東大阪市加納 日蓮宗 妙政寺のブログ〜河内國妙見大菩薩、安立行菩薩、七面大天女、鬼子母神を祀るお寺!

HPからブログに移行し、ちょっと明るい雰囲気です。仏事、納骨、永代供養のご相談、どうぞお申し出ください。

妙政寺の成り立ち

2016-11-10 23:10:51 | 妙政寺の歴史
こんばんは。

ちょっと外部から繋いでます。

昨日も今日も寒い寒い。

さて、妙政寺の成り立ちについて今のところわかっていることを報告いたします。

 妙政寺は慶應2年の創建となっておりますが、これは門を入って左側にある石灯籠に刻まれた年号により開創年を慶應2年正月と定めたようです。
 



 実際に石灯籠が創建と同時に奉納されたとしても、妙政寺の母体である法華信仰の講「河内一心講」がすでに完成していなければなりません。
 妙政寺には二つの過去帳があり、そのひとつには江戸時代の前半年代から戒名が残されており、寛永元年12月13日一性院宗玄日感居士 小山九兵ヱ・小山氏一世とあります。ところが、元禄6年11月18日に理融院妙玄日真大姉が小山氏一世妻とありますので、夫と妻の死に70年の差があるのは少し疑問が生じてまいります。ここで問題なのはふたつの過去帳の記載内容の相違です。現在導師席の前にある過去帳は田中慈妙上人の代から使用されている過去帳です。もちろんそれ以前のお戒名はもうひとつの過去帳の内容とあわせて記載されるはずなのです。にもかかわらず、馬場英龍上人以前の過去帳には小山氏一族の記載が一人しかないのです。しかも字体から判ずるに、これも田中上人によって書き加えられたものです。

 推測するに、おそらく小山氏は田中上人の代になって妙政寺と関係の出来た御信者さんで、旧い家柄の方であったと思われます。田中上人が信者さんとしてお参りする中で、過去帳に小山家の歴代を記載したのではないでしょうか。あくまでもわたしの推測の域を出ません。


 そうすると妙政寺の過去帳のお戒名の中にみえる「日蓮宗当村の先士」という添え書きがある智徳院道風日香信士(俗名不明)が、江戸時代末期において「河内一心講」の中心人物として、妙見堂建立に尽力されたと考えてよいのではないかと思われます。戒名に使われている文字から、現在の檀家さんの中でこの家ではないかと思われる節もあるのですが、残念ながらそのお家に残されている過去帳では確認ができませんでした。
 こうしてみると妙政寺の歴史は150年ですが、わずか150年の寺の歴史が実は正確に伝わっていないということが分かってまいります。
 と、この記念誌がほぼ完成に近づいた頃“日蓮宗当村の先士”が判明しました。調べてみるものです。大字氷野・辻田とありました。三箇・善遠寺さまに辻田氏の関係者がいらっしゃいます。




一昨年、開創150年を迎えるにあたり、今後の妙政寺の歴史を刻んでいくためにも、出来うる限りの資料を用いて、少しでも事実に近い妙政寺の成り立ちを残したいという思いで、まとめさせていただきました。
この記述は開基上人よりわたくしに至るまで10人の住職とお檀家さん、ご信者さんと一緒に繋いできたこのお寺の成り立ちの書でもあります。
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比較してみます

2016-11-03 23:43:35 | 妙政寺の歴史
こんばんは。

今日はお会式法要2カ所出仕です。
正午から大東市三箇の善遠寺さんのお会式、続いて午後2時から北区の日蓮本宗の円頓寺さんでお会式出仕。
円頓寺さんは門下懇話会の理事長寺院です。
阪神高速の工事渋滞を考えてバイクで移動。
無事に法要出仕ができました。といってもわたしは総合司会者の役だったんですが。

さて前回の記事では昭和初期の画像を掲載しなかったので、現在の状況との比較ができませんでした。

これが昭和5年頃の写真です。
現在の写真と比較してみましょう。
写真はクリックしていただくと大きくなります。






90年近く経ってますが、全く変わりません。
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妙政寺の変遷

2016-11-01 22:35:16 | 妙政寺の歴史
こんばんは。

秋の深まりをひしと感じております。
今日は奈良の富雄にお参りに行くのにバイクで参りました。
阪奈道路で生駒山を超えるわけですが、寒っ!と思うような瞬間がありましたよ。

以前お話しした石灯籠。妙政寺に残る最も古い証言者です。



慶應2年正月という石灯籠の刻文ですから、お堂は少なくとも前年暮れには建立されていることになります。
 
 「妙見堂」は現在の場所ではなく、今の加納2丁目9番地にある精米所の東側にあったとされています。
 妙政寺の西側を走る北行一方通行道路の遊歩道入り口に、加納村の古地図が掲示されています(もはやかなり読み取れなくなっていますが)。この古地図には妙見堂の位置が記されています。
 では「妙見堂」が現在の位置に移転したのはいつなのでしょう。ここで妙政寺に現存する石碑・石塔に刻まれた年号からお話を進めて行こうと思います。


 まずは妙政寺のある敷地ですが、これについては昭和2年10月に寄付と刻まれた石碑が、門を入って左脇に建っています。土地の寄付者として西川謹五郎・吉田幸太郎のおふたりの名前が刻まれております。


 次に移転後の本堂の建立ですが、これも年月日の正確な記述が遺されていません。現在地に移転した「妙見堂」の落慶法要後の写真には門扉が写っていますが、この門に刻まれているのは昭和5年9月となっております。


新たな「妙見堂」が現在地に移転したのは昭和5年と考えてよろしいかと思います。この門扉の寄進者として中本伊之吉・西川謹五郎・吉田幸太郎・正地幸一・西川サダ・古川サダのお名前が刻まれています。
 「妙見堂」は第八世馬場英龍上人の代、昭和25年に宗教法人日蓮宗妙政寺として寺号公称を得ました。
 門前に妙政寺の山号と寺号を刻んだ石碑が建っています。昭和26年10月に建碑されたものです。武田竹次郎・武田保吉・武田米造・武田末造の寄進と刻まれております。


まことに残念なのは移転前の資料が存在しないことですね。

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妙政寺の紹介

2016-10-25 09:35:48 | 妙政寺の歴史
お早うございます。

秋が一気にやってきました。
妙政寺の玄関前の金木犀が甘い香りをいっぱい漂わせています。

加納村は金木犀を植えているお家が多いです。
これには一つの理由があるんですけどね。

さて、妙政寺はもともと「妙見堂」と呼ばれ、加納村のほぼ中心に存在しました。
昭和の初めに本格的なお寺として、現在地に土地の寄進を受け、移転再建築されました。本堂の木材は「妙見堂」当時のものがそのまま使われています。
移転の折、落慶式の集合写真ですね。



創建から150年経ちましたので、一昨年に妙政寺150年誌という小冊子を作成しました。
まだまだ調べなければならないことがたくさんあります。たかだか150年前のことがよくわからないのです。


(石灯篭)

妙政寺の創建年代を語る唯一の証人なんです。

慶應2(1866)年春、とあります。ほとんど読めません。妙見堂が創建されたと同時に奉納されたのか、その後なのか。慶應2年春に創建と同時に奉納されたとしても、その前提である妙見講なり法華講が存在せねばなりません。河内一心講が母体であるとは聞いていますが、その正体がわかりません。残念です。でも少しづつ、近づいていこうと思います。
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初めまして、妙政寺です!

2016-10-24 13:12:12 | 妙政寺の歴史
妙政寺です。

18年前から公式ホームページを開設していたのですが、プロバイダーがホームページサービスを終了するというアナウンスがありましたので、ブログを開設しました。
カテゴリーに分けてお寺の紹介をしていきたいと思います。

今回はまず妙政寺のことを紹介させていただきます。


妙政寺のこと

「ここのお寺は日蓮宗です。妙見宗ではありません」、といくら申し上げても「妙見さん」。お檀家さんまで「妙見さん」。この地域では多くの方が日蓮宗のお寺であり、また檀家であるという意識がありません。かなわんなぁ。

ここではちょこっと妙政寺のことを紹介させてもらいます。

【妙見信仰と河内一心講】

日蓮宗には妙見大菩薩を奉安する寺院が多いんです。これは祖師(日蓮大聖人)が妙見大菩薩との関わりを示す話が多いことによるとされています。日蓮宗の檀越で中世において現在の千葉県一帯を領有していた千葉氏も妙見信仰に篤い一族として知られていますね。妙見大菩薩は北辰尊星妙見大菩薩と呼ばれ、千葉一門が興した「北辰一刀流」も妙見信仰から名付けられたものなんです。また葛飾北斎も妙見信仰が篤く、その名もやはり北辰から取ったものだといわれているんですよ。

 関西には妙見大菩薩を祀る社寺が多く存在します。能勢妙見は日蓮宗真如寺の奥の院なんです。社寺と表現しましたが、妙見宮として神社で有名なのは交野市妙見宮でしょうか。明治初頭の廃仏毀釈運動の中で、菩薩として奉安できず神社に形態を変えたものも多いようです。

 さて、妙政寺の母体となったのは「河内一心講」だといわれています。しかし、「河内一心講」の実体はよく分かっていないんですよね。ただ分かるのは、当時の加納村(現川田地区を含む)には少なくとも5か寺あって、浄土真宗4か寺・融通念仏宗1か寺という念仏王国であり、そういう土壌に妙見信仰を介した法華信仰集団である「一心講」が幕末に存在し、この地に妙見堂を建立したということなんです。

 もちょっと、時間かけて調べましょうかねぇ。



(妙政寺の妙見大菩薩像。甲冑姿です。いつ頃のものなのでしょう。厨子には大正8年とあります。妙見さんはもっと古そうですよ)
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