投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

塩から見た擦文文化とアイヌ文化 ー  アシリパは何故「味噌」を知らなかったのか

ゴールデンカムイの第8話、アシリパが杉元とウサギのオハウを食べていた時のお話。オハウはアイヌの汁物料理。行者ニンニクとウサギのチタタプ(ミンチ肉)、エゾマツタケが入っています。このままでも十分美味いのだがと言いながら杉元が取り出したのが曲げわっぱに入った味噌でした。アシリパは味噌を見たことが無くそれはオソマだと言います。ウンコのことです。


アシリパが味噌を知らないのも当然で醤(ひしお)を作る文化はアイヌにはありません。塩も使わない文化でした。アイヌは狩猟採集民です。狩猟採集で生きていた人たちは塩を必要としない生活をしていました。



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余談ですがチタタプ(ミンチ肉)はチ(我)+タタ(叩いた)+プ(モノ)と分解できるそうです。タタという音ですが沿海州からアムール川流域に住むニブフ族の言葉にもタラ、タラクという似たものがあり、それは魚肉を細かく刻んで野生のネギを加えて食べる料理のことです。アイヌのチタタプも鮭の頭の軟骨を叩いたものがオーソドックスなものなのでニブフ族のものと同じです。アイヌとニブフは同族ではありません。別系統です。19世紀の写真でアイヌとニブフを見比べると、出で立ちは全く異なりますが似たような文化を持っていたようです。※鮭の身には寄生虫がいるので生食は不可。頭の軟骨部分は生でも安全とか。熊も鹿も同様。脳みそは生でokだそうです。


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北海道の中世までの文化を年代順に並べると


・続縄文文化 BC3C------7C 
 縄文系

・オホーツク文化 5C------9C
 大陸系の海洋漁労民
 ※オホーツク海に面した海岸から1km程度の範囲

・擦文文化 7C------13C
 続縄文系文化+弥生文化

・トビニタイ文化 9C------13C
 オホーツク文化+擦文文化?
 ※根室、釧路辺り限定

・アイヌ文化 13C------ 
 トビニタイ文化の後継者???

となります。ここではトビニタイを省略して話を進めます。


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塩と人の歴史はけっこう古いもので塩抜きでは人は生きられないのかと思っていたらそうではなかった。人はナトリウムは必要だがそれを塩として摂取する時代は人類の歴史からすればずいぶんと最近の話だった。


目から鱗が落ちた感じがする。


イヌイットは内陸で生活する際は一切塩を摂らないし、アメリカンインディアンには塩なしで生きている部族もいた。ハッザという狩猟民族は塩を摂らないしマサイ族は牛を飼い乳や肉を食べるが塩は摂らない。狩猟採集の時代、人は動物の乳や肉、臓物からナトリウムを摂取していたそうだ。


アイヌも塩を持つようになったのは和人と交渉を持つようになってからであり、塩はほとんどを和人から入手していたそうだ。彼らは塩を必要としない生活をしていた。製塩技術を持っていない。


人が塩分を塩として摂ることが必要になったのは農耕で生きるようになってから。狩猟採集で生きていた時代は塩分を塩として取り込む必要はなかった。穀食が食事の中心になるとカリウム摂取が過多になりバランス上ナトリウムの要求量が高くなる。狩猟採集時代は動物の乳や臓物を食べそこから塩分を自然に摂ることが出来たが塩分は農耕で生きるようになると不足する。


日本で製塩土器が出土する時代は紀元前1000年頃の縄文後期。もう九州では弥生時代が始まろうとしている時代。それまで数多発見されていた縄文土器を岡山大学教授の近藤義郎氏が出土状況も含め精査分類し製塩土器を見つけ出したそうだ。
※ここでは製塩土器は紀元前1000年と書いたが尾道市・大田貝塚の紀元前3000年前のものもある。


縄文貝塚というのがある。海岸近くに人が食したであろう貝殻が地層のようになって見つかる。これは貝を煮て干して干物にした加工工場の跡なのだそうだ。干物は保存食であるとともに塩分を体に取り込む食べ物でもあった。海岸で作った貝の干物は物々交換の品として流通する。


貝塚が消滅する時代と先ほどの製塩土器が多量に使われ始める時代は重なるそうだ。縄文人はここにきて塩分を塩として摂るようになったらしい。つまり弥生時代が始まる前に縄文人は狩猟採集から農耕に移行していた。朝寝鼻貝塚(岡山県)からは紀元前4000年前の陸稲のプラントオパールが出てきているので、たぶんずっと前から縄文人は農耕を行っていたに違いない。
※製塩土器は関東から東北青森までが特に出土例が多い。


縄文中期の押出遺跡(山形県)で発掘されたクッキー状の炭化物はナトリウムが過剰に検出されたため、塩分の多い加工品を縄文人は作っていた可能性はあるし、縄文時代には魚醤があったという。後に味噌、醤油、漬物、シオカラという塩分量の高い食品の元になる醤(ひしお)を作り出したのは塩分を食品として効率よく摂るためだったのだろう。


縄文人は農耕を始めていて醤(ひしお)の文化があり製塩技術も持っていた。北海道一帯に広がる擦文文化は縄文から続縄文文化を経て農耕に生活の軸を移した文化だが北海道に閉じたものではなくて陸奥の国あたりから北海道一帯に広がる文化だ。東北地方に広がった水稲稲作の影響を受けた文化。陸奥の国から津軽海峡を渡り広がっていったと思われる。製塩土器は陸奥の国では広く出土するが北海道では出土していなかったと思うが擦文文化の人たちは塩を必要とする生活をしていたと考える。
※製塩土器は薄手の装飾の無い簡素な素焼きで出来ていて、鹹水を入れて煮詰めて塩を作ります。そしてその製塩土器をそのまま容器として流通させた例もあるとのこと。


擦文文化を担った人たちは縄文・続縄文文化を経た人たちであり農耕と漁労狩猟採集で生きていた。アワ、ヒエ、キビ、モロコシ、オオムギ、コムギ、ソバ、小豆、緑豆、ベニバナ、シソ、ウリ、アサ、ホオヅキなどの栽培種子が遺跡から出土する。雑穀を栽培する農耕を行っていた。それとサケ、ニシン、コイ、エゾシカ、ヒグマ、犬の骨も出る。つまり農耕+漁労・狩猟を行っていた。


アイヌ人は漁労狩猟採集を行う人たち。フクベラ、アイヌネギ、ウド、ブドウ、ウバユリ、ドングリ、クルミ、フキ、ヒエ、クリ、サケ、エゾシカ、ウサギ、干し魚、ヒグマ。農耕はしない。擦文文化人の末裔がアイヌ人なら何故農耕が無くなるのか。醤(ひしお)を作らなくなったのか。製塩しなかったのか。


擦文文化人は竪穴式住居で煙道をもつカマドを使っていた。村は永住形態。アイヌのチセという住居は平屋で囲炉裏。カマドは無い。4年ほどでチセは捨てられコタンという村も別の土地に移る。擦文の竪穴式住居からアイヌのチセへの変遷も不明だそうだ。説明が誰にもつかない。千島アイヌには竪穴式住居の写真が残っている。


擦文文化を担った人たちがアイヌ人になるというロジックは再検討要。海洋狩猟民が10世紀頃の気候変動に合わせてカムチャッカ半島から渡って来て擦文人と置き換わったという説が正しいと思う。遺伝子的にもそう考えるのが素直だと思う。

樺太には元々アイヌ人はいなかったと考えた方が素直だと思う。元の時代、樺太に住んでいたニブフ人たちは元にアイヌの退治を依頼する。それまでいなかったアイヌが北海道から樺太に侵入しニブフ人の生活圏を圧迫しはじめていたに違いない。

<参考>
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