東大阪市加納 日蓮宗 妙政寺のブログ〜河内國妙見大菩薩、安立行菩薩、七面大天女、鬼子母神を祀るお寺!

HPからブログに移行し、ちょっと明るい雰囲気です。仏事、納骨、永代供養のご相談、どうぞお申し出ください。

がたろうの涙

2016-11-17 22:28:51 | 河内國の昔話
こんばんは。

今回は河内の昔話ではなく、河内の土壌を踏まえての私の創作です。

 河内平野を南から北に流れ、大東市で西に向きを変える恩智川は、大東市住道で寝屋川と合流する。昔から暴れ川で、たびたび氾濫を起こしては周辺住民を悩まし続けた。しかし普段は優しく緩やかな流れで流域の水田を豊かに潤していた。

 かつて中河内は水郷地帯だった。今も水路の跡があちこちに残されている。高度経済成長の波が、この農村地域にも押し寄せてきたのは昭和30年代の後半である。農地は埋められ工場誘致の土地に利用され、水路は道路に様変わりした。のどかな農村風景は一変した。流域周辺の田畑を潤してきた美しい恩智川に工場からの廃液が大量に流れ込むようになった。豊かな生命の源でもあった恩智川は、またたく間に白い泡を浮かべ、異臭を放つ「死の川」となった―




 わたしは河内の民話を収集している。今日は呼吸器科の病院に行くついでに、瓢箪山あたりの旧い道標を見て回っていた。  

 正午も少し過ぎた頃、わたしはグランドマジェスティー(グランマ)に乗って恩智川の土手を走っていた。風は爽やかで眩しい。あまりの心地よさに、わたしはグランマを停めて、土手に設置されたベンチに腰掛けて、やがてうとうとし始めていた。

 どのくらい経ったろうか、ふと気づくと私の隣に小柄な男が座っていた。いやそれは男に見えた、と言ったほうが正しい。人ではない・・・間違いなく。
「彼」はわたしの動揺を見透かしたかのように、ゆっくりとこちらに顔を向けた。「彼」の正体は河童だった。
「われ、この辺の民話を探し集めてるらしいのぉ」
目をむき出し、大きな口を開く姿に恐怖を感じながらも、わたしは目をそらさずに黙って頷いた。
「ほぉ・・・そんならおれの名前ぐらい知ってるやろ。言うてみぃ」
「が、がたろ」
がたろの目が妖しく光ったように見えた瞬間、意識がふっと遠のくような感じがして、わたしは慌ててベンチに手を置いて身体を支えようとした。
(!)
自分は確かにベンチに腰掛けていたはずだった。しかし、身体を支えようと手をついたのは、土手に生えた草の上だった。
目の前の光景が変わっていた。コンクリートの固められた恩智川の土手ではなく、草や木の生い茂った岸辺の風景は、それこそ空知川の岸辺にでもいるような光景だった。

「がたろ!これは」
がたろはわたしに一瞥をくれただけで、じっと恩智川の流れをみつめていた。
子供の声が聞こえる。声のほうを振り返ってみたわたしは、頭がおかしくなりそうだった。土手の後ろにあったはずの大型スーパーも、住宅街や工場街も何もない。一面に真っ青な水田が広がっている。田のあぜ道を子供たちがこちらに向かって走ってくるのが見える。どの子も袖と裾の短い木綿の着物を着ている。

 いつの間にかがたろは姿を消していた。子供たちは恩智川の土手を越え、川べりで水遊びを始めた。誰も私の存在には気づかないようだ。声をかけても誰もこちらを振り向きもしない。しかし子供たちの表情は底抜けに明るい。わたしは心がだんだん軽くなっていくのを感じていた。時を忘れ、わたしはいつまでも子供たちの姿を見つめていた。
 陽が西に傾き始めた。野良仕事をしている親が子供を呼ぶ声がする。やがて子供たちの姿が川べりから消えていった。隣には再びがたろが座っている。今度は驚かなかった。
 キュウリが川面を流れてきた。がたろはクェクェと奇妙な声をあげて川に飛び込むと、キュウリを咥えて土手に戻ってきた。
「恩智川に棲む河童のためにキュウリを流しよんねん」
「子供たちの安全のために?」
「ああ、そうや。でも俺、べつに子供の生ギモ喰うわけやないねんぞ。そんなんするっけぇ」
「でもこのキュウリは有り難い…」
「くぇくぇくぇ」
がたろは嬉しそうにキュウリをかじりながら、恩智川にかかる橋を指差した。昼前にグランマで渡ってきた立派な橋は、小さな石橋に姿を変えていた。農婦が油揚げや米を橋のたもとに置いて行った。
「キツネ?」
「そうや。ああしてな、橋の下に棲んでるキツネに供養しとんのんや」
「民話の収集をしていると色々な話を聞くけど、ほんまにキツネに供養してたんや」
不思議な気分だった。もう子供たちが家路に向かって随分時間が経つのに、陽は未だに暮れないでいる。がたろは昔からの知り合いの村の古老や語り部のようにも思えてきた。
「われ、たかたかぼうずは知ってるけ」
「ああ、加納村ではおかげ灯篭の近くによく出たってきくけど」
「正体、知ってんねんや」
「うん、タヌキやろ」
「まぁな。でもムジナやなぁ、あいつは。すっ呆けたムジナや」

空襲警報が鳴った。そんなバカな話はない。自分の頭の中が整理できなくなってきた。いったい自分はどこにいるんだ!
(B-29・・・・・・・・・大阪大空襲・・・!!)

クワァ、クワァ。
がたろが悲鳴のような叫び声を上げている。
クワァ、クワァ・・・クワァ、クワァ・・・

「がたろ!がたろ!」
わたしはがたろの体を抱きしめた。間違いなくがたろは存在している。わたしはしっかりと「彼」を抱きしめた・・・・・・

 次の瞬間恐ろしい雨風が襲ってきた。立ち上がることも出来ない。必死になって土手にしがみついていた。嵐がやんで辺りの風景を見て愕然とした。加納村の大半が水に浸かっている。
(これは第2室戸台風と違うのか・・・・・・)
わたしはがたろを見た。がたろが泣いている。
恩智川の岸辺はコンクリートに塗り固められ、工場から出る廃液で凄まじい異臭を放っている。
「がたろ・・・」
がたろの姿が朧になってきた。わたしにはその理由が分かる。痛いほどに。がたろはそれでもはっきりとこちらを見て、ゆっくりと顔を南に向けた。そこには阪神高速道路の高架が見える。西に向けると高層住宅の立ち並ぶ大阪の街並みである。
「われ、いま、ほんまに満足してるけ?これがお前らが求めた幸せな世界か?」
わたしは何も言えなかった。
「俺ら河童はな、たしかにお前等人間の想像で生まれた妖怪や。見てみぃ、この川!誰が俺らを想像する、ええ!俺らは想像の世界からも住む場所を奪われたんや。分かるか、この悲しみ、この恨みを。俺は絶対にお前等人間をゆるさへん」
そう言うとがたろは姿を消した。

 気がつくとわたしは恩智川のベンチに腰掛けている。グランマはすぐ横にある。時計を見た。数分も経っていない。けたたましいクラクションを鳴り響かせてトラックが橋を渡っていった。



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妙政寺の歴代住職紹介

2016-11-12 20:34:05 | 妙政寺の歴代住職
こんばんは。

実はこの記事も含めて妙政寺の紹介記事はすべて一昨年に発行した「妙政寺150年史」に収めたものです。
JCOMのホームページサービスが終了するので18年前から続いたホームページを閉鎖することになります。それでこのブログの中でカテゴリー分けをしてホームページ的に存続を図っている分けです。
来年からプロバイダーを変更して新たにホームページを作成するかもしれませんが、今のところはこちらで対応する予定です。

さて妙政寺の歴代住職の紹介をいたします。
お写真のある方は掲載させていただきます。

妙政寺は「妙見堂」として慶應元(1865)年中の開創。谷町・本政寺第22世 順妙院日實上人により「河内一心講」を母体として開創されました。但し、「河内一心講」の実体は不明です。ただ、当時の加納村(川田地区を含む)には少なくとも浄土系寺院が5か寺存立する念仏信仰の土壌であり、そうした宗教的土壌に妙見信仰を介した法華信仰集団である「河内一心講」が江戸後期から末期に存在し、この地に妙見堂を建立したということは紛れもない事実です。

開山順妙院日實上人は※鶏冠井檀林(かいでだんりん)の349世であり、当代一流の学匠であったこと、また中世・近世を通じて河内には法華基盤が脆弱であったことから、日實上人が妙見信仰として出来上がった「河内一心講」を法華信仰集団に導いたのではないかと推測します。当地にも微少ながらも法華信仰者がいたことが當山過去帳から窺い知れます。日實上人の河内布教にはそうした信仰者からの要請があったのかもしれません。
 このコーナーでは「妙見堂」から妙政寺までの10人・11代のお上人を紹介いたします。お写真の残る方は、お写真も掲載いたします。
【妙政寺歴代上人】
・ 開 基 順妙院日實上人
    鶏冠井檀林349世化主。
玄能四66世。
    伏見法性寺より谷町本政寺22世。世名英式
明治16年10月10日遷化。63歳

・  2世 春妙院日慈法師
    明治41年4月15日遷化。

・  3世 龍信院日行法師
    大正14年3月10日遷化。世名浅井熊次郎。76歳

・  4世 春静院日応法師
    大正11年4月25日遷化。 
  
・  5世 勝根院日養法師
    昭和13年7月10日遷化。世名桑田 英賢

・  6世 香雲院日鳳上人 


    中興。宗教法人格を取得。
    宗教法人日蓮宗妙政寺を公称
    谷町本政寺27世。
    平成5年2月22日遷化。世名馬場 英龍 僧正

・  7世 妙信院日善法尼
    昭和36年3月4日遷化。世名徳田 智順。

・  8世 慈妙院日中上人


    深草・元政上人の研究で知られる。歌人でもあり歌集も刊行されている。
當山高祖七百遠忌を奉行。世名田中 慈妙 大僧都

・  9世 中道院日行上人


    當山高祖御降誕七五〇年を奉行。
退寺後、高松妙法寺六世を継承。世名田中 慈孝 大講師

・  10世 慈妙院日中上人(再)
    8世再住。高松妙法寺5世。平成16年1月1日遷化
      
・ 11世 玉慈院日情(現住職)


    平成6年7月住職認証。
   平成23年5月より日蓮宗大阪市宗務所長就任。
   枚方市慈光教会担任を兼務。 世名松井 英光 大僧都

 妙政寺には歴代廟がありません。開基順妙院日實上人から六世香雲院日鳳上人の間の二世~五世は法師号で上人号ではありません。おそらく堂守として居住されておられたのでしょう。現在、加納川田墓地に勝根院日養法師のお墓と、その横に妙政寺歴代と記されたお墓があります。

鶏冠井檀林(かいでだんりん)
檀林は仏教寺院における僧侶の養成機関をいいます。日蓮宗では室町時代末期から江戸時代前期にかけて、関東・関西に多くの檀林が誕生します。
鶏冠井檀林は京都府向日市にある北真経寺に置かれました。妙政寺は奠師法縁に属しますが、法縁という組織は簡単に申しますと、この檀林をベースにした学閥のようなものですかね。
日蓮宗の檀林は江戸時代には関東八檀林・関西六檀林がありましたが、明治の学制発布により廃檀となりました。現在の立正大学は関東三大檀林のひとつ「飯高檀林」が前身となっています。


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妙政寺の成り立ち

2016-11-10 23:10:51 | 妙政寺の歴史
こんばんは。

ちょっと外部から繋いでます。

昨日も今日も寒い寒い。

さて、妙政寺の成り立ちについて今のところわかっていることを報告いたします。

 妙政寺は慶應2年の創建となっておりますが、これは門を入って左側にある石灯籠に刻まれた年号により開創年を慶應2年正月と定めたようです。
 



 実際に石灯籠が創建と同時に奉納されたとしても、妙政寺の母体である法華信仰の講「河内一心講」がすでに完成していなければなりません。
 妙政寺には二つの過去帳があり、そのひとつには江戸時代の前半年代から戒名が残されており、寛永元年12月13日一性院宗玄日感居士 小山九兵ヱ・小山氏一世とあります。ところが、元禄6年11月18日に理融院妙玄日真大姉が小山氏一世妻とありますので、夫と妻の死に70年の差があるのは少し疑問が生じてまいります。ここで問題なのはふたつの過去帳の記載内容の相違です。現在導師席の前にある過去帳は田中慈妙上人の代から使用されている過去帳です。もちろんそれ以前のお戒名はもうひとつの過去帳の内容とあわせて記載されるはずなのです。にもかかわらず、馬場英龍上人以前の過去帳には小山氏一族の記載が一人しかないのです。しかも字体から判ずるに、これも田中上人によって書き加えられたものです。

 推測するに、おそらく小山氏は田中上人の代になって妙政寺と関係の出来た御信者さんで、旧い家柄の方であったと思われます。田中上人が信者さんとしてお参りする中で、過去帳に小山家の歴代を記載したのではないでしょうか。あくまでもわたしの推測の域を出ません。


 そうすると妙政寺の過去帳のお戒名の中にみえる「日蓮宗当村の先士」という添え書きがある智徳院道風日香信士(俗名不明)が、江戸時代末期において「河内一心講」の中心人物として、妙見堂建立に尽力されたと考えてよいのではないかと思われます。戒名に使われている文字から、現在の檀家さんの中でこの家ではないかと思われる節もあるのですが、残念ながらそのお家に残されている過去帳では確認ができませんでした。
 こうしてみると妙政寺の歴史は150年ですが、わずか150年の寺の歴史が実は正確に伝わっていないということが分かってまいります。
 と、この記念誌がほぼ完成に近づいた頃“日蓮宗当村の先士”が判明しました。調べてみるものです。大字氷野・辻田とありました。三箇・善遠寺さまに辻田氏の関係者がいらっしゃいます。




一昨年、開創150年を迎えるにあたり、今後の妙政寺の歴史を刻んでいくためにも、出来うる限りの資料を用いて、少しでも事実に近い妙政寺の成り立ちを残したいという思いで、まとめさせていただきました。
この記述は開基上人よりわたくしに至るまで10人の住職とお檀家さん、ご信者さんと一緒に繋いできたこのお寺の成り立ちの書でもあります。
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よく利用する近所の美味しい和洋菓子のお店

2016-11-07 21:30:29 | ご近所のオススメ情報
こんばんは。

今日はわたしが一番よく利用する近所の和洋菓子店さんの紹介です。

五條堂さんといいます。
妙政寺からは徒歩圏内です。

法要や年中行事の折、また遣い物にと幅広く利用しています。



和菓子はお父様が、洋菓子は娘さんが担当されています。



洋菓子といっても、和の趣向が凝らされたお菓子で、とても美味しいんです。
時々、テレビの情報番組でも紹介されてたりします。



《五條堂》
大阪府東大阪市東鴻池町1-5-7
営業時間09:00~20:00
火曜日定休




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河内國の昔話 「たかたかぼうず」

2016-11-05 22:32:45 | 河内國の昔話
はい、こんばんは。

今朝は冷えました。
朝の6時頃、外の温度計は7℃でしたよ。寒いはずです。

さて、妙政寺のお檀家さんに民話の語り部がいらっしゃいます。その方が纂集されたお話も紹介していこうと思います。


「たかたかぼうず」

 加納村の宇波神社の参道を100メートルほど南へ行くと道の東側におかげ灯ろうが建てられています。おかげ参りと言って、60年を周期とするお陰年に、伊勢神宮に参拝すると特別なご利益が与えられると信じられ、文政13(1830)年に、村人が集団でお参りした記念と、村をお守りしてくださる伊勢神宮の御神霊に、灯明をお供えする意味で建造されたのです。この灯ろうの東には深い井戸があって、わきに太い松の木が、灯ろうを覆うように枝を伸ばしていました。




 ある冬の夜のことです。神社と灯ろうとの間を東に入った小さな家の、おもよさんという娘のおかあさんが、高い熱を出して苦しみだしました。踏み車を毎日踏み続けて川に水を入れなければならなかった日照りの夏も過ぎ、稲のとり入れも終わりほっとしたのが原因のようです。
 昼過ぎから苦しみだしたおかあさんの頭を冷やしたり、身体をなぜさすったりと、おもよさんは一心に看病しました。でも、夜になっても少しも熱がひかず、苦しむおかあさんの姿に「嫁入り用やから、これだけは使ってはいかんと言われてたけど、森先生の所で薬を買って飲まそう」とお金の入った巾着を握って飛び出しました。冬の夜風は冷たくほおをさします。どの家も雨戸を閉ざして寝しずまっています。

 おかげ灯ろうの西には枯れたススキが、かさこそと何かがひそんでいるような気配を感じさせますが、熱で苦しむおかあさんのことを思うとどんな怖いことでも耐えようと急ぎました。
 森先生の門をたたき、薬をわけてもらったおもよさんは、ほっと息をつぎました。ていねいに礼をのべ薬袋を左手で押さえつつ家に向かって駆けだしました。ちょうちんの火が揺れるたびに消えそうになります。「火が消えたらあかん」と、ふっと立ちどまりました。そこがちょうどおかげ灯ろうの前だったのです。ちょうちんの火は静かに明るさをとりもどしました。
「よかったなー」
ぼそっとつぶやいたおもよさんは、あたりにただよう異様な気配に頭を上げました。するとどうでしょう。大きな灯ろうのかさのところに、白い着物のそでをたらしたたかたかぼうずが大きな口を開き、舌を出して笑っていたではありませんか。
「ギャッ」
奇妙な声を発しておもよさんは横っ飛びにとびました。藁草履をぬぎ捨てたのも意識にありませんでした。どんなに恐ろしかったことでしょう。でも、だいじなだいじな薬の袋だけは、しっかり胸に入れていました。それから、おもよさんは昼でもおかげ灯ろうの前は通らなかったということです。
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