さすがの小林白蓮さんでも、如来宣言はしても、大如来宣言はしないらしい。
けれども、「自分は悟りを開いた」というのは、すでに慢心に陥っているのではなかろうか。吉川英治の「平の将門」には、「すべての場合、人間が他の陥穽に落ち入る一歩前というものは、たいがい得意に満ちているものである」と書いてある。
おそらく求道者にとって、「自分は悟った!」と思う瞬間が一番危ないのだろうから、こういう迷いからは極力 . . . 本文を読む
下のコピペで指摘されていることは本当だ。大川隆法が自身の過去を振り返るとき、勉学の話はふんだんにあっても、親友との思い出はほとんど皆無ではないか。
また大川隆法は救世だのと抽象的な人類愛については繰り返し説いても、もっとも身近な肉親の情については積極的に説いているとはいえまい。大川隆法は、他者と親しく交わった経験は少ないのかもしれぬ。
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419 名前:聖杯と剣 . . . 本文を読む