投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

日本の竪穴式住居について


 高原インディアンの竪穴住居外観
 http://www.sumai.org/asia/refer/sgkn9210.htmより
 

 海岸コリヤークの竪穴住居内部 
 http://www.sumai.org/asia/refer/sgkn9210.htmより

 国立民族学博物館の研究員の方が日本の竪穴式住居の復元の仕方は間違っている、どこの国の例を見てもピットハウスは穴に屋根を伏せた形で、それも土拭きで、入口は屋根の中央にあり、梯子で出入りするようになっている。日本のもそうであったはずという文章を書いていて、私も日本の復元の仕方は行き過ぎていると思っていて、どういう意図から復元しているのか、外国のものはどうなのか調べてみる気になった。

 それとは別に竪穴式住居に住んでいなかったという文章を遥か以前に読んだ記憶があって、それは高床式の住居に住んでいたケースも多かったはずというものだったと思う。それについても調べてみたくなった。

 今回は今まで読んだ本のメモとネットで読める論文や公的機関の文章を通読した。メモで残すのももったいないし。かといって書き連ねるとけっこうな量になる。2,500文字くらいにまとめてみた。

◆◆◆◆◆

 竪穴式住居は大変古い形式の住居ですが使われている期間も長い。旧石器時代(上場遺跡、鹿児島県)から現代まで。日本では明治時代の東京で竹職人が冬の間の作業場として毎年秋から冬にかけて作っていたそうです。

 竪穴式住居について文字記録はけっこう日本にもあって『日本書紀』景行天皇四十年にはこうあります。

 冬は穴に宿、夏は樔に住む

 『常陸国風土記』の「茨城郡」にはこうあります。

 昔、国巣(俗の語に都知久母、又、夜都賀波岐といふ)山の佐伯、野の佐伯ありき。普く土窟を堀り置きて、常に穴に居み、人来きたれば窟に入りて竄り、其の人去れば更郊に出でて遊ぶ。狼の性、梟の情にして、鼠に窺い、掠め盗みて、招き慰へらるることなく、彌、風俗を阻てき 

 土蜘蛛、佐伯についての記述です。穴から這い出てくるように見えたことが想像できます。しかし穴に住むことが異常にみえるということは、別にそうではなかった人々もいたという時代であるとも言えます。

 発掘された遺跡から見ていくと、、、。
 
 土葺き屋根は昭和60年代に新道4遺跡(北海道、先史~縄文)の発掘調査から提起され御所野遺跡(岩手県、縄文中期)、北代遺跡(富山県、縄文中期)と土葺き屋根の痕跡がでたことから今では普通にそういうものもあったという通念になっていると思います。復元家屋も土葺きのものが作られていますし、復元したもので火災を起こしどういう状態で今に残ったのかを試す実験も行われています。

 出入口が屋根の上というのは、かつてはそういうものであったかもしれないが次第に壁側に付く、それが一般的になるという過程が19世紀のアリューシャン列島や北米平原の事例で報告されているので、時代は3000年以上遡りますが日本の縄文時代でさへ横に入り口を持つ竪穴式住居を作る人々がいたというのが今の通念だと思います。ただ研究者の方々は確証が得られないと迂闊な報告や発表は公の場でされません。

 3000年の差は何か、何がきっかけで入り口を変えるのかということですが、普通考えて横にあったほうが便利で素直です。それが天井にあったというのは、その方が作るのに楽だった、また防寒(風が入りにくい)や狼、熊などの野獣の侵入をためらわせるという意味もあったのかも知れません。アリューシャン列島や北米平原の事例では冬の住まいとして使われるものなので一過性的な性質を持っているため敢えて面倒な工作をしなかったのかも知れません。それを止めるきっかけは次第に工作技術が進歩し求める機能以上にシンボリック化、巨大化して不便になったこと。それと他文化との接触ではないでしょうか。全く別の文化をもった人々との接触が生活様式を変えるきっかけになった。そう考えます。


 大船遺跡 深さ2.4mの竪穴式住居跡
 https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2020013000093/

 大船遺跡(北海道 縄文中期)から出た竪穴式住居跡は8m~11mの楕円形の床が地表から2.4m(最大)の深さに造られていたようです。住居に使われていたのかもしれませんが、私は宗教的な建物、集会用の建物、なにかシンボリックな特別な建物だったのではないかと思います。真ん中の掘り込みの目的は何なのか書かれているものを見つけられませんでしたが、これが天井の出入り口に繋がる梯子、丸太に削り込みを入れた梯子であったのではないかと想像します。深さと同じくらいの高さの屋根が作られていたとすれば5mの梯子になります。普段暮らすには不自由な建物ですが選ばれた者だけが参加できる特別な行事、選ばれた者だけが入れる特別な建物だったとすればこの大袈裟な深さも納得がいきます。北陸から山陰にかけて巨柱文化圏があったと聞きます。出雲大社は今に続くその建物です。昔は遥か見上げる高さの建物だったと。大船遺跡の竪穴はその逆に進化したものだったのではないかと想像しています。

 3世紀の『三国志東夷伝』は挹婁(ゆうろう)の住まいについてこう記しています。挹婁は夫餘の東北千余里で大海に接して居住していた人々です。

「山林之間に処し、常に穴居す、大家は深さ九梯、多きを以て好と為す。」「其人は不潔、溷を作ること中央に在り、人其の表を囲み居る。」

 1793年(寛政5年)11月27日に石巻港を出た若宮丸は遭難、漂流しアリューシャン列島のアツカ島にたどり着きます。期せずして世界一周をすることになった水夫たちは、その時の記録を後に環海異聞として残しました。そこにはアツカ島の住居についてこう記しています。

「島人は、いかやうの所に住居候や、家作とては見へ申さず、尋廻り見候へば、何れも穴居あなすまいと見へ申候。此浜の近辺に、土窖つちあなの有候。造り方の様子を見候所、平地へ深く穴を堀り、蔭室むろのごとく致し候物なり。穴の上は拾ひ集め置候流れ木共を以て屋根の骨となし、右萱のごとき草を葺きかけて、其上に土を掛置申候。其真中に二尺四五寸四方に口をあけ置候。是屋上の烟窓けむたしに似たり。此口則ち出入の所とす。其口下に向ひ升のぼり降り出入の梯やうの物御座候。」「小便を溜め置き、洗濯水に用ゆ。皮衣の汚れたるを、其溜め小便に二三日浸し置て洗ふ。其皮衣至て清く垢落て奇麗に成也。頭髪をも小便にて洗ふなり。」

 竪穴の住まい、天井に出入口、高い梯子で出入り、炉があり、尿貯めがある。同じ文化です。三国志東夷伝には記載はありませんが尿は皮を鞣す、洗濯、洗髪に使っていたはず。古代ローマでも洗濯屋は尿で選択していたそうです。

 挹婁と同じ文化をもった人々は早い時期にアリューシャン列島に住み着いたことと思います。三国志東夷伝と環海異聞、1500年の隔たりがあってまだ同じ生活を続けている人々と変わっていった人々の差はやはり異文化との接触ではないでしょうか。晋書粛慎伝(挹婁)には日本と中国の影響があったことを記しています。日本書紀には粛慎についての記載が欽明天皇、斉明天皇、天武天皇・持統天皇の箇所に出てきます。同じ文化を持っている人々でも孤立しているか孤立していないかで文化の変容とその速度に差がつくのだと思います。

*挹婁は勿吉、靺鞨 となり渤海国を建国、黑水靺鞨は女真族となり1115年に遼から自立して金を建国。この時点でも人尿で手や顔を洗う風習は受け継いでいたようです。習慣は変わらないものですね、、、、、。

 現代社会の基礎となる文明は何か。異論はあるとは思いますが私は古代メソポタミアのシュメール人の文明をあげます。12、60、360という数字を出し、車輪を作った人たち。グレゴリオ暦の基礎を作った人たち。黄河文明でさへこの影響を受けていると思ってます。そこはどういう立地だったか。人がクロスする場所。ありとあらゆる時代の人が交差していった場所。だからこそ、そういう現代をささえる文明が出来上がったのだと。これが孤立した場所であれば1000年経っても大きな変化はないと思います。

 日本の縄文時代の遺跡発掘から分かってきたことがあります。高床式の建物が竪穴式住居と併存すること。これは19世紀のアリューシャン列島や北米平原の事例と同じです。貫穴、桟穴(えつりあな)、渡り腮(わたりあご)、仕口の技術を持っていたこと(桜町遺跡 富山 縄文中期~後期初)。高床式の建物は弥生時代からという考えが覆されてしまいました。渡り腮(わたりあご)、仕口の技術に至っては現存する建物では法隆寺からしかなく、渡り腮、仕口は大陸から渡ってきた最新技術のはずが一気に4000年遡ってしまいました。

 また軽石で出来た家の模型の出土(栄浜1遺跡 北海道 縄文中期)があります。この模型は四方に壁を持ち屋根は棟木がある母屋造りでした。モデルとなった建物は竪穴式住居ではあると思いますが我々日本人が最近まで山村や農村で見かけた民家や小屋と外観は変わりありません。縄文中期なのに。一言で竪穴式住居といっても同じ時代であってもその内容は多様なものであったことが分かります。

 いわんや弥生時代をや。



<20200924追記>

『日本書紀』景行天皇四十年 「冬は穴に宿、夏は樔に住む」について考えてみた。

冬は竪穴式住居、夏は高床式住居。

素直に読むとこういう住み方に驚いている様子がうかがえる。先史時代から竪穴式住居は日本で使われていたはず、それは鹿児島の遺跡からも分かる。日本書紀が書かれた時代、西日本ではもう竪穴式住居は無かったのか。そんなはずはない。使われていたはずだ。

わざと驚いて見せたのか。それもあるかも知れない。竪穴式住居には2系統あって西日本のそれは天井から出入りするそれでは無かったのではないか。竪穴式住居の形式が違っていたのだと思う。

大陸の挹婁、勿吉、靺鞨系統の「冬は穴に宿、夏は樔に住む」形は日本のどこかで止まっていた。そんなことを考えた。

境はどのあたりか。

富山からは竪穴式と高床式が同じ場所から出てきている。摂津国風土記には土蜘の記述がある。これが九州になると磐窟(イワヤ)になる。石を積んで築いた建物。古事記には吉備国にもこれらが多く残っていたとあるそうだ。古事記にはこれを作った人々も土蜘(土雲)と記している。このあたりで文化が違う人たちが住んでいたのではないか。
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