皆様、明けましておめでとうございます
2012年はこの笑う猫の笑い声ではじめ、今年一年が笑いに満ちた年になりますように。音量を大きめでお聞きください(笑)。
この笑う猫は、tossyが伊勢神宮のおかげ横丁で買い求めて、わざわざアメリカまで連れてきたものです。
皆様、明けましておめでとうございます
2012年はこの笑う猫の笑い声ではじめ、今年一年が笑いに満ちた年になりますように。音量を大きめでお聞きください(笑)。
この笑う猫は、tossyが伊勢神宮のおかげ横丁で買い求めて、わざわざアメリカまで連れてきたものです。
今年は平成何年だったっけ?
自分も含め、周りにいる日本人に聞いても自信を持ってすぐに「平成二十三年」と答えられる人はいませんでした。もう平成になって23年!、大学生は当然平成生まれ、平成生まれの大卒新入社員が入社する時代とは、昭和も遠くなりにけりですね。
というわけで久しぶりの日本ネタ、昭和ネタで。8月に日本出張したときのこと、日本へ行っても仕事中はいつもホテル住まいで、寝る前には日頃見られない日本のテレビを画面鮮明な地デジ液晶テレビを見るのがささやかな憩いのひととき。
そこでたまたま見たのがこのNHK向田邦子ドラマ「胡桃(くるみ)の部屋」。画面全体に漂う昭和の感じがいいです。特にこの蟹江敬三演じるお父さんに共感です。会社一筋で部長になり頑張っていたのに突然のリストラ、家族にも言えず、家にも帰れず、自分の存在意義を失い、さまよい自殺を考えるが死にきれず、、さみしい後ろ姿のお父さん。
家では妻と次女らが父親の失踪を心配して探すが、やがて父親が小さなおでん屋の女将の部屋で一緒に住んでいることを知り家族それぞれに波紋が広がってゆく、、。
一方父親は、おでん屋の女将と暮らしてはいるものの心休まらず、町で宣伝板を持ち立ちん坊などもしている。こんな姿、昔は街角でよく見たなーと懐かしい、もっともこの写真の宣伝の内容はNHKだからおとなしく「喫茶店コーヒー」だが実際はキャバレーかストリップがほとんどでもっとどぎつかった。
ドラマの粗筋だけを追うと平凡な家庭ドラマだが、人物(心の揺れ)の描写さすが向田邦子さんですね。彼女が突然の飛行機事故で1981年に亡くなってもう早くも30年、テレビ脚本家と小説家の両方で後世に残る仕事をした人で、彼女が創り上げた登場人物たちは今も生きているようです。
写真は全てNHKの「向田邦子ドラマ胡桃の部屋」特設ページからの引用です。
宮沢賢治「雨ニモマケズ」が最近読まれているとのことです。
私は、童話作家としての宮沢賢治はあまり注目していなかったが「デクノボーになりたい−私の宮沢賢治」(山折哲雄著)をずっと以前に読み、彼の生きることへの葛藤、農村改善への情熱、家族の中での悩み、貧しさの中での葛藤、自然との触れ合い、などの渦の中を生き、若くして死んでいった事を知った。
本の表表紙と裏表紙には、手帳にエンピツで記された「雨ニモマケズ」をそのまま写真として掲載していた。その詩は活字で見る印象とは全く違い、生々しく苦しげでもあった、そして最後のページには大きく「南無妙法蓮華経」と叩き付けるように書いてある。この詩はどういう意味なんだ?という問いが頭の片隅に残っていた。
宮沢賢治の死後に手帳が発見され、その中に記されていたこの詩。手帳はいまは記念館に保存してあり「雨にもまけず手帳」としてコピー商品も売り出されているとのこと。
そこでネットで見つけたこの画像を取り込み起動画面に設定すると「iPhone版・雨ニモマケズ手帳」の出来上がり。こうすると1日10回は「雨ニモマケズ」を見ることになる。
渡辺謙の朗読と、青空文庫による全文もどうぞ。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※[#「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78]ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
底本:「【新】校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇」筑摩書房
1997(平成9)年7月30日初版第1刷発行
※本文については写真版を含む本書によった。また、改行等の全体の体裁については、「【新】校本宮澤賢治全集 第六巻」筑摩書房1996(平成8)年5月30日初版第1刷発行を参照した。
入力:田中敬三
校正:土屋隆
2006年7月26日作成
2011年4月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
約2ヶ月の放置状態のこのブログ、
けど、雪はとけて春にようやくなっているので、もう雪の表紙とはおさらばしたいと踏ん切りがつく。
記念旅行で、夫婦で地中海クルーズ旅行に3月上旬に出発、その途中で3月11日大震災と津波のニュースが船上でのテレビ BBC World News で流れ出した。テレビの画面からは信じられないほどの風景が、だのに情報が少なくてよく判らない、それに洋上はもともとどんな携帯電話も通じない、とても高い衛星経由のインターネットからWiFi接続してiPhone で日本のニュースと情報を収集した。
色々と心配はするが、船旅の途中ではなんともすることが出来ず、気もそぞろなままで観光旅行を続けた。船の乗客たちから、「あなた、日本人?家族はだいじょうぶ?」と心配してもらう。
その後は、あの原子炉建家の爆発の映像が繰り返し、繰り返し流れる。日本の安全神話の崩壊、原子炉は緊急停止出来なかったのか?との疑問が残ったが、後ほど停止は成功しても熱を取るために冷やし続けなければならないことを知る。
いのちが、何千人を通り越して1万以上という数で一度に失われる、こんな事実を受け止めきれずにしばらく思考停止状態となっていた。
被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
さて、いま何をなすべきか、これから何に向かって進むべきか、数週間立ち止まったが、自分の身の回りで出来ることをやって行きましょうと、当たり前の結論に戻った所なのです。
私は60才の誕生日を迎えたわけだが、正直嬉しいものではない。
日本の会社は60才定年制なので定年と再雇用の調整と手続き、正直楽しいものではない、なぜ60才を境目として全てがかわるのか。アメリカなら年齢差別で訴訟ものだ、「雇用における年齢差別禁止法 (Age Discrimination in Employment Act)」という法律があるようで、会社の管理職は部下に対するあらゆる差別(性別、年齢、人種、宗教)が起きないように注意を払う必要がある。私がアメリカに赴任してきてすぐにJY氏から言われたこと。
JY氏「少々友達になって世間話をするようになっても、年齢を聞いてはいけないよ。」
Jun「?、なぜ?」
JY氏「君がそう思っていなくても、年齢を聞き、そしてその従業員を評価したら、年齢を基準にして低い評価されたと訴えられても反論出来ないからだよ。気をつけることだね。」
Jun「えーー」
そんなことを思っている時に、こんな記事を見つけた、2年前にお話を聞いた日野原重明(聖路加国際病院理事長。同名誉院長)先生のコラム。以下はasahi.com からの引用、
--------------------------------------------------------------
今年は、私が満100歳を迎える年です。これまでは2005年から14年までの10年日記に予定を書き込んでいましたが、このほど2011年から20年までの日記を購入しました。いま、14年以降の予定を記入しているところです。
これからの10年をめどに、私の人生のマラソンが始まりました。10年先までに、次のようなことをするつもりです。
(中略、医学についてなど幾つかの目標を示された)
昨年10月、『百歳は次のスタートライン』と題した本を光文社から出版しました。序文には、「私、日野原にとって今年は新世紀の始まり、颯爽(さっそう)と走りだそう!」と書きました。10年後に110歳を迎えるまで、私にはやりたいことが山積しているのです。
--------------------------------------------------------------
ジョン万次郎を助けたホイットニー船長の家を復元するために寄付を募り、地元に贈呈する式典に出席された日野原先生に、日米協会のピーターさんは「先生には百歳になられた時にもう一度こちらを訪れていただくことを約束いただきました、、」と話していたのを思い出した。過去の記事はこちら
その時は社交辞令かと思っていたが、たぶん先生の10年日記にはこのスケジュールが記入されているのではないかと思う。
会社と仕事一辺倒の思考は改めつつあるが、60才はまだまだひよっこだ。100才の大先輩を少しでも見習っていきましょう。
そして今日のお茶のお稽古では、大徳寺老師のお軸が掛けてあった。
「日々新」(ひびあらた)
今年はこれを座右の銘として、セーラム3年日記を続けて行きましょう。もう3年続ければ10年日記になることだし。
年末年始を日本で久々にゆっくり過ごしてこちらへ帰ってくると、なんと大雪、スノーストーム、非常事態宣言まで出て、そして明日は最低気温マイナス22度の予報と大変。おまけに車が動かなくなり初めてAAAを呼ぶが単純にバッテリー繋ぐだけでは動かず、結局修理に再度別のAAAの作業者でtowしてもらう、波乱の2011米国生活の幕開けのよう。
日本ではパワースポットばやりで、その影響か2010年伊勢神宮には過去最高のなんと年間860万人の人が訪れたとのこと。我が家も日本にいる時には欠かさず伊勢神宮へ初詣にいっているので、今回も去年に引き続き行ってきました(記事はこちら)。
・今年は Toosy, Namiji, フミくんという居候とで4人
・てこね寿司というこの地方の名物を昼食で食べ
・赤福ぜんざいも食べ、ひもの市場の無料試食も食べ
・内宮へお参りしをしました
・参拝後は暖かい甘酒が振る舞われていたのでいただく
と言う具合で食べる方が主。さて残念ながら写真は無いので去年の写真から神社の風景を、鳥居も杉の木も何百年も変わらず存在するので去年も今年も変わっていないと思い、変わらずに人を引き寄せるからパワースポットなのか。
千年以上存在しているこの伊勢神宮は、式年遷宮という20年に一度神社を建て替える行事を行っている。歴史があるだけでなく形は常に新しいものへ変わってゆく、ここらあたりが人を引きつける所以ではないかと思う。
会社帰りの一杯飲み屋へ入ってみると古い懐かしい曲がかかっているように、
(といっても、現実にはもうあり得ないが、、、)
mixiまっこさんが、まだ若いのに昭和歌謡を懐かしいとYouTubeからいくつも曲を貼付けてくれていました。
ちあきなおみ「喝采」
小坂恭子「思い出まくら」
風「22才の別れ」、・・など、など、ほんとにおセンチな気分にどっぷりと浸ることができます。
まっこさん、これが私の涙が出るほど懐かしき曲なのです。ついつい、YouTubeで古い(オリジナルな時代の)映像と近年の映像を見比べたりして、ハマってしまいます。
太田裕美「木綿のハンカチーフ」
~涙ふく~~ハンカチ~フ、ください~
イルカ+伊勢正三「なごり雪」
これらが歌われたのは、1975年・昭和50年ごろ、え~~もう35年も前!私にとってはほんの少し前のことなのに、と今更ながら驚かされます。
しかもこの年は調べてみると卯年、来年2011年も卯年なのでここから干支が三回りして私の年になる。
この頃から、私や世界は進歩したのだろうか。
皆様も良いお年をお迎え下さい