
白馬から黒部に行く道中は小雨が降っていた。そして外はとても寒い。
朝9時に黒部の扇沢駅に着いた。9時半のトロリーバスに乗りダム湖まで15分で到着。
トンネル抜けると降っていた雨はすっかり上がり、突き抜けるような青空が出迎えてくれた。
山頂は初冠雪で白く薄化粧していた。
戦後、わずか12~3年でこの大工事が始まった。
昭和38年の完成までに、のべ1,000万人が工事に携わり、また殉職者も大勢だそうです。
東北のボランティア仲間から連絡が入り5日に逢う事になりました。
松本城だけ見て、急いで帰ります。

今回の旅も収穫の旅でした。
出会った皆さん、本当にありがとうございました。
黒部は一度行きたいと思いつつ、まだ。
千夢さんも東北へボランティアに行ったとお話ししていましたが、私も先日行ってきました。ある婦人団体に寄せた報告文を紹介します。
「忘れないで、まだ終わっていない」
炊き出しプロジェクトに参加して
なつめ班 福島 康栄
九月二十三日夜に南相馬市に向けて出発。新婦人神奈川からの9名、供給センターから6名が参加しました。
東北道二本松インターから南相馬市に向かう間、全村避難の飯舘村を通りました。一見何事もないように見える道沿いの家々はカーテンが閉まり、屋根には重しやブルーシート、人影は全くありません。(当たり前ですが)稲穂がたれているはずの田んぼは雑草が高く茂っています。南相馬市に到着後、仮設住宅で昼食と夕食合わせて四百食くらいの炊き出しをしました。たくさんの野菜をひたすら刻み用意したうどんやちらし寿司が喜ばれ、「遠くからありがとう」と何人からも声をかけられました。夜は農民連の方々からお話を聞きました。田畑全てを津波にのまれ水没したまま避難生活を送る農家の方。避難地域に自宅があるため市内の実家に身を寄せている方。中三のお子さんの学校は他校に間借り中。一時は「もう高校は行かない」と投げやりになっていたとか。高校生のお子さんは、朝六時半のバスに乗り相馬市のサテライト校に通っているそうです。ガールフレンドは県外に避難転校してしまい、傷心の日々。私たちが宿泊した児童館隣の小学校は休校中で、除染が行われていました。農民連の事務局の方からは原発事故の日に着ていた衣類が二万ベクレルを示していたと聞き、びっくり。
翌日は、深刻な津波被害を受けた地域を訪れました。がれき撤去が済んでいるところは、言われなければ元々草原?と思ってしまうほど。でも、堤防や松林はほとんど跡形もなく、道路のコンクリートははがれ、橋の欄干は流され、ガードレールはぐしゃぐしゃになって転がっています。別な地域では、海中に車や家の二階部分が残されていたり、一、二階が空洞になった建物が手つかずのままになっていたり、衝撃的な風景ばかりでした。 一見日常に見える非日常を前に、「まだ終わっていないことを忘れないで。むしろ、長い長い先の分からないものの始まりなんです。」という言葉。重く響きました。
常に自分の中にとどめておくことが大切なのかなと思うわけです。
では。
お忘れください。私は、ヤスベでいきますので。
お願いします。