きのう留守中に更新されていたブロ友さんの記事を読ませていただいた。
この方は賢明な方で、いつも尊敬の念をもって読ませていただいている。
が、きのう読ませていただいた記事には、その方がずっとある人を嫌っていたことが書かれてあった。
そうか、こういう賢明な方でも、人を嫌ったりもするんだ
まして、私のように人間のできていない者が人を憎むのは仕方ないことだったのだ。
その方は、その人を嫌って許せなかった時期、身体の調子も悪かったと書かれていた。
それは私も体験したから、よくわかる。
私が大腸がんになったのも、たぶんにそれがあったと思っている。
その方は、そういう嫌いな人を嫌う作業を続けているうちに、その人の存在がますます大きくなり、
気持ちからその人を放つことができなくなっていられたらしい。
それもよくわかる。
私は、鬱病になり、精神科に駆け込んで鬱薬を処方してもらったくらいだったから。
そのブロ友さんは、
嫌っていた人に感情面で間接的に支配されていたと書かれてある。
それもよくわかる。
私もそうだったから。
その方は、最近は、
「窓越しに見える美しい景色を見ながら、
人を嫌った感情に苦しまれ、
季節が移り変わることさえ見えなかった愚かだった時を思い出す。」と。
私も全く同じだった。
「この完璧に美しい自然、
確実に巡ってくる季節に視線を向けるより、
人を嫌うことに夢中になっていた時は
それが時間の浪費だとは思わなかった。」
というところも同じだ。
その方は若い頃にそういう体験をされたようだが、
私の場合は、50代後半から60代の半ばまで支配された。
が、私は、最近、
その憎んでいた時間が決して無駄な時間でもなかったと思えるようになってきた。
それがあったから、現在の幸せが幸せとわかるし、
何よりの収穫は、神様の存在が感じられるようになったことだ。
人間は学ぶために此の世に存在していると聞くにつけ、
私も、あの逃れられなかった憎しみの感情は、私に何かを学ばせたと思っている。
その方は、
「愚かな時間の使い方をしたと、
未来に使える時間が短くなってからやっと、気がづく。」
と書かれているが、
私は、全て必要だったから、あの憎しみがあったと思う。
あの憎しみも、メーリングリストというネットから得たものだったが、
こうして私を癒してくれているものも、
また、このブログというネットからである。
ネットでの交流も、所詮は人間関係だからであろう。
その意味でも、ネットは、私に生きる術まで教えてくれるツールであると言えるかもしれない。
*憎しみの源なりしネットにて癒されもせしわれと思ふも
*ネットにも虐めの世界あることを教へてくれしメーリングリスト
*憎みたる二年と憎まざる二年おなじ二年と思へぬ二年
*人にくみゐしころ綺麗な景色見てそれが見えざる目を持ちてゐし
*虐められのちに受けたる温かさいづれも人にいただきしもの
*温かさ感じられしは壮絶な虐めがありてのちと気づけり
*嵐さりのちに静かな老いは来て後の余生は静かなるべし
*あと何年生きるかわからぬわれなれど穏やかなれや残生のわれ
この方は賢明な方で、いつも尊敬の念をもって読ませていただいている。
が、きのう読ませていただいた記事には、その方がずっとある人を嫌っていたことが書かれてあった。
そうか、こういう賢明な方でも、人を嫌ったりもするんだ
まして、私のように人間のできていない者が人を憎むのは仕方ないことだったのだ。
その方は、その人を嫌って許せなかった時期、身体の調子も悪かったと書かれていた。
それは私も体験したから、よくわかる。
私が大腸がんになったのも、たぶんにそれがあったと思っている。
その方は、そういう嫌いな人を嫌う作業を続けているうちに、その人の存在がますます大きくなり、
気持ちからその人を放つことができなくなっていられたらしい。
それもよくわかる。
私は、鬱病になり、精神科に駆け込んで鬱薬を処方してもらったくらいだったから。
そのブロ友さんは、
嫌っていた人に感情面で間接的に支配されていたと書かれてある。
それもよくわかる。
私もそうだったから。
その方は、最近は、
「窓越しに見える美しい景色を見ながら、
人を嫌った感情に苦しまれ、
季節が移り変わることさえ見えなかった愚かだった時を思い出す。」と。
私も全く同じだった。
「この完璧に美しい自然、
確実に巡ってくる季節に視線を向けるより、
人を嫌うことに夢中になっていた時は
それが時間の浪費だとは思わなかった。」
というところも同じだ。
その方は若い頃にそういう体験をされたようだが、
私の場合は、50代後半から60代の半ばまで支配された。
が、私は、最近、
その憎んでいた時間が決して無駄な時間でもなかったと思えるようになってきた。
それがあったから、現在の幸せが幸せとわかるし、
何よりの収穫は、神様の存在が感じられるようになったことだ。
人間は学ぶために此の世に存在していると聞くにつけ、
私も、あの逃れられなかった憎しみの感情は、私に何かを学ばせたと思っている。
その方は、
「愚かな時間の使い方をしたと、
未来に使える時間が短くなってからやっと、気がづく。」
と書かれているが、
私は、全て必要だったから、あの憎しみがあったと思う。
あの憎しみも、メーリングリストというネットから得たものだったが、
こうして私を癒してくれているものも、
また、このブログというネットからである。
ネットでの交流も、所詮は人間関係だからであろう。
その意味でも、ネットは、私に生きる術まで教えてくれるツールであると言えるかもしれない。
*憎しみの源なりしネットにて癒されもせしわれと思ふも
*ネットにも虐めの世界あることを教へてくれしメーリングリスト
*憎みたる二年と憎まざる二年おなじ二年と思へぬ二年
*人にくみゐしころ綺麗な景色見てそれが見えざる目を持ちてゐし
*虐められのちに受けたる温かさいづれも人にいただきしもの
*温かさ感じられしは壮絶な虐めがありてのちと気づけり
*嵐さりのちに静かな老いは来て後の余生は静かなるべし
*あと何年生きるかわからぬわれなれど穏やかなれや残生のわれ
象が転んだです。
非常に興味深いテーマです。
ビートたけしが言ってたんですが。人を嫌ったり憎んだりするには勇気がいると。
確かにとも思いますが。そういう私は不思議とそういうのがないんです。単なる変わりモンかもしれませんが(笑)。
勿論、私も生身の人間ですから、そういう感情はあるんですが。不思議と大きく深くなる事はないですかね。
でも、極端に人を憎んだり嫌ったりする人は私の周りにも多いですし、それによって結構シボられた?記憶もありますが。憎む方も憎まれる方も結局は悲しい事なんですがね。
ただ、私は人を憎もうとすると、極端に自分を嫌ったり。作用反作用の関係じゃないけれど。これもバランス感覚の一種ですかね。
人を憎んだりするには明確な原因がある筈で、その原因を特定して憎むというのは、やはり結構勇気がいるかな。でも憎んだり嫌ったりするのは結局自分に跳ね返ってくるから、如何に思考回路を瞬時に切り替え、自分を開放させるか、というのも必要な自己防衛としての手段かもです。
内向性の人は鬱になるでしょうし、外向性の人はベラベラと人の悪口を撒き散らし、一人で暴走し炎上するだろうし。特に女性にとっては人を憎むというのは感情の発散でもあるし、やはり難しいテーマですかね。
だから、こういう憎しみの感情に溺れてしまわれないのだと。
人を憎むのに勇気がいると言うのは、私にはよくわかりません。
とにかく寝ても覚めても憎み通しでした。ほかのことが考えられないくらい。
考えようによってはバカバカしいことですよね。
しかし、その感情につかまった私は逃れられなかったです。
私は、人を憎む自分を嫌うということはなかったですが、他人様が見て尊敬できることではないのは確かなことですね。
これは私という人間の業のようなものだったかも。
相手が何を言おうとしているか、表面的な表現法を乗り越えて、肝心なポイントを探せる方かなと感じました。
そのような能力も
長年の苦しみを克服しようとした意志が強いからでしょう。
共感できる人がこの世にいる、このことだけで
生きていける力が湧きます。
桂蓮さんほどの賢明な方でも人を嫌ったりされると知り、安心できました。
私自身は、あの苦しみは私に必要なものだったと思えるようになったから、最近は憎しみも消えましたし、苦しみもなくなりました。
ここまでくるのに、ずいぶん年月がかかりました。
私は今年70歳になりましたから、残された人生は短いのですが、このことに気づけただけで、もういつ死んでもいいと思えます。
これからも、桂蓮さんのブログ記事で啓発していただきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。