前回の「安定と安全であるという津波(1)」からの続き~
産業革命の以前の時代は、まだ時代が不安定であり、
危険もたくさんあった。今に比べれば文明化されて
いない時代のためだ。それは比例して、人間自体が
安定や安全に費やす労力も今ほど大きくなく、
また、世界というものが安定したものであり、
安全なものという理解もなかった。
つまり、ものごとが移りゆき、変わりつづける世界では、
制御や管理ができないため、変節による多様性や、
自然の猛威も今よりも受け入れざるを得なかった。
人間自身も、より変節する自然に近いものとして存在した。
人間にとって、どのような社会が生きやすいのかは、
この時代にしか生きていない私にはわからない。
ただ、感じることとして、安定と安全というものは、
人間が長い歴史を通して獲得したものであり、
維持することが望ましいことであるだろうが、
それは、人間が人間らしくあるためにということを
それぞれが追及して作られたものではなく、
人間が安定して安全に暮らすための仕組みを追求して
つくられたものだ。
それを維持するということが、絶対的な義務として
私たち、現代人の意識・無意識のどちらにも刷り込まれており、
身動きができないまでに硬直化している。
安全と安定についての維持にかけては、現代人は
神経症にまで至っている。
安定面でいえば、一定の金銭を永続的に稼ぐ必要があり、
それに合わせた労働を永続的に行わなければならない。
「喰うに困らないように」という言葉があるが、
この言葉は正確な言葉ではない。
「喰う以上の文明を享受するに困らないように」
という言葉が正確な言葉である。
喰うだけならば、たいして労働しなくても良いのだ。
文化的な生活、消費ということが成り立たたなければ
人生ではないということは、とても強い世間の合意事項だ。
私は、社会にある人間不在の労働を強いられるなら、
まさに喰うだけの労働でもいいじゃないか、
その程度の労働でもいいじゃないかという選択のほうが
まともな選択ではないかと考える人間だ。
労働を人間としての義務であり、社会性を身につけた
当たり前の人間だとみなされる社会となっているが、
人間にとって労働は必要だろうが、それは人間である
ことの一面でしかない。労働の面において、最低限の
活動しか行っていない人間が、軽蔑されるような社会だ。
職業なんて、規模が小さくても何かしらの社会に役立って
いるものならば、なんだっていいし、週に、5日も6日も
一日に8時間も働くことなんかないのだ。
しかし現代の日本では、私が言う人間は
この高度な安定的な社会をおびやかす存在と
なってしまう。そんな人間がはびこれば、女は奇麗な
服を着れず、子どもはおかしを食べれない。
文明を享受できなくなることが恐怖になってしまっている。
それもそのはずだ。この世界は都市化したといわれている。
田舎にいけば何もないという。田舎にないものは
文明化されたものがないだけであり、そこには草も土も
川も微生物もありすぎるのが実態だ。田舎にないものは
なにか?それは消費できるものがないということ。
現代の日本にとって、消費ということが唯一の生を謳歌
できる要素とでもいうのだろうか?
次回につづく