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Salem 3年日記

マサチューセッツ州セーラムに住み3年以上。

謹賀新年 2012

2012年01月01日 | 日本を見ると

皆様、明けましておめでとうございます

2012年はこの笑う猫の笑い声ではじめ、今年一年が笑いに満ちた年になりますように。音量を大きめでお聞きください(笑)。


この笑う猫は、tossyが伊勢神宮のおかげ横丁で買い求めて、わざわざアメリカまで連れてきたものです。


昭和の匂いがした、「胡桃の部屋」向田邦子

2011年09月09日 | 日本を見ると

今年は平成何年だったっけ?

自分も含め、周りにいる日本人に聞いても自信を持ってすぐに「平成二十三年」と答えられる人はいませんでした。もう平成になって23年!、大学生は当然平成生まれ、平成生まれの大卒新入社員が入社する時代とは、昭和も遠くなりにけりですね。

というわけで久しぶりの日本ネタ、昭和ネタで。8月に日本出張したときのこと、日本へ行っても仕事中はいつもホテル住まいで、寝る前には日頃見られない日本のテレビを画面鮮明な地デジ液晶テレビを見るのがささやかな憩いのひととき。

そこでたまたま見たのがこのNHK向田邦子ドラマ「胡桃(くるみ)の部屋」。画面全体に漂う昭和の感じがいいです。特にこの蟹江敬三演じるお父さんに共感です。会社一筋で部長になり頑張っていたのに突然のリストラ、家族にも言えず、家にも帰れず、自分の存在意義を失い、さまよい自殺を考えるが死にきれず、、さみしい後ろ姿のお父さん。

家では妻と次女らが父親の失踪を心配して探すが、やがて父親が小さなおでん屋の女将の部屋で一緒に住んでいることを知り家族それぞれに波紋が広がってゆく、、。

一方父親は、おでん屋の女将と暮らしてはいるものの心休まらず、町で宣伝板を持ち立ちん坊などもしている。こんな姿、昔は街角でよく見たなーと懐かしい、もっともこの写真の宣伝の内容はNHKだからおとなしく「喫茶店コーヒー」だが実際はキャバレーかストリップがほとんどでもっとどぎつかった。

ドラマの粗筋だけを追うと平凡な家庭ドラマだが、人物(心の揺れ)の描写さすが向田邦子さんですね。彼女が突然の飛行機事故で1981年に亡くなってもう早くも30年、テレビ脚本家と小説家の両方で後世に残る仕事をした人で、彼女が創り上げた登場人物たちは今も生きているようです。

写真は全てNHKの「向田邦子ドラマ胡桃の部屋」特設ページからの引用です。


雨ニモマケズ

2011年05月10日 | 日本を見ると

宮沢賢治「雨ニモマケズ」が最近読まれているとのことです。

私は、童話作家としての宮沢賢治はあまり注目していなかったが「デクノボーになりたい−私の宮沢賢治」(山折哲雄著)をずっと以前に読み、彼の生きることへの葛藤、農村改善への情熱、家族の中での悩み、貧しさの中での葛藤、自然との触れ合い、などの渦の中を生き、若くして死んでいった事を知った。

本の表表紙と裏表紙には、手帳にエンピツで記された「雨ニモマケズ」をそのまま写真として掲載していた。その詩は活字で見る印象とは全く違い、生々しく苦しげでもあった、そして最後のページには大きく「南無妙法蓮華経」と叩き付けるように書いてある。この詩はどういう意味なんだ?という問いが頭の片隅に残っていた。

宮沢賢治の死後に手帳が発見され、その中に記されていたこの詩。手帳はいまは記念館に保存してあり「雨にもまけず手帳」としてコピー商品も売り出されているとのこと。

そこでネットで見つけたこの画像を取り込み起動画面に設定すると「iPhone版・雨ニモマケズ手帳」の出来上がり。こうすると1日10回は「雨ニモマケズ」を見ることになる。

 

 

渡辺謙の朗読と、青空文庫による全文もどうぞ。

 

 

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ※[#「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78]ノ

小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

 

南無無辺行菩薩

南無上行菩薩

南無多宝如来

南無妙法蓮華経

南無釈迦牟尼仏

南無浄行菩薩

南無安立行菩薩

 

 

 

底本:「【新】校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇」筑摩書房

   1997(平成9)年7月30日初版第1刷発行

※本文については写真版を含む本書によった。また、改行等の全体の体裁については、「【新】校本宮澤賢治全集 第六巻」筑摩書房1996(平成8)年5月30日初版第1刷発行を参照した。

入力:田中敬三

校正:土屋隆

2006年7月26日作成

2011年4月27日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

 


3月、4月と、

2011年04月17日 | 日本を見ると

約2ヶ月の放置状態のこのブログ、

けど、雪はとけて春にようやくなっているので、もう雪の表紙とはおさらばしたいと踏ん切りがつく。

記念旅行で、夫婦で地中海クルーズ旅行に3月上旬に出発、その途中で3月11日大震災と津波のニュースが船上でのテレビ BBC World News で流れ出した。テレビの画面からは信じられないほどの風景が、だのに情報が少なくてよく判らない、それに洋上はもともとどんな携帯電話も通じない、とても高い衛星経由のインターネットからWiFi接続してiPhone で日本のニュースと情報を収集した。

色々と心配はするが、船旅の途中ではなんともすることが出来ず、気もそぞろなままで観光旅行を続けた。船の乗客たちから、「あなた、日本人?家族はだいじょうぶ?」と心配してもらう。

その後は、あの原子炉建家の爆発の映像が繰り返し、繰り返し流れる。日本の安全神話の崩壊、原子炉は緊急停止出来なかったのか?との疑問が残ったが、後ほど停止は成功しても熱を取るために冷やし続けなければならないことを知る。

いのちが、何千人を通り越して1万以上という数で一度に失われる、こんな事実を受け止めきれずにしばらく思考停止状態となっていた。

被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。

さて、いま何をなすべきか、これから何に向かって進むべきか、数週間立ち止まったが、自分の身の回りで出来ることをやって行きましょうと、当たり前の結論に戻った所なのです。

 


 


60 になり 100 におどろく

2011年02月03日 | 日本を見ると

私は60才の誕生日を迎えたわけだが、正直嬉しいものではない。

日本の会社は60才定年制なので定年と再雇用の調整と手続き、正直楽しいものではない、なぜ60才を境目として全てがかわるのか。アメリカなら年齢差別で訴訟ものだ、「雇用における年齢差別禁止法 (Age Discrimination in Employment Act)」という法律があるようで、会社の管理職は部下に対するあらゆる差別(性別、年齢、人種、宗教)が起きないように注意を払う必要がある。私がアメリカに赴任してきてすぐにJY氏から言われたこと。

JY氏「少々友達になって世間話をするようになっても、年齢を聞いてはいけないよ。」

Jun「?、なぜ?」

JY氏「君がそう思っていなくても、年齢を聞き、そしてその従業員を評価したら、年齢を基準にして低い評価されたと訴えられても反論出来ないからだよ。気をつけることだね。」

Jun「えーー」

 

 

そんなことを思っている時に、こんな記事を見つけた、2年前にお話を聞いた日野原重明(聖路加国際病院理事長。同名誉院長)先生のコラム。以下はasahi.com からの引用、

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今年は、私が満100歳を迎える年です。これまでは2005年から14年までの10年日記に予定を書き込んでいましたが、このほど2011年から20年までの日記を購入しました。いま、14年以降の予定を記入しているところです。

これからの10年をめどに、私の人生のマラソンが始まりました。10年先までに、次のようなことをするつもりです。

(中略、医学についてなど幾つかの目標を示された)

昨年10月、『百歳は次のスタートライン』と題した本を光文社から出版しました。序文には、「私、日野原にとって今年は新世紀の始まり、颯爽(さっそう)と走りだそう!」と書きました。10年後に110歳を迎えるまで、私にはやりたいことが山積しているのです。

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ジョン万次郎を助けたホイットニー船長の家を復元するために寄付を募り、地元に贈呈する式典に出席された日野原先生に、日米協会のピーターさんは「先生には百歳になられた時にもう一度こちらを訪れていただくことを約束いただきました、、」と話していたのを思い出した。過去の記事はこちら

その時は社交辞令かと思っていたが、たぶん先生の10年日記にはこのスケジュールが記入されているのではないかと思う。

会社と仕事一辺倒の思考は改めつつあるが、60才はまだまだひよっこだ。100才の大先輩を少しでも見習っていきましょう。

 

そして今日のお茶のお稽古では、大徳寺老師のお軸が掛けてあった。

「日々新」(ひびあらた)

 

今年はこれを座右の銘として、セーラム3年日記を続けて行きましょう。もう3年続ければ10年日記になることだし。

 

 


パーワスポット(1)伊勢神宮

2011年01月21日 | 日本を見ると

年末年始を日本で久々にゆっくり過ごしてこちらへ帰ってくると、なんと大雪、スノーストーム、非常事態宣言まで出て、そして明日は最低気温マイナス22度の予報と大変。おまけに車が動かなくなり初めてAAAを呼ぶが単純にバッテリー繋ぐだけでは動かず、結局修理に再度別のAAAの作業者でtowしてもらう、波乱の2011米国生活の幕開けのよう。

 

日本ではパワースポットばやりで、その影響か2010年伊勢神宮には過去最高のなんと年間860万人の人が訪れたとのこと。我が家も日本にいる時には欠かさず伊勢神宮へ初詣にいっているので、今回も去年に引き続き行ってきました(記事はこちら)

・今年は Toosy, Namiji, フミくんという居候とで4人

・てこね寿司というこの地方の名物を昼食で食べ

・赤福ぜんざいも食べ、ひもの市場の無料試食も食べ

・内宮へお参りしをしました

・参拝後は暖かい甘酒が振る舞われていたのでいただく

と言う具合で食べる方が主。さて残念ながら写真は無いので去年の写真から神社の風景を、鳥居も杉の木も何百年も変わらず存在するので去年も今年も変わっていないと思い、変わらずに人を引き寄せるからパワースポットなのか。

千年以上存在しているこの伊勢神宮は、式年遷宮という20年に一度神社を建て替える行事を行っている。歴史があるだけでなく形は常に新しいものへ変わってゆく、ここらあたりが人を引きつける所以ではないかと思う。

 


懐かしき昭和の曲

2010年12月18日 | 日本を見ると

会社帰りの一杯飲み屋へ入ってみると古い懐かしい曲がかかっているように、

(といっても、現実にはもうあり得ないが、、、)

mixiまっこさんが、まだ若いのに昭和歌謡を懐かしいとYouTubeからいくつも曲を貼付けてくれていました。

ちあきなおみ「喝采」

小坂恭子「思い出まくら」

風「22才の別れ」、・・など、など、ほんとにおセンチな気分にどっぷりと浸ることができます。

まっこさん、これが私の涙が出るほど懐かしき曲なのです。ついつい、YouTubeで古い(オリジナルな時代の)映像と近年の映像を見比べたりして、ハマってしまいます。

 

太田裕美「木綿のハンカチーフ」

~涙ふく~~ハンカチ~フ、ください~

 

イルカ+伊勢正三「なごり雪」

 

これらが歌われたのは、1975年・昭和50年ごろ、え~~もう35年も前!私にとってはほんの少し前のことなのに、と今更ながら驚かされます。

しかもこの年は調べてみると卯年、来年2011年も卯年なのでここから干支が三回りして私の年になる。

この頃から、私や世界は進歩したのだろうか。

 

皆様も良いお年をお迎え下さい


浅川マキさんの訃報に接し....

2010年01月19日 | 日本を見ると


日本のニュースはネットで見ているが、こんなマイナーな記事までは見つけられませんでした。

「浅川マキさんが1月17日夜、公演先の名古屋で亡くなった。享年67歳」

ショックです、浅川マキさんは私の最も好きだった、というより私の20代を過ごした時代と記憶であり、思い出すたびにまだかさぶたがついている柔らかな傷跡のようなものだったのです。

学生時代に北九州公演の切符売りに協力した時に実物の彼女に会ったが、いつも写真と同じ全身真っ黒な衣装、過度の黒いアイシャドウとつけまつげだが舞台で見るとそれがおかしくない、不思議な雰囲気が漂っているひとだった。
ステージを何度も見て、初期から中期のレコードは全て買い、特に最初のアルバム「浅川マキの世界」はレコードがすり切れてパチパチと音がするようになるまで聞いたものでした。



浅川マキさんがいなくなると言うことは、こんな30年以上前の記憶と、今とを繋ぐ糸が断ち切られてしまったようで、ほんとうに悲しいです。

せめて今夜は、この「それはスポットライトではない」(It's not the spot light)を聞きながらウイスキーを飲みましょう。

(訳詞;浅川マキ)

もしも光が/またおいらにあたるなら

それを/どんなに待ってるさ

ずっと前のことだけれど/その光に

気づいていたのだが/逃していただけなのさ

だけど再びいつの日にか/あの光が

おいらを照らすだろ

あの光そいつは......

Maki Asakawa 浅川マキ - それはスポットライトではない


It's Not The Spotlight
(Gerry Goffin, Barry Goldberg)

If I ever feel the light again shining down on me,
I don't have to tell you what a welcome it will be.
I felt the light before but I let it slip away,
but I still keep on believing that it'll come back some day.

It's not the spotlight, it's not the cam'ra light,
it's not the street lights of some old street of dreams.
It ain't the moonlight, not even the sunlight,
but I've seen it shining in your eyes and you know what I mean.

Some times I try to tell myself the light was never real,
just a fantasy that used to be, the way I used to feel.
But you and I know better, even though it's been so long,
if your memory really serves you well, you'll never tell me no wrong.

It's not the spotlight, it's not the cam'ra light,
it's not the streetlights of some old street of dreams.
It ain't the moonlight, not even the sunlight,
but I've seen it shining in your eyes you know what I mean.

So if I ever feel the light again shining down on me,
I don't have to tell you what a welcome it would be.
I felt the light before but I let it slip away,
but I still keep on believing that it'll come back some day.

It's not the spotlight, it's not the cam'ra light,
it's not the streetlights of some old street of dreams.
It ain't the moonlight, not even the sunlight,
but I've seen it shining in your eyes and you know what I mean.



初詣は伊勢神宮

2010年01月16日 | 日本を見ると
渡米以降途絶えていた「伊勢神宮への初詣」へ言ってきました。

いきなり話はそれるが、アメリカ人に「日本の最も古いシュラインへ行ってきた、そこは日本のエンペラーも訪れる、数千年の歴史を持っているところだ」と説明したが興味を持ってもらえなかった..。


元旦の暗いうちに自宅をTossyの運転で出発し初日の出を見ながらドライブ。


駐車場が混むのは想定内だが宇治橋手前でもこの人出でしばし待たされた後に新しくなった宇治橋を渡り敷地内へ。


手水(ちょうず)で清めるのが正式なお参りの作法。
Tossyより、左手・右手・口をすすいで・そのあと柄杓の柄を洗うのを忘れないで、と指導をうける。これはお茶会での作法でもあるので覚えておくこと。


途中で神宮の神馬(しんめ)と出会いました。今年は何かと新しく出会うことを期待しましょう。今調べてみるとこのお馬さんたちは宮内庁御料牧場出身だそうです。


何百年の歴史を持つ木々から漏れてくる元旦の朝日を浴びながら参道を歩き続ける。初めての人にはご忠告、砂利道の参道を歩くと柔らかい皮のハイヒールは一発で傷みダメになりますのでご注意を。


やっと見えてきた内宮の本殿、階段は人、人、人、少しずつ進みながらやっとお参りで、家内安全、家族健康をお参りしました。


さて、お参りの後のお楽しみは、おかげ横町めぐり。以前はここでお酒を立ち飲みしていたが今の時代はそうも出来ないよう。それでも土産物屋、美味しそうな食べ物屋がたくさん。写真は見本をたくさん焼いて食べさしてくれる干物屋さん、さんまの干物は美味しかった!


ここは色んな招き猫だけを売っているお店。Tossyは「七福神招き猫」を買い家に飾る。


このバーチャル初詣で、皆様にとっても今年が良いお年になりますように

じゅん

日本往復の間に、

2009年06月24日 | 日本を見ると







ご無沙汰です、
日本へ仕事で出張し、帰りにNamijiの暮らし始めた横浜へ寄ってから帰ってきました。
Namijiと一緒に日吉の街と銀杏並木がきれいな大学構内をゆっくりと散策したが、大学の競技場トラックとジャズが流れる焼き鳥屋は、はて見覚えがあるデジャブ気分と思っていたら、何年も前にWataruと一緒に歩いたコースだった。人生にはこんな偶然があるから嬉しくなってくる。

検疫が緩和されても日米間飛行の連続10時間以上の旅は苦痛になるが、最近はiPhoneの音楽と文庫本1冊で過ごすようにしている。今回は司馬遼太郎の本ですばらしい言葉に出会ったので、これを今年後半の座右の銘としたい。




志(こころざし)は塩のように溶けやすい。男子の生涯の苦渋というものはその志の高さをいかにまもりぬくかというところにあり、それをまもりぬく工夫は格別なものではなく、日常茶飯の自己規律にある、という。

司馬遼太郎 「峠 上」

日本往復で疲れ果てる

2009年03月05日 | 日本を見ると
今回、ビザ更新で日本へ往復しビザ更新は問題なく更新出来たものの、往復共に飛行機トラブル発生。

日本行きは、ボストン→デトロイト→大阪だったが、デトロイトは雪で寒く、当初は雪で準備の遅れ、次に油圧装置の故障とのことで修理待ち。デトロイト空港入り口ゲート前で延々と約5時間待ち、キャンセルになったら翌日の米国総領事館での面接が出来なくなるのでどうしようかと心配したが、なんとか修理終わり発進。関西空港へは深夜に着き、最後から2つ目の高速バスに乗れて大阪のホテルにまでたどり着けた。


日本発は名古屋空港で飛行機に乗り込みドアも閉じたので安心していたらいつまでたっても動かない。機内で2時間以上待たされた結果「フライトコントロールが故障で、交換部品が名古屋に無いため取り寄せます」。一旦、飛行機を降ろされ待つこと合計約7時間!!!
諦めかけたところでようやく出発。そして出発したのはよいが機内放送で「乗務員の勤務時間が制限を超えたため、シアトルへ一旦着陸し乗員を交代します」!もう!、乗客も同じ時間だけ忍耐して待っているのに!と腹立たしい気分。デトロイトでの乗り継ぎを心配したが、着いてから地上職員に聞いてくださいとだけしか案内無しでほんと不親切。デトロイトに着いたら.....寒い、マイナス10度!!後でテレビで確認したら、東海岸北部にはこの冬最後で最大のメガストームが襲来!午後8時頃到着なら、最終のボストン行きに乗れるのではと期待していたが、残念なことにストームで既にキャンセル!
結局ノースウエストが準備してくれた安ホテルへシャトルバスで向かったが、同乗したフィリピン人おじさんの誤判断で違うところで降りてしまい、寒い中をうろうろしたあげくタクシーを使う羽目になる。ホテルは寒くて朝目が覚めた時は風の引きかけで頭痛。
何とか気を取り直して空港へ行ったものの、朝もボストン・NY行きは欠航や遅れが多く昨夜のチケットでは何ともならず、カウンターで今乗れるチケットへ交換してくれてデトロイト→ワシントンDC→ボストンで夕方の到着となる。
途中、小さな飛行機に乗ったが、入念に雪と氷を溶かす処置をしていた。そういえば最近翼に氷が着いて墜落したのと同じ型の飛行機では..とも思ったがどうしようもない。
無事にボストン到着したものの、今度は旅行カバン2つが出て来ずロストバゲッジ!

丸二日経っても日本→ボストンの旅が終わらなかったのでした。

ロストバゲッジは窓口へ届けた(ファイリングする)ものの混乱していると見え丸1日経っても何の連絡も無し。ローガン空港へ行き自力で、放り出されている旅行カバンをようやく回収に成功!
....こんなにトラブルで疲れた旅は初めて、もしやWataruのトラベル・トラブル神が今年から交代で私に取り付いたか?と思うほど。

早く春になって欲しいものです

Jun

日本での1.5次会

2008年11月17日 | 日本を見ると
9月のグアムでの結婚式に引き続き、日本での結婚披露会員制パーティーに出席してきました。海外挙式の後、日本で友人達を中心に行うのを最近は1.5次会と言うそうです。
場所は東京、白金台のレストラン、意外と緑が多く秋の紅葉を広い窓から見ながら多くの友人に囲まれての結婚式。幸せそうできれいな花嫁と、馬子にも衣装でスッキリしたWataru達にもういちどおめでとうと言えました。





もう一度ウエディングケーキに入刀、ケーキはその場で親戚の女の子が人形を乗せて出来上がり。新郎人形はひざまずいているのではなく、グアム島での写真取りの時のジャンプの姿を模したもの。


そしてNamijiの艶やかな振り袖姿と帯、この帯結びも自分でやったとのことでさすが着付け師範。司会を大ちゃんと一緒にやり,お疲れさま。




ごぶさたです

2008年06月13日 | 日本を見ると
皆さん、長いご無沙汰です。
Toshikoさんの大学病院での手術は無事成功、日本にて自宅療養中、
色んな事で日米を短期間で3往復、
渡米以来、初めて日本でプライベートタイムである程度期間滞在し、
・日本で車を久々に運転(アメリカの国際免許証で)
・日本の自宅に荷物が入り日米ダブル自宅に(奇妙なかんじ)
・念願の、日本の温泉と本屋の立ち読みを満足行くまで時間を過ごす(米国で出来ないささやかな夢を実現)
・日本の松坂牛の方が米国ビーフより格段に美味しい事を再確認

など、などいろいろありましたが、ブログもぼちぼち書いて行きます。
(読んでくれている数少ない人と自分のためにも)

日本は暑かった

2007年09月11日 | 日本を見ると
久しぶりの日本の夏は、やはり暑く蒸し暑かった。

日本到着して数日はベタベタする蒸し暑さと時差ぼけで、夜は数時間置きに目が覚めてしまった、そんな日本での感想。

・いくつかの家庭にお邪魔したが、大画面フラットテレビが多い!かつ「地デジ」などというものが始めっていて画面のきれいで鮮明なこと!これで日本人はますますテレビ視聴時間が長くなるはず。

・「アメリカで大流行」というビリーのブートキャンプというものを初めて知る。これにはまっている人が多いが私は聞いたことも無いし、アメリカの通販テレビでも見たことも無い。

・大きな岩風呂でホッとし、生サンマ・関アジ・手作りのお袋の味・納豆+オクラ+生卵のねばねばパワー・焼き鳥・本場の手打ちそば(安曇野)・本場の讃岐うどん、おまけに尾頭付きの鯛まで食べさせてもらい、すっかり身体の中を日本製サカナタンパク質に入れ替え。

・だが、日本では自宅無し、車無し、免許証は期限切れ、日本の銀行口座やカードは仮の住所で注意必要など、不便なことこのうえなし。



自分の居場所は日本かアメリカか、今は自宅がアメリカなので「帰ってくると」ほっとするが....。自分の拠るべき場所はどこか、長い間親しんだ組織や仲間と別れてきた自分とは何か。
そう思いながら手に取った一冊の本が五木寛之「大河の一滴」。五木寛之は「さらばモスクワ愚連隊」から「青春の門」の信介しゃんまではほとんど読み、筑豊のぼた山跡を歩いたものの近年はすっかりご無沙汰していたのが数十年ぶりの再会。

「人はみな大河の一滴」

「人間はちっぽけな存在である、と考え直してみたい」

「一滴の露は...やがて渓流は川となり、平野を抜けて大河に合流する。その流れに身をあずけて海へと注ぐ大河の一滴が私たちの命だ」

司馬遼太郎も良いけど五木寛之も見直した。

さて、Salem へ帰って来て困ったことが一つ、たった2週間で英語レベルが落ちてしまったことを自覚。アパートのエレベータで近くの部屋の住人と会ったので"Hello" 以外に何か言おうとしたが「(えーと久しぶりを英語で言うと、I did not meet you resently..これじゃおかしいね...)」と考えたが言葉が出ず。
隣りでNamji は何気なく "Long time no see..." とおしゃべり始める。主語も無いし過去形でもないけど慣用句で「お父さん、これでいいんやにー」(三重弁)とのこと。
まだまだです。

ふるさとは遠くにありて思うもの

2005年01月02日 | 日本を見ると
映画版「セカチュー」ロケ地は香川県庵治町、意外なところで香川県が有名になったもんだよ。穏やかな海岸線、間近に見える小さな島、特徴的な山の形をした五剣山と屋島がどこからでも見える、全てが見慣れた風景。
香川県以外でも暮らしたところは、福岡県、岐阜県、三重県、そしてこのマサチューセッツ州、全てが故郷と言えるように生活を刻み思い出を作ってゆきたいものです。

さて、香川県が異色の美術館めぐりが出来る場所となりつつあるらしい。

猪熊弦一郎現代美術館、丸亀

イサム・ノグチ庭園美術館、庵治

直島地中美術館、安藤忠雄設計

後ほど個別にうんちくを、じゃなく気軽にトリビアを。

香川県であと忘れてはいけないもの
「恐るべき讃岐うどん」
映画「青春デンデケデケデケ」観音寺、大林宣彦監督