こんばんは。
今回は河内の昔話ではなく、河内の土壌を踏まえての私の創作です。
河内平野を南から北に流れ、大東市で西に向きを変える恩智川は、大東市住道で寝屋川と合流する。昔から暴れ川で、たびたび氾濫を起こしては周辺住民を悩まし続けた。しかし普段は優しく緩やかな流れで流域の水田を豊かに潤していた。
かつて中河内は水郷地帯だった。今も水路の跡があちこちに残されている。高度経済成長の波が、この農村地域にも押し寄せてきたのは昭和30年代の後半である。農地は埋められ工場誘致の土地に利用され、水路は道路に様変わりした。のどかな農村風景は一変した。流域周辺の田畑を潤してきた美しい恩智川に工場からの廃液が大量に流れ込むようになった。豊かな生命の源でもあった恩智川は、またたく間に白い泡を浮かべ、異臭を放つ「死の川」となった―
わたしは河内の民話を収集している。今日は呼吸器科の病院に行くついでに、瓢箪山あたりの旧い道標を見て回っていた。
正午も少し過ぎた頃、わたしはグランドマジェスティー(グランマ)に乗って恩智川の土手を走っていた。風は爽やかで眩しい。あまりの心地よさに、わたしはグランマを停めて、土手に設置されたベンチに腰掛けて、やがてうとうとし始めていた。
どのくらい経ったろうか、ふと気づくと私の隣に小柄な男が座っていた。いやそれは男に見えた、と言ったほうが正しい。人ではない・・・間違いなく。
「彼」はわたしの動揺を見透かしたかのように、ゆっくりとこちらに顔を向けた。「彼」の正体は河童だった。
「われ、この辺の民話を探し集めてるらしいのぉ」
目をむき出し、大きな口を開く姿に恐怖を感じながらも、わたしは目をそらさずに黙って頷いた。
「ほぉ・・・そんならおれの名前ぐらい知ってるやろ。言うてみぃ」
「が、がたろ」
がたろの目が妖しく光ったように見えた瞬間、意識がふっと遠のくような感じがして、わたしは慌ててベンチに手を置いて身体を支えようとした。
(!)
自分は確かにベンチに腰掛けていたはずだった。しかし、身体を支えようと手をついたのは、土手に生えた草の上だった。
目の前の光景が変わっていた。コンクリートの固められた恩智川の土手ではなく、草や木の生い茂った岸辺の風景は、それこそ空知川の岸辺にでもいるような光景だった。
「がたろ!これは」
がたろはわたしに一瞥をくれただけで、じっと恩智川の流れをみつめていた。
子供の声が聞こえる。声のほうを振り返ってみたわたしは、頭がおかしくなりそうだった。土手の後ろにあったはずの大型スーパーも、住宅街や工場街も何もない。一面に真っ青な水田が広がっている。田のあぜ道を子供たちがこちらに向かって走ってくるのが見える。どの子も袖と裾の短い木綿の着物を着ている。
いつの間にかがたろは姿を消していた。子供たちは恩智川の土手を越え、川べりで水遊びを始めた。誰も私の存在には気づかないようだ。声をかけても誰もこちらを振り向きもしない。しかし子供たちの表情は底抜けに明るい。わたしは心がだんだん軽くなっていくのを感じていた。時を忘れ、わたしはいつまでも子供たちの姿を見つめていた。
陽が西に傾き始めた。野良仕事をしている親が子供を呼ぶ声がする。やがて子供たちの姿が川べりから消えていった。隣には再びがたろが座っている。今度は驚かなかった。
キュウリが川面を流れてきた。がたろはクェクェと奇妙な声をあげて川に飛び込むと、キュウリを咥えて土手に戻ってきた。
「恩智川に棲む河童のためにキュウリを流しよんねん」
「子供たちの安全のために?」
「ああ、そうや。でも俺、べつに子供の生ギモ喰うわけやないねんぞ。そんなんするっけぇ」
「でもこのキュウリは有り難い…」
「くぇくぇくぇ」
がたろは嬉しそうにキュウリをかじりながら、恩智川にかかる橋を指差した。昼前にグランマで渡ってきた立派な橋は、小さな石橋に姿を変えていた。農婦が油揚げや米を橋のたもとに置いて行った。
「キツネ?」
「そうや。ああしてな、橋の下に棲んでるキツネに供養しとんのんや」
「民話の収集をしていると色々な話を聞くけど、ほんまにキツネに供養してたんや」
不思議な気分だった。もう子供たちが家路に向かって随分時間が経つのに、陽は未だに暮れないでいる。がたろは昔からの知り合いの村の古老や語り部のようにも思えてきた。
「われ、たかたかぼうずは知ってるけ」
「ああ、加納村ではおかげ灯篭の近くによく出たってきくけど」
「正体、知ってんねんや」
「うん、タヌキやろ」
「まぁな。でもムジナやなぁ、あいつは。すっ呆けたムジナや」
空襲警報が鳴った。そんなバカな話はない。自分の頭の中が整理できなくなってきた。いったい自分はどこにいるんだ!
(B-29・・・・・・・・・大阪大空襲・・・!!)
クワァ、クワァ。
がたろが悲鳴のような叫び声を上げている。
クワァ、クワァ・・・クワァ、クワァ・・・
「がたろ!がたろ!」
わたしはがたろの体を抱きしめた。間違いなくがたろは存在している。わたしはしっかりと「彼」を抱きしめた・・・・・・
次の瞬間恐ろしい雨風が襲ってきた。立ち上がることも出来ない。必死になって土手にしがみついていた。嵐がやんで辺りの風景を見て愕然とした。加納村の大半が水に浸かっている。
(これは第2室戸台風と違うのか・・・・・・)
わたしはがたろを見た。がたろが泣いている。
恩智川の岸辺はコンクリートに塗り固められ、工場から出る廃液で凄まじい異臭を放っている。
「がたろ・・・」
がたろの姿が朧になってきた。わたしにはその理由が分かる。痛いほどに。がたろはそれでもはっきりとこちらを見て、ゆっくりと顔を南に向けた。そこには阪神高速道路の高架が見える。西に向けると高層住宅の立ち並ぶ大阪の街並みである。
「われ、いま、ほんまに満足してるけ?これがお前らが求めた幸せな世界か?」
わたしは何も言えなかった。
「俺ら河童はな、たしかにお前等人間の想像で生まれた妖怪や。見てみぃ、この川!誰が俺らを想像する、ええ!俺らは想像の世界からも住む場所を奪われたんや。分かるか、この悲しみ、この恨みを。俺は絶対にお前等人間をゆるさへん」
そう言うとがたろは姿を消した。
気がつくとわたしは恩智川のベンチに腰掛けている。グランマはすぐ横にある。時計を見た。数分も経っていない。けたたましいクラクションを鳴り響かせてトラックが橋を渡っていった。
今回は河内の昔話ではなく、河内の土壌を踏まえての私の創作です。
河内平野を南から北に流れ、大東市で西に向きを変える恩智川は、大東市住道で寝屋川と合流する。昔から暴れ川で、たびたび氾濫を起こしては周辺住民を悩まし続けた。しかし普段は優しく緩やかな流れで流域の水田を豊かに潤していた。
かつて中河内は水郷地帯だった。今も水路の跡があちこちに残されている。高度経済成長の波が、この農村地域にも押し寄せてきたのは昭和30年代の後半である。農地は埋められ工場誘致の土地に利用され、水路は道路に様変わりした。のどかな農村風景は一変した。流域周辺の田畑を潤してきた美しい恩智川に工場からの廃液が大量に流れ込むようになった。豊かな生命の源でもあった恩智川は、またたく間に白い泡を浮かべ、異臭を放つ「死の川」となった―
わたしは河内の民話を収集している。今日は呼吸器科の病院に行くついでに、瓢箪山あたりの旧い道標を見て回っていた。
正午も少し過ぎた頃、わたしはグランドマジェスティー(グランマ)に乗って恩智川の土手を走っていた。風は爽やかで眩しい。あまりの心地よさに、わたしはグランマを停めて、土手に設置されたベンチに腰掛けて、やがてうとうとし始めていた。
どのくらい経ったろうか、ふと気づくと私の隣に小柄な男が座っていた。いやそれは男に見えた、と言ったほうが正しい。人ではない・・・間違いなく。
「彼」はわたしの動揺を見透かしたかのように、ゆっくりとこちらに顔を向けた。「彼」の正体は河童だった。
「われ、この辺の民話を探し集めてるらしいのぉ」
目をむき出し、大きな口を開く姿に恐怖を感じながらも、わたしは目をそらさずに黙って頷いた。
「ほぉ・・・そんならおれの名前ぐらい知ってるやろ。言うてみぃ」
「が、がたろ」
がたろの目が妖しく光ったように見えた瞬間、意識がふっと遠のくような感じがして、わたしは慌ててベンチに手を置いて身体を支えようとした。
(!)
自分は確かにベンチに腰掛けていたはずだった。しかし、身体を支えようと手をついたのは、土手に生えた草の上だった。
目の前の光景が変わっていた。コンクリートの固められた恩智川の土手ではなく、草や木の生い茂った岸辺の風景は、それこそ空知川の岸辺にでもいるような光景だった。
「がたろ!これは」
がたろはわたしに一瞥をくれただけで、じっと恩智川の流れをみつめていた。
子供の声が聞こえる。声のほうを振り返ってみたわたしは、頭がおかしくなりそうだった。土手の後ろにあったはずの大型スーパーも、住宅街や工場街も何もない。一面に真っ青な水田が広がっている。田のあぜ道を子供たちがこちらに向かって走ってくるのが見える。どの子も袖と裾の短い木綿の着物を着ている。
いつの間にかがたろは姿を消していた。子供たちは恩智川の土手を越え、川べりで水遊びを始めた。誰も私の存在には気づかないようだ。声をかけても誰もこちらを振り向きもしない。しかし子供たちの表情は底抜けに明るい。わたしは心がだんだん軽くなっていくのを感じていた。時を忘れ、わたしはいつまでも子供たちの姿を見つめていた。
陽が西に傾き始めた。野良仕事をしている親が子供を呼ぶ声がする。やがて子供たちの姿が川べりから消えていった。隣には再びがたろが座っている。今度は驚かなかった。
キュウリが川面を流れてきた。がたろはクェクェと奇妙な声をあげて川に飛び込むと、キュウリを咥えて土手に戻ってきた。
「恩智川に棲む河童のためにキュウリを流しよんねん」
「子供たちの安全のために?」
「ああ、そうや。でも俺、べつに子供の生ギモ喰うわけやないねんぞ。そんなんするっけぇ」
「でもこのキュウリは有り難い…」
「くぇくぇくぇ」
がたろは嬉しそうにキュウリをかじりながら、恩智川にかかる橋を指差した。昼前にグランマで渡ってきた立派な橋は、小さな石橋に姿を変えていた。農婦が油揚げや米を橋のたもとに置いて行った。
「キツネ?」
「そうや。ああしてな、橋の下に棲んでるキツネに供養しとんのんや」
「民話の収集をしていると色々な話を聞くけど、ほんまにキツネに供養してたんや」
不思議な気分だった。もう子供たちが家路に向かって随分時間が経つのに、陽は未だに暮れないでいる。がたろは昔からの知り合いの村の古老や語り部のようにも思えてきた。
「われ、たかたかぼうずは知ってるけ」
「ああ、加納村ではおかげ灯篭の近くによく出たってきくけど」
「正体、知ってんねんや」
「うん、タヌキやろ」
「まぁな。でもムジナやなぁ、あいつは。すっ呆けたムジナや」
空襲警報が鳴った。そんなバカな話はない。自分の頭の中が整理できなくなってきた。いったい自分はどこにいるんだ!
(B-29・・・・・・・・・大阪大空襲・・・!!)
クワァ、クワァ。
がたろが悲鳴のような叫び声を上げている。
クワァ、クワァ・・・クワァ、クワァ・・・
「がたろ!がたろ!」
わたしはがたろの体を抱きしめた。間違いなくがたろは存在している。わたしはしっかりと「彼」を抱きしめた・・・・・・
次の瞬間恐ろしい雨風が襲ってきた。立ち上がることも出来ない。必死になって土手にしがみついていた。嵐がやんで辺りの風景を見て愕然とした。加納村の大半が水に浸かっている。
(これは第2室戸台風と違うのか・・・・・・)
わたしはがたろを見た。がたろが泣いている。
恩智川の岸辺はコンクリートに塗り固められ、工場から出る廃液で凄まじい異臭を放っている。
「がたろ・・・」
がたろの姿が朧になってきた。わたしにはその理由が分かる。痛いほどに。がたろはそれでもはっきりとこちらを見て、ゆっくりと顔を南に向けた。そこには阪神高速道路の高架が見える。西に向けると高層住宅の立ち並ぶ大阪の街並みである。
「われ、いま、ほんまに満足してるけ?これがお前らが求めた幸せな世界か?」
わたしは何も言えなかった。
「俺ら河童はな、たしかにお前等人間の想像で生まれた妖怪や。見てみぃ、この川!誰が俺らを想像する、ええ!俺らは想像の世界からも住む場所を奪われたんや。分かるか、この悲しみ、この恨みを。俺は絶対にお前等人間をゆるさへん」
そう言うとがたろは姿を消した。
気がつくとわたしは恩智川のベンチに腰掛けている。グランマはすぐ横にある。時計を見た。数分も経っていない。けたたましいクラクションを鳴り響かせてトラックが橋を渡っていった。