投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

祐清はどこを通って新見荘に行ったか ただのメモです

岡山県の北部に新見市という町がある。この秋、紅葉の時期に泊りがけで行ってみようと思っている。新見は日本の荘園研究のメッカだそうだ。

承久の乱 1221年(承久3年)6月
応仁の乱 1467年(応仁元年)-1478年

新見荘

平安末 大中臣孝正 開発 官務(太政官弁官局の史中の最上位 五位左大史)小規隆職に寄進 隆職は最勝光院に寄進 自らは領家(荘園領主)になる

鎌倉 承久の乱後、新見氏が地頭 文永8年(1271)に地下中分 東側が地頭 西側が領家 その後本家である最勝光院が没落

南北朝 正中2年(1325) 後醍醐天皇が東寺へ寄進 東寺と小規氏、新見氏との間で争いがおこる 小規氏は東寺から年貢の1/7を提供されることで領家の地位を放棄 新見氏は室町幕府の支援で代官となることで地頭の地位を確保 新見氏は地頭の地位を保つが代官職は垪和氏や安富氏などに移った

室町 寛正2年(1461) 代官安富智安の圧政に百姓が反抗 また長年の未進行為により東寺が直務を実施 東寺から派遣された代官祐清も2年後にその不法行為に反発した百姓により殺害された 応仁の乱に乗じて新見氏や安富氏が新見荘の支配に動くが応仁元年(1467)以降 百姓は一揆をおこし東寺と結んで武士に反抗 後に新見氏らに排除される その後、新見氏は三村氏(地頭 星田郷)に攻められ没落 三村氏も毛利氏に攻め滅ぼされ天正2(1574)東寺は支配権を喪失 新見荘は消滅した

惣追捕使 福本刑部丞の妹(?) 「たまがき」

祐清はどこを通って新見に行ったか?
寛正3年(1462)7月25日京を発ち8月5日新見着 12日間

室町時代の山陽道 備前では上郡(播磨)→備前片上→香登→一日市→藤井 
それ以前は上郡→吉永→和気→松木→馬屋 備中では小田川沿い

国道313号 備中往来
国道182号 備中新見路 二本松峠 

和気から直接に有漢へ行ったとすれば和気→金川→宇甘川を遡り加茂か?
県道31号 宇甘渓経由 1898年完成 それ以前は金川ー加茂 虎倉から城下の急坂を上り九折峠、三宅坂を下り加茂へ行く 道幅6尺(国土地理院の地図で確認が可能)

なんとなく福山あたりまで船で来て、そこから備中往来を利用したかと思っていたが、2018年3月岡山朝日研究紀要にあっさり金川往来が京上夫、年貢等の運搬路と書いてあった。これで決まりだが、金川往来は金川から備中松山までなのか。途中の経路が不明。有漢は経由しないのか。

<20200925追記>
新しい発見があった。吉備中央町の方のブログに広面(←地名)の九折集落には松山往来(金川往来と同義)の碑があるそうだ。ここは米軍が戦後撮影した航空写真(国土地理院のページで確認できる)を見ると広い耕地が広がっていたようだ。そのころまで多くの人が住んでいたはず。

虎倉から九折峠、三宅坂を下り加茂へ抜ける道は国土地理院の地図では繋がっていないように見えるが登山をする方のブログを読むと今でも歩けることが分かった。虎倉の山に城があったころ、そこを支えた土地は山の下の今の川辺にある虎倉の集落ではなく尾根伝いに行ける山の上に広がる土地だったに違いない。そんなに遠くない昔、我々のご先祖さんたちは今とは違う意味で土地を立体的に住んでいた。平地に住むというのはつい最近に一般的になった。

金川から加茂までは道がつながる。ただ金川から虎倉までは土地活用の仕方が変わってしまっていて細かい道は分からないけど。残りは加茂から備中松山。それが解決したら関所のあった三石から金川。


 
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