにくっついていきましたね。それが民の生きがいで幸せでもあったのですが、銃砲とどろく現場では悲惨な状況になっていました。庶民も思ったことが言えない状況だったのですね。

 官に協力するために出来た人間ピラミッドではないでしょうか。トップの人が偉いので、その下の人はお互いけん制したり、異様にへりくだったり、トップを神聖視したり口まねをしてみたり。かつての読み聞かせの現場とそっくりです。ちょっと見た目は、仲良くやっているように見えるけど、図書館員自体が疑問に思わないので、延々と続いています。どうして疑問に思わないか、というと、それが「自分たちの常識」だからです。「学校の(官の)常識は世間の非常識」と書いた理由です。

 どうしてみんな気づかないんだろうかと不思議でした。よく考えると、紙芝居の歴史の本などを読むのは周辺では私くらいかも。せめて、人に説明する立場の人だけでも分かっていてほしい。

 初めてその語りの会に聞きに行った普通の人は「何で?」と驚きますよ。中に入ってから寄付のことを言われました。私の記憶に間違いがなければ、そのときに「皆さん分かっているでしょう?」という前ふりがありました。つまりそういうことの分からない普通の人は来ないで欲しい会なのです。
 そうなると、語り方云々以前の問題ですよね。そういう指導者が学校などに訪問したり、初心者を「教育」していく。人により違うと思いますが、同じ語り方だと、「子どもに向けて語るのでなく、その団体のトップに心を向けて語っている」ことになります。そういうことを自分で認識できるかどうか。
 初心者が不審に思うようなことはやらないようにして、みんなで知恵を出し合って進みたいものです。その東京の団体に共鳴する人もしない人も、共に語れる社会になるようにしたいです。これが公共の考えですよね。

 今やっている人は、自分のやっていることは人の営みの一部だと客観視することが大切だと思います。自分の頭が固くなっていることを認識したほうがいいでしょう。自分の言いたいことは、もちろん言うようにします。ただ、自分が偉く見えるようなことや声色・言い方はしない。そうすると、どんなことが起こるでしょう? 偉そうに見えなければ、他の人は先輩である自分のことなどお構いなくめいめいが工夫してやっていきます。よーい、ドンで横一列に並んで走るのでなく、放射状に走るイメージですね。それらを認めながら、外部と調整していくのが代表の仕事だと思っています。

再度、「一冊でも二冊でも」問題を書きます。
 特攻隊なんかは「一機でも二機でも」と突っ込みました。ぶつかる一機に乗ってる人は命を持っていないみたいでしょ?一冊でも二冊でもとおはなし会をする人も、それぞれ人生や考えがないみたいでしょ?
 しかも、それでもやるために背中を押す「美しい言葉」が必要なんですね、実体のない言葉。私たちも美しい言葉を聞かされたよね。それと似ているでしょう?それに反対すると、反対したことそのものを仲間内から批判されたりね。
 当時の文学者は後ですごく反省したのかな、と思います。そのとき反省しなかった人が、同じことをくり返すような気がします。それか、そういうことを、なかったことにするとかね。
 
 対等だとか並列だとか共にあるとか、口で唱えているけれど、実際にやるのはとても大変です。こんなことしているのは新潟県の中では新潟市(特に旧新潟市)に多い。どうしてかなんとなく分かるけど、想像の域でしかないので書かないことにします。21世紀の話とは思えないでしょ。
 新潟市から県内各地域に、読み聞かせの講師が行ったことも多い。しかしその講師はそういったことに疑問を持って自ら解決しようとしない。「文字は一人歩きする」というのが理由でしょうが、失敗を恐れる自己保身とも感じます。それでもなぜその講師を他の地域が招くのか、そこに「図書館(官)の常識」がなかったのか、私の力では、これ以上追求できないかな、と思います。

 

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