
イエズス様からコンソラータへ
「コンソラータ、あわれな罪深い人類のために、あなたがゆるしを願いなさい。そして、私の愛の勝利を願いなさい。新しい聖霊降臨において、燃えさかる神の愛の火が、人類の多くの罪を清めるように願いなさい!神の愛のみが、背教者を使徒に、汚れた百合を潔白無垢に、敵意に燃えて反逆する罪びとを、愛の獲物に変化する事ができる!あなたのため、また今、地上にあるものと、世の終わりまで存在する全ての霊魂のために、私の愛の勝利を願いなさい。あなたの絶え間ない祈りによって、私の聖心と愛が、全世界に勝利を占めるよう、準備しなさい。
多くの信者は、愛の生活のために創造されていながら、神の愛が世界を革新するよう、絶え間なく愛し、祈ってほしいとのイエズスの渇望を知らず、また知っていても無視して、神の事も神の愛も忘れて暮らしている。
だから、イエズスは仰せられた。
「コンソラータ、小さい霊魂にも、全ての人々にも、私の、言葉に言い表せぬ愛のへりくだりについて語りなさい!どんなに私が優しく、母らしく、またどんなに人々からただ愛の他何も望まぬか、私の愛に答えてほしいと渇望しているかを伝えなさい。
あなたは私の限りなく大きなあわれみ、母らしい愛のへりくだりを、世界の人々に伝えるために召されている。」
イエズス様からコンソラータへ
「霊魂を聖化する事がどんなに私の喜びであるか、あなたが知ったならば! その喜びを私に与えるため、全ての者は聖なる者とならねばならない!」
「コンソラータ、私がいつも慈悲に満ちていることを忘れてはいけない。この事実を決して、間違えてはいけない! あなたも知っている通りを人々は、苦業、鞭打ち、鎖などを描き出して聖徳を説明する。・・・けれども聖徳はそんなものではない。もし一人の聖人の生涯に犠牲や苦業が見られたとしても、それだけが聖人の生活のすべてではない。」
ある日、コンソラータは重いインフルエンザにかかり、ふらふらしていたために、聖堂の席のところへ体を支えていたが、やがて座り込んでしまった。そんなことは普通の時ならけっしてやらなかったことである。あとでそれを悔やんで、イエズスにゆるしを願った。
イエズスは仰せられた。
「コンソラータ、安心しなさい。私を厳しい者だと考えてはならない! あなたの師父聖フランシスコを起こすため毎朝鳥を送った私は、ある朝、フランシスコが夜ほとんど眠らなかったから遅くまで鳥を送らなかった。同じようにあなたはインフルエンザにかかっているのだから、座り込んでも赦します。イエズスが親切、慈愛、寛大そのものである事はもうわかっているね?
カトリック信者は、自己の聖化とともに人の救いのために働かなければならないと常日頃思うようになった。
自己の聖化・・・・が難しいのだ。
他人をとやかく言う前に、自分はどうなのか?と考えた時、反省してしまう。
厄介なのは、自分との闘いなのだ。
「神様・・・・私は、・・・・・の罪を犯してしまいました。明日から、また、一から頑張ります!!!」
と言ったにもかかわらず、また、次の日に同じ罪を犯してしまう。
ガ――ン!!
しかし、神様はおっしゃるのです。
同じ罪を何回、何千回犯そうが、悔い改めて私のもとに来るならば全て、ゆるそうと。
私の愛は、いつも変わらない・・・と。
神様は、最初は誰もが感じる”恐ろしい”というイメージがある。
何故だろうか?
神様のイメージは、閻魔大王というイメージに近いのでは?
イメージ 2
私は、この御絵を見た時、魅了されてしまいました。
神様の眼差しは、本当に憐み深く、優しい。
神様は、人間一人一人の全てをご存知で、全ての人間を愛し、全ての人間の事情を熟知されていて、人間に決して強制はされない。
全てを寛容に見て下さっていて、全てを善意によって解釈してくださる。
神様は、病気なのに、ミサに行きなさいとは言わないし、出来ない事を強制もしない。
全てを人間の自由意思に委ねられているのだ。
人間の自由意思は、神様ですら曲げることは出来ないんだ。
神様が私たちにお望みになられていること。
それは、一言で言うと”愛してほしい”ということなのだと思う。
神様は”愛”だから”愛”しか望まない。