長尾景虎の戯言

読んだり聞いたりして面白かった物語やお噺等についてや感じたこと等を、その折々の気分で口調を変えて語っています。

【幼い頃の私の霊体験?】

2010-10-28 15:07:38 | 日記・エッセイ・コラム

02

先日伝法を訪れた折、淀川の堤防の上を散歩していて、ひどくノスタルジックな感覚に見舞われた。
どうやら私が幼稚園児ぐらいの頃の、遠い記憶が甦ってきたようなのだ。
大阪府下の某所、そこはとある川の堤防の近くに建つ、小さな一軒家だった。
桜が咲こうとする候、両親は幼い私を連れてその家に引越した。
かなり老朽化した二階家だったことを憶えている。
父の仕事の都合だと思うのだが、そこにはほんの二年ほど住んでいたにすぎない。
ちょっとした庭があり、日当たりがよいので、主に物干しとして使っていた。
植木とか鉢植え花壇の類は、まったくなかったように思う。
一階は畳敷きの二間で、それぞれ何畳だったかは、今となってはもう分からない。
それにトイレと風呂と台所があった。
二階は一間で、一階のどちらの部屋より、少し広かったように思う。
ここは板の間だったのを、父が越して直ぐに畳を入れてもらったのだと思うのだが、はっきりとは憶えていない。
というのも、この二階の部屋には、父の弟、私とっては叔父が住むことになり、あまり上がった記憶はないのだ。
その家の周辺は民家より、圧倒的に田んぼや畑が多かったように思う。
暫く続く畦道を歩いていると、やがて大きな舗装された道路にまで出る。
確かそこを渡ると、途端に家屋や色んな建物が建ち並ぶ、駅や商店街なんかもある町になっていたはずだ。
私が通っていた幼稚園は、畦道を堤防に沿うように歩いて行くとお寺があり、そこの隣だったと思う。
恐らくそのお寺が運営していたのであろう。
このお寺の境内の桜が、満開に咲いている頃に入園した。(古いアルバムに写真が残っている)
母は毎朝、父や叔父が出勤した後、この幼稚園にまで私を送ってから、その足でそこからもう暫く歩いた所にある、漬物工場のお手伝いをしに行っていた。
工場といっても農家の納屋みたいな所にあった、作業場といったような類だったように思う。
私は幼稚園が終わると、真直ぐにこの漬物工場にやってきた。
ここの人達は幼い私を大変可愛がってくれ、私のためにおやつ{%ケーキwebry%}まで、用意していてくれたものだった。
私がおやつを食べ終える頃には、母も漬物工場のお手伝いが終わった。
その後母は私を連れ町まで出て、お買い物をしてから帰宅するといったのが日常だった。
父も叔父も仕事が忙しいのか、帰宅するのはいつも私が眠ってしまってからだった。
当時の私はあまりに幼く、どうしてそこに越してきたのかとか、母がどんな経緯で漬物工場のお手伝いをするようになったのかは、まったく理解してはいなかった。
今ではある程度解っているのだが、ここで記すのはやめておくことにする。
そこに越す前はごちゃごちゃした街中の、団地のような場所に住んでいたような、どうにも曖昧な記憶が残っている。
私みたいな幼い子供が、近所にはいっぱい走り回っていたような気がする。
しかし越してきた家の周辺には、私と同じぐらいの年頃の子供はいなかった。
幼稚園の方とか漬物工場の付近には、幼児が結構いたように思うのだが…。
その家の近所には小学校に通う子供もいなく、もう中学生とか高校生とかだったはずだ。
それだけに幼かった私は、一際目立つ存在だったのであろう。
付近のお爺さんお婆さん、小父さん小母さん、お兄さんお姉さん等の注目を、一身に集めていたのであろう。
それだけの目で、温かく私は見守られていたので、母も安心していられたようだ。
「ひとりでは決して小川で遊んだり、遠い所や堤防の方に行ってはいけないのよ」との、母の厳命を私は守って、家の周辺で遊んでいたと思う。
畦道とかにはこれまで見たこともない、草花が生え虫達が息づいていたのだ。
幼い私にとって、毎日が「なんだこれへんなの!の連続であった。
その延長線上にあった、私達の家からは最寄の、お隣さんとなる農家には、よく遊び行っていたように記憶する。
私に残るその家の印象は、なんだか時代劇にでも登場しそうな、実に古風な農家。
ここにはお婆さんと小父さん小母さん、それに高校に通うお姉さんと、中学に通っているお兄さんがいた。
それにミケちゃん{%ネコdeka%}という三毛猫さんがいた。

大きな犬もいたらしいのだが、もうかなりの高齢だったようで、私達が引越すちょっと前に天寿を全うしたのだそうだ。
この界隈の殆どの農家では、犬や猫が飼われていたようだ。
特に猫は多かったと両親は話していた。
そういえば、ニャンコの集会をよく見掛けた。
隣家のお婆さんは、私達が住む家の大家さんだったと思う。
お爺さんは戦死されていて、若い時のままの写真だけが、仏間に飾られていたと記憶する。
私はその写真の主が、初めのうちは一番上のお兄さんだと思っていた。
お婆さんの旦那さんで、小父さんのお父さんということは、暫くして孫である高校生のお姉さんからちゃんと教わったのだ。
このお隣さんは一家総出で、私達の引越しを手伝ってくれたと思う。
お婆さんと小母さんのふたりして蕎麦を作ってくれていて、引越し作業がひと段落すると、まだ段ボール箱が積まれている一階の二間に皆集まり、車座になって食べたのを、私ははっきりと憶えている。
なんだかお祭りみたいで、随分楽しかった思い出なのだ。
引越して間もなくだったと思う、家の近くの畦道で遊んでいて三毛猫を見つけた。
母は台所で夕飯の支度かなにかを、していたのだ思う。
三毛猫の後をついて行ったら、いつの間にかお隣さんの縁側に着いていた。
その日初めて、ひとりでお隣さんの家へお邪魔したのだ。
お婆さんが温かく迎えてくれ、母が心配してはいけないと、私がきていることを直ぐに知らせていた。
その日からお隣さんへは、ひとりでちょくちょく遊びに行くようになった。
お婆さんやお姉さんとお兄さんは、私をよくかまってくれた。
小父さんと小母さんは、いつも忙しそうに立ち働いていた。
でも私を見かけると、ふたりとも優しい微笑みを向けてくれたものだ。
きっと、いったいどちらの子なのか分からないほど、お隣さんには頻繁に行っていたのだろう・・・。
私の猫好きは幼児の頃からなのだろうか、ミケちゃんとも直ぐに仲良しになった。
当時猫のことを、ニャンコタン♪と私はいっていた。
恥ずかしながら、今でもたまにそう呼ぶこともある・・・。
隣家ですごしていて、いつの間にか眠ってしまって、目覚めれば自分の家だったことも多くあったと思う。
母も私がお隣さんにお邪魔しているぶんには、安心していられたのだろう。
だから時として両親は、私を隣家に預けて出掛けたりもしていた。
冠婚葬祭の関係だったようだが、案外ふたりして羽を伸ばしていたかも・・・。
小父さんとか小母さんが、幼稚園にまで迎えにきてくれて、そのまま隣家で両親が帰るまで待っていたりもした。
後に聞いた話によると、戦死されたお爺さんは、母の大伯父とかにあたるそうなのだ。
つまりお隣さんとは遠戚関係にあり、母の父(私には祖父)の生家だったのだ。
どうりで私を可愛がってくれたわけだと、この話を聞いた折に納得した。
母方の祖父は他家に養子として迎えられ、この生家からは離れた。
もちろんその他家とは、母にとっては生家である。
頭がこんがらがりそうなので、余談はこれぐらいにしておこう。
そんな風に私はお隣さんでも、家族同然として扱われていたのである。
お姉さんやお兄さんは、土手へ土筆採りとか、夏には鎮守の森へ蝉捕りとか、小川でオタマジャクシやメダカ捕りをしに、連れて行ってくれた。
お婆さんはオジャミというお手玉を私に作ってくれ、やり方を教えてくれたりした。
幼なかったのでよくは憶えていないが、自然を相手にする農家は季節感が強く、折々のイベントがあったのだろう。
農業には素人であったろう両親や叔父も、出来ることは手伝っていたようだ。
当時の父と叔父は、体力には自信があったようなので、休日返上でやっていたように思う。
お盆には隣家にいっぱい人が集まり法要があって、幼稚園横のお寺の和尚さんがお経を唱えていた。
秋には一帯で収穫祭があり御神輿が舞ったり、お月見をしたり、そして年の瀬にはサンタさんもやってきたし、盛大にお餅つきもやって、年が明けお正月を迎えた。
そんな断片的な記憶が脳裏を駆け巡る。
その地へ引越した翌年、幼稚園では私は年長さんということになる。
夏から初秋にかけ、台風の上陸や接近が多い年だったそうで、その幼稚園もしばしば休園となった。
夏も終わろうとするある日、大きな台風がゆっくりと近づき、やがて日本列島を襲った。
激しい風雨を受け続けた堤防が、ついに夜半になって決壊し川が氾濫した。
家は風に軋み瓦も吹き飛ばされ、二階の叔父の部屋では、随分雨漏りがしていたようだ。
やがて水が床下に浸水してきて、どんどん水嵩が増していったそうだ。
幸い畳を濡らすまでは増水しなかったが、電線が切れたものか停電したりして、蝋燭の火に頼っていたようだ。
堤防沿いの家屋に避難勧告が出たらしいが、どうにも身動きが取れなかったようなのだ。
この状態ではノンビリ布団で寝るというわけにはいかず、大人達は一晩中起きていたらしい。
母は一晩中私を抱きしめていたように、ぼんやりとした記憶が残っている。
私もコクリコクリとしながらも、尋常ではない大人達の様子に、緊張していたように思う。
「オウチだいじょうぶ?」と母に尋ねたら、「だいじょうぶよ」と微笑んでいた顔を、なんとなく憶えている。
父が母に木場町にいた時に遭った、あの第二室戸を思い出すな」、とか話していたのも憶えている。
翌朝風雨が去り水が少し引いてから、父と叔父は外へ様子を見に行ったらしい。
周辺は惨憺たる有様で、田畑は水に浸かり、作物が壊滅状態だったようだ。
もちろんお隣さんも例外ではなかった。
暫く大人達は台風一過の処理に、大童だったようである。
そんな中、隣家のお婆さんが倒れたのだ。
お婆さんはあっけなく、天に召されてしまった。
隣家では葬儀が営まれ、両親や叔父もお手伝いしていた。
大人達が皆泣いていた・・・。
お婆さんは色んな人達から慕われ、敬われていたのであろう。
ご主人を戦争で奪われ後、気丈にも家を守り続け、ついに力尽きたのだ。
当時の私がどこまで人の死を理解していたかは分からないが、切なく悲しかった{%泣くwebry%}思いは記憶に残っている。
父も母も叔父も、悲しそうに咽び泣いていたのを、私は鮮明に憶えているのだ。
お婆さんとお別れする前夜、そのお通夜でのこと、私は不思議な体験をしている。
ここからは模糊たる記憶から、なんとか引きずり出して、大体こんな状況だったのではないかとの、概ねの推測による話になってしまう。
私は母の横に座りコクリコクリとなっていたので、結局お婆さんの遺体が安置された部屋から、ちょと離れた所に布団を敷き寝かされていたようだ。
もう夜中だったろう、私はふと目覚めたのだ。
多分オシッコに行きたくなっていたのだろう、起きて直ぐ辺りを見回して母を捜したがいなかったので、ひとりでトイレに行った。
廊下とかは電灯が灯って明るいし、大人達の声があちらこちらから聞こえていたのもあり、怖いという意識はなかった。
小母さんが私を見つけて、「どうしたの?」と声を掛けてきた。
私が「オシッコ」と返事したら、トイレまでついてきてくれた。
ここのトイレは少し前まで汲み取り式だったのを、私達親子が住んでいる家のと一緒に水洗に改修したので、おどろおどろしい田舎の便所とは違っていた。
といっても、当時の私は田舎のボットン便所の存在自体、知るよしもなかったろうが。
トイレの前まできて、小母さんは誰かに呼ばれたようで、「ひとりで大丈夫?」と訊いた。
勝手知ったるという家のことでもあり、私は「ウン」と頷いたので、小母さんは行ってしまった。
私は少し心細くなったが、なんとかオシッコを済ませトイレから急いで出た。
そして母を捜そうと思い、廊下を歩いて行ったのだが、その時何処からかチリンチリンという音が聞こえてきた。
何故か私はその音に惹かれるようにして、とある小部屋に入って行った。
これまでその部屋に入ったことはなかったろう。
私が寝かされていた部屋には、小さな電球が灯っていたが、そこは真っ暗だった。
だが不思議と恐怖感はなかった。
暫くすると薄明かりでも灯ったように、ぼんやりと白むかのように部屋の中が明るくなった。
目が慣れたのではなく、何かが光っているようなのだ。
灯りを得たので、漸く三毛猫のミケちゃんが、座布団に丸まっているのに気づいた。
さっきの音はミケちゃんの首の鈴?
いや違った、ミケちゃんがじっとしているのに、また聞こえてきたのだ。
そのうちミケちゃんがいる辺りが、ぼんやりと光っているのにも気づいた。
その光はどんどん大きくなって、やがてお婆さんになってしまった!
死んだはずのお婆さんが、座布団に正座していて、その膝にはミケちゃんが丸まっていた。
「お婆ちゃんは死んだんじゃないの?と私が訊ねると、お婆さんはそれには答えず襖を指差した。
見ればなんと襖に、みるみる映像が浮かび上がってきたのだ。
とある農家に、花嫁さんが迎え入れられる、そんな結婚式の場面から始まった。
その後花嫁さんは、旦那さんやその一家の人達とともに、農作業や家の仕事に勤しんでいた。
そして赤ん坊がめでたく誕生した。
男の子だった。
ところが幸せな日々ばかりではなかった、何度も近くの川が氾濫し、その度に農作物は多大な被害を受けることになった。
旦那さんのご両親が心労からか、相次ぎに亡くなってしまう。
そして悲劇はまだ続く、ある日無情にも、旦那さんに赤紙(召集令状)が届けられた。
お嫁さんが中心になり、千人針が縫われた。
千人針で縫われた布を卓袱台に置き、旦那さんは泣いているお嫁さんに何かを手渡した。
それから旦那さんは、お嫁さんや村の衆に見送られ、出征して行ったのだ。
だが願いも空しく旦那さんは生還を果たせず、お嫁さんには戦死通知のみが届けられ、やがて終戦となった。
まだ幼い子供を抱えながら、戦争未亡人となってしまったお嫁さんは、それでも戦死した旦那さんに代わり一家の大黒柱となって、気丈に働き続けた。
暫くして世の中が落ち着き、川にも漸くしっかりした堤防が設けられた。
しかし安心していたのも束の間、その護岸工事はずさんな手抜きだったのだ。
ある日の風雨により、脆くも決壊してしまい、田畑等を水浸しにしてしまった・・・。
多分映像はここまでだったように思う。
襖からお婆さんの方に目を戻すと、手に鈴をぶら下げていて、私の方へ差し出した。
ミケちゃんの首にあるのより、もっと大きな鈴だった。
私がその鈴を受け取ると、お婆さんは次第に元の光に戻り、やがて消えてしまった。
お婆さんはずっと微笑みを浮べていたが、ついに言葉を発することはなかった。
この後の記憶は途絶えてしまっている。
お婆さんがいたその部屋で、ミケちゃんと一緒に眠りこけている私が、母と小母さんによって発見された。
見当たらないので、心配してふたりで捜したようだ。
寝惚けて迷い込んだ、ことになっているのだとか・・・。
母がいっていたが、その部屋はお婆さんが、寝室として使っていたのだそうだ。
戦死した旦那さんと若い頃のお婆さんが、仲良く肩を並べて写っている写真の入った写真立てが、小さな箪笥の上に置かれていたのだそうだ。
その翌年、私が小学校へ上がるのに合わせるかのように、私達一家はその地より引越して行ったのだ。
叔父はその後間もなく、綺麗なお嫁さんをもらった。
幼児だった私にとって、襖に映し出されたあの映像の意味は、理解の範疇を超えていたろう。
時とともに理解していったのであろうか?
いや、私の夢の中の模糊とした抽象が時を経て具象化し、記憶となって残っているのやも知れない。
本当にあったことかどうかは、はなはだ心もとないのだが、私にとってこれが唯一の霊体験である。
お婆さんから手渡された鈴なのだが、小父さんも小母さんもお姉さんもお兄さん、見たことがない物だったようである。
もちろん両親や叔父も知らなくて、私がどこで拾ったのか、小首を傾げていたようだ。
両親が当時の話をする時は、漬物工場の漬物も美味しかったが、お婆さんの漬けた糠漬けの方がもっと美味しかったとか、決まってそんな方向に行ってしまう。
お婆さんの作ったおはぎや、土筆のお浸しも美味しかったとか、懐かしそうに話し合っているのだ。
今となっては鈴のことなど何処へやらである。
幼児だった私は、おはぎは別として、漬物やお浸しはあまり好きではなかったようだが、今ならその味が分かるだろう。
あの堤防決壊の一件は、やはり業者による手抜き工事が原因だったようだ。
工事に関与した人間が、何人も処罰されたのだそうだ。
ところで、鈴は今も尚私の手元に残っている。
もしかしたら、旦那さんが出征前にお嫁さんに手渡していたのは、この鈴だったのだろうか?
お婆さんは誠実であること、そして平和であることの意味を、私に伝えたかったのかも知れないな・・・。

03


最新の画像もっと見る