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ARTな日々

ART制作・映像作成してます→HP

ホームページ大幅更新!!

2016-11-27 13:24:58 | Weblog

これから、色々なところに顔出したいと
願っていることと、ここ数年でまた活動のストックが
たまったので、ホームページのコンテンツを
増やしました~♪


1、出展の様子
http://www.kabutowork.com/shutten.html

かつての展示会の様子です。なんとなくどんな感じで
美術やっていたか伝わるかなと思って、


2、Cinema & Photograph
http://www.kabutowork.com/cinemaphoto.html

ここ最近、始めた映画撮影と写真撮影のページが
そろそろ必要だと感じ作成!


3、漫画
http://www.kabutowork.com/mangadayo.html

なんか、四コマ漫画がたまにブームになるので
以前描いたのでした~


それにしても、ヘタの横好きというか・・・

よろしかったらご覧ください


メダカ考

2015-05-03 11:47:52 | Weblog

メダカを飼って4年位になる。
飼っててわかることは、メダカは水が命。
悪い菌が繁殖すれば、すぐ死ぬです。
何がいい菌か悪い菌かわからないので、
私は、石だか浄水器だかをすべて
煮沸処理をする。
これが一番、悪い菌が繁殖しない方法として
安定する。これだと水槽の洗浄も汚れにくくなるため
頻度も少なくなる。
この方法は、人間生活といっしょの考え方で
いいものも悪いものもすべて洗い流してしまうというもの。

なんだか、自分の考え方と矛盾しているのだけど、
結局これが一番楽なのです。
水槽ってのは、結局、
メダカの糞が、水槽内に留まるので、
直ぐに汚れる。
糞を循環させる仕組みがあればいいのだが、
そこまで都合の良い植物ってあるのだろうか
私は限界があると思っている。
そんな真剣にメダカ飼いをしてはいないので、
メダカは1年に4回位を5匹位で買いに行く。


安定と安全であるという津波(3)

2012-04-08 12:30:32 | Weblog
文明の庇護に、しっかりと従属していなければ
生きれないと”思い込んでいる”人間は、
もはや、文明に従属している以上に、隷属下に
おかれてしまった。
そこでの人間の生は小さくなってしまう。
文明の中における人間の経験は、
人間がつくったシステムの中での経験に集中してしまう。
言い換えれば、言葉に置き換えることができる
システム、つまり人間が理解できる程度の
経験に集中してしまうのだ。
一方で文明化されていない中での経験はどうかといえば、
人の手が入っていない夜の森に入ってみれば、
そこには、言語化できない世界が押し寄せてくる。
言語化できない不安から、人は、なんとか
言語化しようとする。何かの気配を精霊と呼んでみたり、
不慮に頭に降ってきてぶつかった経験を、
「何かしらの存在の怒り」だと譬えてみる。
文明化されていない世界では、不思議に充ち満ちており、
その不思議には、興味とともに怖れの感情を抱くのが
人間である。実は文明化されている私たちの目の前に
あるものだって、本当は言葉にできないことで
充ち満ちているのだ。
科学がどんなに進んだとしても、いまだって火が
どういう存在なのかさえもわからない。
また、わたしたちが毎日付き合っている心でさえ、
脳のシステムで全て片付けることができるのか大きな疑問である。
この未知と不思議に満ちた世界なのに、
常に目の前の経験に対して、人は、「既に知っているので行える」
「これは安全なので関われる」と判断して経験を行うのだ。
自分自身の生命を保つために、安心を前提とした動機から
行動を行うことは、とても大事だろうが、
「わからないけど、さわってみたい」「この先がどうなっているかわからないが、
すすんでみたい」という危険かもしれないけど、行いたいという人間性は、
文明化が進めば進むほど、小さくなってくる。
つまり人間性が小さくなってくる。
安心と安全の世界の中で生き続けるということは、既に
知っていること、既に経験をしたことを、もう一度繰り返すことでしかなくなる。
これは生が同じサイクル内を回るのみで、変化をしないということだ。
人間がニヒリズムに陥ってなければ、人間とは、自らの生を
このようにありたい、このようになりたいと願う存在であるはずだ。
実際、人間も生命体である存在であるがゆえに、自らの肉体の変化を
受け入れ、それに合わせた生を生きることが人間である条件でもある。
世界というものは、変わりゆくものであり、その変わりゆく姿を
受け入れていくことで、自らも変化をしていく存在なのだ。
私はここに、人間を生きるという醍醐味があると考える。
変化していくことは、とても危険を伴う場合がある。
大量の雨が降り、自分の家が流されたら、明日住む家がなくなる。
そのような受け入れざるを得ない変化だってある。
禍転じて福となす場合もあれば、禍が更なる禍を誘発する場合も
あるだろう。どちらにしても、この世界とは、自分をとりまくものが
変わることによって自らの生も変わるのだ。
その当たり前のことが、文明化が過度に進んだ世界では、
「変わらないままであることが可能」だと勘違いされてしまい、
「変わらないことを保守しなければならない」ことに人は自らの
人生を捧げてしまっている。
わたしが、伝えたいことは、世界は変わるものであり、変わらないために
工夫をし続けることは必要ではあるが、変わらないようにするために
自らの生を捧げることは生きることでないということだ。

「パンを食べるために生きるか、生きるためにパンを食べるか」
という言葉と似ているように思われるかもしれないが、
現代の日本では、もう少し違う様相となっている。
現代の日本では、食物がなくなり飢えることはほとんどないといっていい。
現代の日本では、パンでは物足りなく、パンにハンバーグをつけて、
おいしく味付けして、ポテトとジュースをさしづめつけないと
満足できない。
つまり、
「ビックマックセットを食べたいときに食べられる(24時間営業)
ために生きるか、生きるためにビックマックセットを食べるか」
という様相になっている。
パンだけでは飽き足らず、ビックマックセットに膨れ上がり、
それを安定的に24時間供給できるシステムがあり、それを安定的に
供給できるように労働として人生を費やす必要があるということだ。

安定と安全であるという津波(2)

2012-04-02 00:54:28 | Weblog

前回の「安定と安全であるという津波(1)」からの続き~


産業革命の以前の時代は、まだ時代が不安定であり、
危険もたくさんあった。今に比べれば文明化されて
いない時代のためだ。それは比例して、人間自体が
安定や安全に費やす労力も今ほど大きくなく、
また、世界というものが安定したものであり、
安全なものという理解もなかった。
つまり、ものごとが移りゆき、変わりつづける世界では、
制御や管理ができないため、変節による多様性や、
自然の猛威も今よりも受け入れざるを得なかった。
人間自身も、より変節する自然に近いものとして存在した。

人間にとって、どのような社会が生きやすいのかは、
この時代にしか生きていない私にはわからない。
ただ、感じることとして、安定と安全というものは、
人間が長い歴史を通して獲得したものであり、
維持することが望ましいことであるだろうが、
それは、人間が人間らしくあるためにということを
それぞれが追及して作られたものではなく、
人間が安定して安全に暮らすための仕組みを追求して
つくられたものだ。
それを維持するということが、絶対的な義務として
私たち、現代人の意識・無意識のどちらにも刷り込まれており、
身動きができないまでに硬直化している。
安全と安定についての維持にかけては、現代人は
神経症にまで至っている。

安定面でいえば、一定の金銭を永続的に稼ぐ必要があり、
それに合わせた労働を永続的に行わなければならない。
「喰うに困らないように」という言葉があるが、
この言葉は正確な言葉ではない。
「喰う以上の文明を享受するに困らないように」
という言葉が正確な言葉である。
喰うだけならば、たいして労働しなくても良いのだ。
文化的な生活、消費ということが成り立たたなければ
人生ではないということは、とても強い世間の合意事項だ。
私は、社会にある人間不在の労働を強いられるなら、
まさに喰うだけの労働でもいいじゃないか、
その程度の労働でもいいじゃないかという選択のほうが
まともな選択ではないかと考える人間だ。
労働を人間としての義務であり、社会性を身につけた
当たり前の人間だとみなされる社会となっているが、
人間にとって労働は必要だろうが、それは人間である
ことの一面でしかない。労働の面において、最低限の
活動しか行っていない人間が、軽蔑されるような社会だ。
職業なんて、規模が小さくても何かしらの社会に役立って
いるものならば、なんだっていいし、週に、5日も6日も
一日に8時間も働くことなんかないのだ。
しかし現代の日本では、私が言う人間は
この高度な安定的な社会をおびやかす存在と
なってしまう。そんな人間がはびこれば、女は奇麗な
服を着れず、子どもはおかしを食べれない。
文明を享受できなくなることが恐怖になってしまっている。
それもそのはずだ。この世界は都市化したといわれている。
田舎にいけば何もないという。田舎にないものは
文明化されたものがないだけであり、そこには草も土も
川も微生物もありすぎるのが実態だ。田舎にないものは
なにか?それは消費できるものがないということ。
現代の日本にとって、消費ということが唯一の生を謳歌
できる要素とでもいうのだろうか?

次回につづく