東大阪市加納 日蓮宗 妙政寺のブログ〜河内國妙見大菩薩、安立行菩薩、七面大天女、鬼子母神を祀るお寺!

HPからブログに移行し、ちょっと明るい雰囲気です。仏事、納骨、永代供養のご相談、どうぞお申し出ください。

平成28年度日蓮大聖人報恩御会式

2016-10-29 23:26:14 | 妙政寺の年中行事
こんばんは。

少し冷えますね。日中は暖かかったのですが、夕方以降気温が下がってきました。

さて今日は妙政寺では高祖日蓮大聖人御入滅報恩お会式法要を勤めました。

例年は10月の第4土曜日なのですが、今年は師父の七回忌法要と重なりましたので、1週間ずらしました。

午後2時からの開式です。
今年は当日欠席の方が例年よりも多く、ちょっと寂しい法要になってしまいました。

さらに今日は午後6時から谷町の事務所で管区の伝道企画会議もあって、後片付けは女房に任せたまま出掛けました。

午後8時半に帰着。
本堂に明かりが点いています。
「お帰りなさい。いま片付けが終わったところ。おなかすいたね。ご飯食べよう」
と女房の笑顔です。






手作りの万灯です。




日蓮宗のお会式には御会式桜が必須です。
旧暦の10月13日、日蓮大聖人がお亡くなりになった折、池上宗仲の屋敷の桜がにわかに咲いたことが謂れになっています。



ネットで探した造花の桜です。
然程高価ではないのですが、かなり本物っぽい品でしたので迷わず購入しました。
もう少し増やしたいけど、あまり多くても騒がしくなりますので難しいです。
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妙政寺の紹介

2016-10-25 09:35:48 | 妙政寺の歴史
お早うございます。

秋が一気にやってきました。
妙政寺の玄関前の金木犀が甘い香りをいっぱい漂わせています。

加納村は金木犀を植えているお家が多いです。
これには一つの理由があるんですけどね。

さて、妙政寺はもともと「妙見堂」と呼ばれ、加納村のほぼ中心に存在しました。
昭和の初めに本格的なお寺として、現在地に土地の寄進を受け、移転再建築されました。本堂の木材は「妙見堂」当時のものがそのまま使われています。
移転の折、落慶式の集合写真ですね。



創建から150年経ちましたので、一昨年に妙政寺150年誌という小冊子を作成しました。
まだまだ調べなければならないことがたくさんあります。たかだか150年前のことがよくわからないのです。


(石灯篭)

妙政寺の創建年代を語る唯一の証人なんです。

慶應2(1866)年春、とあります。ほとんど読めません。妙見堂が創建されたと同時に奉納されたのか、その後なのか。慶應2年春に創建と同時に奉納されたとしても、その前提である妙見講なり法華講が存在せねばなりません。河内一心講が母体であるとは聞いていますが、その正体がわかりません。残念です。でも少しづつ、近づいていこうと思います。
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初めまして、妙政寺です!

2016-10-24 13:12:12 | 妙政寺の歴史
妙政寺です。

18年前から公式ホームページを開設していたのですが、プロバイダーがホームページサービスを終了するというアナウンスがありましたので、ブログを開設しました。
カテゴリーに分けてお寺の紹介をしていきたいと思います。

今回はまず妙政寺のことを紹介させていただきます。


妙政寺のこと

「ここのお寺は日蓮宗です。妙見宗ではありません」、といくら申し上げても「妙見さん」。お檀家さんまで「妙見さん」。この地域では多くの方が日蓮宗のお寺であり、また檀家であるという意識がありません。かなわんなぁ。

ここではちょこっと妙政寺のことを紹介させてもらいます。

【妙見信仰と河内一心講】

日蓮宗には妙見大菩薩を奉安する寺院が多いんです。これは祖師(日蓮大聖人)が妙見大菩薩との関わりを示す話が多いことによるとされています。日蓮宗の檀越で中世において現在の千葉県一帯を領有していた千葉氏も妙見信仰に篤い一族として知られていますね。妙見大菩薩は北辰尊星妙見大菩薩と呼ばれ、千葉一門が興した「北辰一刀流」も妙見信仰から名付けられたものなんです。また葛飾北斎も妙見信仰が篤く、その名もやはり北辰から取ったものだといわれているんですよ。

 関西には妙見大菩薩を祀る社寺が多く存在します。能勢妙見は日蓮宗真如寺の奥の院なんです。社寺と表現しましたが、妙見宮として神社で有名なのは交野市妙見宮でしょうか。明治初頭の廃仏毀釈運動の中で、菩薩として奉安できず神社に形態を変えたものも多いようです。

 さて、妙政寺の母体となったのは「河内一心講」だといわれています。しかし、「河内一心講」の実体はよく分かっていないんですよね。ただ分かるのは、当時の加納村(現川田地区を含む)には少なくとも5か寺あって、浄土真宗4か寺・融通念仏宗1か寺という念仏王国であり、そういう土壌に妙見信仰を介した法華信仰集団である「一心講」が幕末に存在し、この地に妙見堂を建立したということなんです。

 もちょっと、時間かけて調べましょうかねぇ。



(妙政寺の妙見大菩薩像。甲冑姿です。いつ頃のものなのでしょう。厨子には大正8年とあります。妙見さんはもっと古そうですよ)
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