遇合庵主人のブログ PART2

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なぜ「昭和」の歌謡曲なのか?

2020年09月06日 | 昭和歌謡

このブログでは、時々、私の趣味である歌謡曲について、卑見を綴りたいと思います。
「ヒット曲」ではなく、「歌謡曲」と書きました。なぜか。それは、ヒット曲は、例えば一部の若者たちだけに熱狂的に支持されて年配の人たちはほとんど知らない曲でもヒット・チャートの上位にいればヒット曲と言いますが、歌謡曲は、老若男女分け隔てなく大衆に浸透し根付いている曲だからです。私は1970年代・1980年代に子ども時代を送りましたが、その頃は、テレビ・ラジオともに歌番組がたくさんありましたから、幼い子どもにも歌謡曲が浸透してきていました。それが、私の日常でした。例えば、私が幼稚園児だった時、「きょうとにいるときゃ~ しのぶとよばれたの~」と歌って、父からひどく怒られたことを憶えています(当時、神戸に住んでおりましたので、その続きの「こうべじゃ~~」の歌詞も、知ってました)。そして、同じ頃、「かばんにつめこむ けはいがしてる~」の直後に、テレビに向かって、勢いよく野球帽を投げ、やはり、よく怒られていました。ちなみに、この頃のテレビは、チャンネルが手でガチャガチャ回すタイプのものでした。小学生になると、「ゆううつなどふきとばして」を聞き間違え、「ジュースなどふきとばして」と歌いあげ(小2の私は「憂鬱」という言葉を知りませんでした)、ジュースを吹き飛ばしたら、親や他の大人たちに怒られるかも分からんけど、そらぁ、元気が出るし、カッコええやんか、と勝手に思いこんでいました。また、小3のクラス会では、会の最後に全員で「贈る言葉」を歌ったことを憶えており(メロディーは知っているが歌詞が分からん、と言ったら、女子たちが、歌詞を知らない男子たちのために、歌詞カードを作ってくれた、そんな優しい時代でした)、図画工作の時間に作ったオルゴールの音色がやはり「贈る言葉」でした。金八先生が大人気だったのです。そして、小4の時の担任の先生は、休み時間に「このまま~何時間でも~ 抱いていたいけど~」と、よく口ずさんでおられました。でも、この頃の私は、外で遊ぶことが第一でしたし、夜8時には寝ていましたので、意識してテレビの歌番組を視ることはありませんでしたが、それでも、こんなふうに、よく売れた曲は、いつの間にか、歌番組を視なかった幼稚園児・小学生にも届いていたのです。そういう時代でした。
私が歌謡曲に興味を持ち始めたのは、1983(昭和58)年の秋頃から。NHKの「レッツゴーヤング」や賞レースの番組を視たりして、当時の私はすっかり岩井小百合に心を奪われてしまいました(もう37年も前のことか……岩井小百合、めちゃくちゃ可愛かったなぁ)。そして、何よりも毎週、TBSの「ザ・ベストテン」を視るようになり、翌1984(昭和59)年からは、毎週、番組をビデオに録画し、10位から1位まで、曲名・歌手(グループ)名・得点・スポットライトの出演者と曲名を、大学ノートに記録し始めました。1988(昭和63)年4月14日まで記録したそのノートは、今も大切に保存していますが、これについては、後日、紹介することにします。さらに、大晦日のNHK紅白歌合戦も、1984(昭和59)年から毎年欠かさずビデオに録りつつオンタイムで視、ビデオでもテープが擦りきれるくらい視返しました。この年の紅白は、都はるみの引退が話題になりましたが、私は中学生であったにもかかわらず、郷土の星・菅原洋一のすばらしい歌声に魅了されていました(この年は「忘れな草をあなたに」を歌唱)。
一方、この頃から、私はAMラジオのヘビーリスナーとなり、NHK第一の中西竜アナウンサーによる「日本のメロディー」、その直後の午後10時からのABC朝日放送の夜の番組「ABCヤングリクエスト」、深夜の「3時です。もうすぐ夜明けABC」、明け方の「おはよう浪曲」まで、めっちゃ眠かったけど、母に「まだ起きとんか。早よ寝り。」と、出身地の方言で何度も注意されながら、本当によく聴いたなぁ、と思います。私は、部活を終えて学校から帰ったら、晩ごはんとお風呂を済ませると、「ザ・ベストテン」以外の日は、とにかく、自分の部屋に入り浸って、学校の勉強をしながら(?)、常にラジオを聴いておりました。ラジカセで、最新のヒット曲から昭和初期の懐メロまで、これでもか、というくらい録音しました。そのたくさんのカセットテープは、捨てないで今も残してあります(暇を見つけてCD化を計画しています)。このスポンジのように何でも吸収してしまう中高生の時期に、私は歌謡曲漬けになってしまったのです。
ここまで、主に私の中高生時代の歌謡曲遍歴を記してきましたが、私が高校生の時に、大きな出来事が起こりました。昭和天皇が崩御され、昭和が終わり平成が始まるという時代の移り変わりです。実は、歌謡曲は、昭和から平成への移行期を境に、かつての勢いを失い、衰退していった、と私は見ています。というより、当時、私はもう感じていました。私が「ザ・ベストテン」の毎週の順位を記録するのをやめたのは、言葉でうまく表現はできないけれど、何かそれまでとは違って、ランクインする歌の中に心に響いてこない曲が増えてきた、というか、ヒット曲に説得力が無くなってきた、と感じたことによります。久米宏が1985(昭和60)年に「ザ・ベストテン」の司会を降板したのも、「ザ・ベストテン」が1989(昭和64・平成元年)年で終わったのも、日本テレビの「ザ・トップテン」を引き継いだ「歌のトップテン」やフジテレビの「夜のヒットスタジオ」が1990(平成2)年に終わったのも(夜ヒットについては司会の芳村真理の意向が大きかったと言われています)、やはり歌謡曲に何らかの大きな潮目の変化を感じたからなのでしょう。紅白だけは、それらを掬いとるように拡大し、昭和時代は午後9時~午後11時45分の2時間45分の番組でしたが、平成元年に第一部(昭和の紅白)・第二部(平成の紅白)の二部構成で1.5時間ほど拡大してからは、この二部構成の時間帯のまま、平成時代を駆け抜けました。もちろん、平成時代に生み出されたヒット曲も少なくないのですが、私はベースは昭和の歌謡曲だと思って見続けてきました。「津軽海峡冬景色」と「天城越え」が隔年で交互に歌われたり、もう今回で紅白卒業と自ら線を引いた大御所の歌手が「マイ・ウェイ」や「おふくろさん」や「まつり」という昭和の名曲を歌ったことが、そのことをよく示しています。事実、平成時代の紅白で、昭和時代の曲は、たくさん歌われました。以上から、平成時代も昭和時代の歌謡曲がベースにあったと言って、過言ではないのです。
そして、私が、このことを強く確信したのは、なかにし礼の『歌謡曲から「昭和」を読む』(NHK出版新書、2011年12月)を読んでからです。その11ページには、「ところが、歌謡曲の世界が消滅する日がやってきた。……。昭和から平成へと移るころである。」と書かれています。私は、「歌謡曲の世界が消滅」したとは考えてはいませんが、「昭和から平成へと移るころ」に歌謡曲に大きな潮目の変化があったという点では、なかにし礼の見解に、同意しております。そういう意味で、この本は、歌謡曲全盛の昭和の終盤十数年を知り、平成の流行歌の様子を自分なりに視てきた私にとって、自分の立論の一つの拠り所となる貴重な一冊です。
そういうわけで、私がこのブログで綴ろうとしているのが、「昭和」の歌謡曲である理由が、解っていただけたのではないか、と思います。