スペインの哲学者であるホセ・オルテガが言った
「あらゆる生は、自分自身であるための戦いであり、努力である。」
という言葉があるが、この言葉が身に沁みる。
ご存知のとおり、去年、大きな震災があった。
大きな破壊があった。
大きな破壊の現実に人々はどう思っただろうか。
人間には、色々な感じ方がある。
直接的に、あるいは自分の親族においても影響が
なかった場合にどう感じただろうか。
不謹慎な発言をこれから行う。
人間の深層における声を表に出することを
あえて、必要だと感じて言う。
これは、直接的に被害に遭われた方には
はなはだしく失礼な言葉だとは思うのだが、
ここでの言葉は、ある出来事に対して、
その感じ方や現実は、一人一人の人間に、
1億人いれば、1億人の感じ方や現実があるという意味で、
言う。
この前の震災に対して、大きな破壊に対して、
何か、自らの人生が変わる契機となるのではと
半ば、未来に対する期待を感じた人間がいたのでは
なかろうか。または、明日も同じようにある日常を
破壊というきっかけから、何か非日常を生きれることが
できるのではなかろうかと期待した人間がいるのでは
なかろうか。
私は、先の震災には、このように感じたことを
率直に言う。
そもそも、人間の生は、安定していること安全である
こと、それを維持することに、人間の英知を
結集して仕組みをつくり、それを保持することを
積み重ねてきた歴史である。それを文明という。
しかしながら、自然は、そうではなく、
刻一刻と同じ姿をとどめないものであり、
活物である。また、人間も自然の一部であるため、
人間も刻一刻と同じ姿をとどめないものであり、
活物でなのだ。なのだが、人間はこの自然の
ダイナミックな変化や流動とともに生きたら、
生を保てはしない。その抵抗をとどめなければ、
生が維持できない。生を維持するには、できるだけ
生を維持することに都合が良い部分を変化をさせないことが
必要となるのだ。食物を貯蔵することや、部屋の温度を
一定にすること、外敵から襲われないように防御すること等々
がそれである。
現代の文明とは、生その維持という意味で、極めて
安定したしたシステムを作り上げた。安全という意味でも
極めて精緻なシステムを作り上げた。
作り上げただけでは、維持は出来ないので、
現代人は、とりわけ日本人は、このシステムを維持するために
誰もが、例外なくこのシステムの維持に関わらなければならない。
その関わり方たるや、システムの冗長性・堅牢性が増加すれば
それに比例して、増加した関わり方をしなければならない。
つまり、生を生きるということが、安定と安全を維持するために
どれほど費やされているかという現実があるのだ。
(次回につづく)