投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

アイヌは何処からきたか。そして何をしたのか

<メモのまとめ>

10世紀ころにカムチャッカ半島から千島列島を伝い北海道の根室近辺に上陸。海洋狩猟民族であったため宗谷から根室、釧路の海岸沿いに展開していた同じ海洋狩猟民族のオホーツク文化人を駆逐。次第に内陸部に進出し北海道全域に広がっていた続縄文系の擦文文化人を駆逐。道南に達した一派は津軽海峡を渡り本州へ進出。1268年(文永5年)の安藤氏の乱を起こす。別の一派は宗谷海峡を渡り樺太へ 。間宮海峡を挟んで元と衝突した。


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<以下メモ>


竪穴式住居に関する資料の内、北海道関係のものを読んでいるうちにわいてきた疑問です。






北海道近世までの文化について概観すると






・続縄文文化 BC3C------7C 


 縄文系


・オホーツク文化 5C------9C


 大陸系の海洋漁労民


・擦文文化 7C------13C


 続縄文系文化+弥生文化


・トビニタイ文化 9C------13C


 オホーツク文化+擦文文化


・アイヌ文化 13C------ 


トビニタイ文化の後継者?






北海道には弥生時代が無く、本州以南での弥生時代という年代は北海道では縄文時代の続き、続縄文時代になります。






7世紀、阿倍比羅夫の蝦夷征討により東北地方から人と文化の移入が始まり続縄文時代を生きた人たちと混合し擦文文化が始まります。東北地方の古墳時代末期に類似した古墳も造られます(*江別古墳群)。漁労、狩猟、米も含む雑穀農耕、鉄器(製鉄なし)、カマド、 擦文土器、住居は縄文時代を引き継いだ竪穴式住居という文化圏を拡大していきます。土器はしだいに鉄鍋に移行し住居も掘っ立て柱の平屋へ移行していきます。






擦文文化に先行して樺太から道北、道東の沿岸部に海洋漁労民の移入が始まるのが5世紀。オホーツク文化と呼ばれます。土器あり。住居は竪穴式の穴居。この文化の担い手の人骨遺伝子は海を隔てたニヴフ人、コリヤーク人と同じ。これはアイヌ人も共通でアイヌ人もmtDNAハプログループYを20%持ちます。この遺伝子は縄文人、和人にはありません。






この時代は世界的に気温が上がり北方民族の南下が始まります。ユーラシア大陸の西の端ではバイキングの南下が始まるのもこの時代です。






擦文文化は道南から北海道全域に拡大していきますが、同じ時代に道北、道東沿岸に広がっていたオホーツク文化とは敵対することもなく北海道で共存したようです。網走辺りでは隣り合って暮らしていた遺跡があります。しかしオホーツク文化は生活を支えていた資源獲得システムが崩壊したのか消滅します。






オホーツク文化を源に出てきた文化がトビニタイ文化。オホーツク文化を担った人たちは喪失した資源獲得システムに代わるものを擦文文化に求めたのか擦文文化を受け入れ海岸だけでなく内陸部に進出しトビニタイ土器を持つ文化圏を道東に広げます。住居は竪穴式の穴居。しだいに擦文文化に吸収され13世紀には消滅します。






13世紀からは北海道にはアイヌ文化が広がり今に至ります。ただアイヌ文化の源流を擦文文化とするのは無理があります。先に書いたようにアイヌ人は遺伝子的に縄文人ではありません。遺伝子、文化とも樺太や沿海州沿岸民族と同じでクマを崇拝し、樺太や沿海州沿岸民族と同じく鮭を主食とし鮭の皮で衣服や靴を作ります。オホーツク文化を継承したトビニタイ文化を源にしたものがアイヌ文化であるというのが現在の考え方だと思います。そうでないと辻褄が合いません。






ここまで整理してきて何かおかしいと思い始めました。何がおかしいかというと、北海道にはアイヌ人しかいないことになっていますが擦文文化を担った人たちはどこに消えたのでしょうか。






アイヌ人の住居はチセという平屋、カマドは無く囲炉裏、土器を持たず鉄鍋、刃物は鉄器になります。これらは擦文文化の影響だと思いますが、他の文化は樺太や沿海州沿岸民族と同系統。その変容も少ない。トビニタイ文化は擦文文化に吸収されたはずなのにアイヌ文化はどう見ても海の向こうの人たちに近い。遠い昔に袂を分かったのであればもっと変容していてもおかしくない。擦文文化の担い手が続縄文文化を作った人たちであればアイヌの風俗とは違っていたはず。言語でさへ現在の日本語系統の膠着語であったかも知れません。






17世紀、シャクシャインの戦い(1669年6月)前後のアイヌ人の分布は北海道の宗谷岬から知床岬の海岸部を除いたエリアに広がります。宗谷ー余市の海岸部に余市アイヌ、小樽ー増毛の内陸部に石狩アイヌ、札幌ー門別にシュムクル、根室ー静内にメナシクル、国縫ー恵山に内浦アイヌ。松前の周辺部だけが松前藩の領地です。






13世紀~17世紀の間に何があったのでしょうか。






この文章を書いている2020年10月15日現在のWikipediaのアイヌのページは文章も構成も錯乱しています。アイヌとトビニタイ文化の関連についての記述は無し。Wikipediaの記述では下記の箇所がとても気になります。






「河野本道による以下の説もある。縄文系の擦文文化と称される農耕民族が暮らしている処に、鎌倉時代オホーツク系の狩猟民族が南下して来て、擦文文化が全部なくなってる。急にアイヌ文化に上書きをされているなら、混交というより北方系の人たちが農耕の技術を持った人を殺戮したのではないか。この学説が有力であったが、なぜかその学説は全て捨て去られた。」






河野本道は三代続けてアイヌ研究者の家系に生まれ、アイヌ解放同盟の活動に共感し、北海道ウタリ協会の活動にも協力した人物だそうです。しかし協会自体の変質と学者肌の編集態度が協会と相容れず、アイヌ文化振興法に対する考えの違いもあって、編集委員を解任、1980年に北海道出版企画センターから刊行した『アイヌ史資料集』が、協会から差別図書であると批判され民事提訴されています。






アイヌとは何なのでしょうか。






<20201028追記> 


13世紀~17世紀の間に何があったのでしょうかと先に書いたが、こういう文章を見つけてしまった。


https://www.aozora.gr.jp/cards/001540/files/53891_50779.html


言語と文化史 ――アイヌ文化の探究にあたりて――
知里真志保
〈『北海道先史学十二講』北方書院 昭和24年11月〉


「カムチャツカ方面から千島列島を南下して北海道へ渡り、その一分派は太平洋沿岸を南下して釧路、十勝の浜伝いにエリモの崎を越えて日高のシズナイ(静内)の辺まで進み、また他の一派はオホーツク海に沿うて北上し、宗谷から一つの分派を樺太に送り、他の一分派は日本海沿岸を南下して、ユーラップ(北海道二海郡八雲町の地名、長万部の南約30㎞)、オシャマンベ(長万部)の辺で二つに分かれ、一つの分派は函館の方へ行って津軽海峡を渡り、東北地方を占拠し、また他の分派はオシャマンベから噴火湾に沿うて南下し、室蘭から幌別(現在の登別市、この論文の初出昭和24年には幌別村だった。著者知里真志保の出身地)、白老を通って太平洋岸を東進し、日高のシズナイ(静内)の辺まで行って、あそこで十勝の方から西進してきた一派と衝突し、そこからサル川(沙流川)沿いに奥地にはいったのが今の日高のサル地方のアイヌで、このように一応北海道の各地の海岸に定着したアイヌが、そこから石狩川とか十勝川とか沙流川とか、大きな川をさかのぼって次第に北海道の内陸に占拠するようになったのが、現在われわれが見るアイヌの分布状態であるということを、主として言語研究の立場から私は説いてみたのであります。」


昭和24年という時代がとても新鮮な気がする。知里真志保という方はアイヌ人だそうだ。だから当時使われていた言葉や表現の仕方にも明るい。物事の例え方からアイヌは海洋民族だと断言する。


樺太からではなくカムチャッカ半島から千島列島経由で北海道本当に入ってきて、樺太へは北海道から入ったという説。設定している時代がわからないがこれはあり得ると思う。アリューシャン列島、北米大陸へ移動した人々の分派だと考えればあり得る。住居、言語も同じ系統。


侵入してきた時代を9世紀辺りにすれば、トビニタイ文化の時代。侵入場所もトビニタイ文化のエリアと合致する。トビニタイはオホーツク文化を引き継いだものではなく新たに入ってきた人たちだとすればオホーツク文化からトビニタイ文化への移り変わりも自然だと思う。


色々調べてトビニタイがアイヌの源だと自分で書いたが釈然としないものがあった。擦文に同化するのではなく擦文にとって代わるイメージを持っていたが、果たして資源獲得システムが無くなった人たちにその力があるのかという疑問。文化の変容の少なさにも自信がなかった。


トビニタイはオホーツクを源にしたのではなく、カムチャッカ半島から千島列島経由で新たに北海道に侵入してきた人たちの文化で、ワラワラと南下してくる一大勢力が擦文文化にとって代わったのではないか。


その勢力が北海道全域を勢力下におき、一部は津軽海峡を渡り安藤氏の乱を起こし、一部は樺太に渡り間宮海峡を挟んで元と衝突した。最後まで製鉄技術を持たなかったその人たちは、1449年の土木の変以後の明の北方地域放置により明からの交易が途絶え、交易で日本に依存するようになる。その人たちこそアイヌ。


河野本道氏が鎌倉時代に・・・と書かれていたのはこのことだったのだろう。


アイヌのWikipedia(20201028時点)の内容は情緒的、政治的過ぎて当てにならないが、下記の方は簡潔で参考になる。


アテルイ


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A4


古代の蝦夷(えみし)について、近年でも「蝦夷=アイヌ説」に立脚した論著が散見されるものの、現在では学会の共有財産となる標準的な(アイヌ否定)見解が成立している[32]。


及川洵は、アテルイを研究し、遺跡を調査研究している者の疑問として、アテルイがアイヌ人の祖先であるとされていることについて、古代蝦夷がアイヌ民族であるかどうか「思いつきやムードではなく、純粋に学問的に考えて頂きたい」と論じている[33]


[32]樋口 2013, pp. 305-307.


[33]「アイヌ民族のアテルイ慰霊祭に疑問」”. アテルイを顕彰する会. 2019年12月28日閲覧。






モンゴルの樺太侵攻
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E4%BE%B5%E6%94%BB
モンゴルの樺太侵攻は、13世紀半ばから14世紀初頭にかけて断続的に行われたモンゴル帝国(元朝)による樺太(サハリン)アイヌ(骨嵬)への攻撃を指すが、アイヌからの侵入に対する防御という見方もある。後にアイヌ側が元に服属を申し入れ交易が始まる。
安藤氏の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1
安藤氏の乱は時代は1268年(文永5年)。津軽で起こったエゾの蜂起で蝦夷代官職の安藤氏が討たれた事件。


ハプログループG (mtDNA)


GのサブグループG1bはカムチャツカ半島先住民に高頻度でみられるが、現代日本人での報告例はない[7]。これはアイヌとオホーツク人との関連を示唆しているかもしれない。






ハプログループY (mtDNA)


Y1系統


ハプログループYのうちY1系統はオホーツク海周辺の民族で高頻度である。ニヴフに約66%、ウリチに約38%、ネギダールに約21%、アイヌに約20%である [2][3][4][5] 。またカムチャツカ半島の先住民(コリヤーク人、イテリメン族)にもみられる。






以上

コメント一覧

田吾作
アイヌ文化に入ろうがシャクシャイン以前の鉄器が豊富に有った時代にはかなり農耕が行われてました。
松前藩のせいで農耕が廃れたんですよ。

見識の浅い人ってそうやって擦文文化とアイヌ文化が全く違う物だと勘違いしますよね。
k-74
コメントありがとうございます。本州の影響を受けたら定住の農耕民が非定住の狩猟採集民になるのかどうしても分かりません。
いいふりこき
こんにちは。
見識をもっと深めれば、アイヌ文化は擦文文化が本州の影響を強く受けて変容したものだと理解出来るようになりますよ。
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