第一弾『砂と霧の家』に続いて、シリーズ第二弾は『黄昏』。1981年の作品と知って、ちょっとびっくり。ずいぶん前の映画なんだな。去年、舞台でも上演されていたけど。
★『GOLDEN POND』から『黄昏』へ?
原題は『GOLDEN POND』。この映画の舞台になっているニューイングランドの湖の名前。とにかく、風景が抜群。こんなところでひと夏を過ごせることだけで、単純にうらやましい(映画の感想とは関係ないけど)。
刻々と変化する湖の表情が美しく穏やかであったり、不気味で恐ろしかったり…。それって、人の人生そのものってこと? なんてうがった見方をしたくなる私は天の邪鬼なのかしらん。
それにしても、『GOLDEN POND』から日本語タイトル『黄昏』へ、というのがすごい。人生の黄昏を迎えた夫婦のひと夏の映画、と思えばぴったりだけど。すごいなあ。このタイトルも観客動員数に貢献したんだろうな。黄昏、って、やっぱり心に響く言葉だし。
★この三人の共演なら、見なくちゃね
一年ぶりにここを訪れた老夫婦ノーマンとエセル。妻エセルはことさらにウキウキしたようすで、家の状態を確かめたり整理を始めたりする。キャサリーン・ヘップバーンはめちゃくちゃステキ。この人はなんでこんなに自然で知的で、乾いた優しさを表現するとステキなのだろう。
一方の夫ノーマンは、いかにもインテリなんだけど、言葉の端々に皮肉っぽい厭世的なニュアンスを含ませる。このヘンリー・フォンダ(この映画で初めてのアカデミー主演男優賞を受賞したそうだけど、この映画が遺作となった)もいいなあ。うまいのか下手なのかは評価が分かれるそうだけど、この目が好きです。常識家のようで、どこかに狂気を秘めているように感じてしまう。私生活では破天荒な人で、ジェーン・フォンダやピーター・フォンダを生んだ妻は夫の女性関係に悩んで自殺したということも聞いている(そのために、娘は長きにわたって父親を憎んでいたというけど)。あ、映画とは関係ないことだな。
そして、父親との確執を残したまま成長した娘チェルシーを演じたジェーン・フォンダ。この前、映像でこの人を見たとき、ああ、やっぱり老けたなあと思ったけど、ここでは若い! そして「WORKOUT」?で鍛えた死体のたくましさ、美しさ。かっこいい。初期の「男しだい」的な時代から政治活動家としての鮮烈な時代へと生きて、今はどんな人生を送っているんだろう。セレブと結婚したということをきいたような気もするけど。
でも、この映画ではいかにもヤンキー娘のその後、という感じで、それもなかなかです。
★親子って、やっかいだ
映画としては、非常にわかりやすくアットホームなアメリカ映画、という感じ。
夫婦は仲がいいし、夫は妻を、妻は夫を愛し、長い歴史を思わせる信頼感も健全に育っている。父親としては、たぶん娘に大きな期待をし(ひょっとすると、自分の人生をたくす息子を望んでいて、娘ではかなえない思いを抱いていたのかも)、愛してはいたんだろうけど、それを素直に表現する術をもたなかったんだろう。娘は娘で、父親と同じように素直に気持ちを伝えることのできない頑固者。大人になって、どうにかがんばろうとはするけど、幼いころから父親に抱いていた苛立ちや、愛されていないという感覚から解放されてはいない。やっかいだ。
妻はたぶん、それをすべて見通していて、二人を理解し、二人を愛し、二人を守り、そして誰よりも寂しく思っていたんだろう(そういうのを表現する役者として、ここではキャサリーン・ヘップバーン以外には考えられない)。
チェルシーの婚約者の息子、ちょっと生意気なビリーをひと夏預かることになった老夫婦。とくに夫は、その幼い男の子を湖につれだし、釣りを教え、ボートの運転を教え、その子と心を通わせるようになる。
ビリーはノーマンから、都会の生活では得られない自然の楽しさ、怖さを教わり、ノーマンはビリーによって、生き生きとした毎日を手に入れる。
そうして、戻ってきたチェルシーは、意外にも楽しそうに過ごして、すっかり意気投合している二人に嫉妬するのだが、それを表に出すことで、はじめて父親と心を通わすことができる。
そんなすごくわかりやすい父と娘の話なんだけど、でも大きなうねりはなくても、心の片隅に心地よい温度の高まりを残してくれる…、そういう映画です。
それにしても、親子って不思議だ。大人になったら、もう自分のキャパの中で親なんて無視して生きていけばいいのに、そうはいかないってとこがね、やっかいというか、おかしいっていうか、かわいい(なんじゃ?)。
ちなみに、『広辞苑』によると、「黄昏」は「比喩的に、物事が終わりに近づき、衰えの見える頃」という意味で、いわゆる「夕暮れ時」という意味で使うときには「黄昏時」って言うそうです。
よかったら(お疲れでなかったら)、『博士の愛した数式』と『綴り字のシーズン』もどうぞ。
★『GOLDEN POND』から『黄昏』へ?
原題は『GOLDEN POND』。この映画の舞台になっているニューイングランドの湖の名前。とにかく、風景が抜群。こんなところでひと夏を過ごせることだけで、単純にうらやましい(映画の感想とは関係ないけど)。
刻々と変化する湖の表情が美しく穏やかであったり、不気味で恐ろしかったり…。それって、人の人生そのものってこと? なんてうがった見方をしたくなる私は天の邪鬼なのかしらん。
それにしても、『GOLDEN POND』から日本語タイトル『黄昏』へ、というのがすごい。人生の黄昏を迎えた夫婦のひと夏の映画、と思えばぴったりだけど。すごいなあ。このタイトルも観客動員数に貢献したんだろうな。黄昏、って、やっぱり心に響く言葉だし。
★この三人の共演なら、見なくちゃね
一年ぶりにここを訪れた老夫婦ノーマンとエセル。妻エセルはことさらにウキウキしたようすで、家の状態を確かめたり整理を始めたりする。キャサリーン・ヘップバーンはめちゃくちゃステキ。この人はなんでこんなに自然で知的で、乾いた優しさを表現するとステキなのだろう。
一方の夫ノーマンは、いかにもインテリなんだけど、言葉の端々に皮肉っぽい厭世的なニュアンスを含ませる。このヘンリー・フォンダ(この映画で初めてのアカデミー主演男優賞を受賞したそうだけど、この映画が遺作となった)もいいなあ。うまいのか下手なのかは評価が分かれるそうだけど、この目が好きです。常識家のようで、どこかに狂気を秘めているように感じてしまう。私生活では破天荒な人で、ジェーン・フォンダやピーター・フォンダを生んだ妻は夫の女性関係に悩んで自殺したということも聞いている(そのために、娘は長きにわたって父親を憎んでいたというけど)。あ、映画とは関係ないことだな。
そして、父親との確執を残したまま成長した娘チェルシーを演じたジェーン・フォンダ。この前、映像でこの人を見たとき、ああ、やっぱり老けたなあと思ったけど、ここでは若い! そして「WORKOUT」?で鍛えた死体のたくましさ、美しさ。かっこいい。初期の「男しだい」的な時代から政治活動家としての鮮烈な時代へと生きて、今はどんな人生を送っているんだろう。セレブと結婚したということをきいたような気もするけど。
でも、この映画ではいかにもヤンキー娘のその後、という感じで、それもなかなかです。
★親子って、やっかいだ
映画としては、非常にわかりやすくアットホームなアメリカ映画、という感じ。
夫婦は仲がいいし、夫は妻を、妻は夫を愛し、長い歴史を思わせる信頼感も健全に育っている。父親としては、たぶん娘に大きな期待をし(ひょっとすると、自分の人生をたくす息子を望んでいて、娘ではかなえない思いを抱いていたのかも)、愛してはいたんだろうけど、それを素直に表現する術をもたなかったんだろう。娘は娘で、父親と同じように素直に気持ちを伝えることのできない頑固者。大人になって、どうにかがんばろうとはするけど、幼いころから父親に抱いていた苛立ちや、愛されていないという感覚から解放されてはいない。やっかいだ。
妻はたぶん、それをすべて見通していて、二人を理解し、二人を愛し、二人を守り、そして誰よりも寂しく思っていたんだろう(そういうのを表現する役者として、ここではキャサリーン・ヘップバーン以外には考えられない)。
チェルシーの婚約者の息子、ちょっと生意気なビリーをひと夏預かることになった老夫婦。とくに夫は、その幼い男の子を湖につれだし、釣りを教え、ボートの運転を教え、その子と心を通わせるようになる。
ビリーはノーマンから、都会の生活では得られない自然の楽しさ、怖さを教わり、ノーマンはビリーによって、生き生きとした毎日を手に入れる。
そうして、戻ってきたチェルシーは、意外にも楽しそうに過ごして、すっかり意気投合している二人に嫉妬するのだが、それを表に出すことで、はじめて父親と心を通わすことができる。
そんなすごくわかりやすい父と娘の話なんだけど、でも大きなうねりはなくても、心の片隅に心地よい温度の高まりを残してくれる…、そういう映画です。
それにしても、親子って不思議だ。大人になったら、もう自分のキャパの中で親なんて無視して生きていけばいいのに、そうはいかないってとこがね、やっかいというか、おかしいっていうか、かわいい(なんじゃ?)。
ちなみに、『広辞苑』によると、「黄昏」は「比喩的に、物事が終わりに近づき、衰えの見える頃」という意味で、いわゆる「夕暮れ時」という意味で使うときには「黄昏時」って言うそうです。
よかったら(お疲れでなかったら)、『博士の愛した数式』と『綴り字のシーズン』もどうぞ。