やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

九州王朝衰退への道(1)

2007-04-11 14:44:32 | 古代史
 622年に「日出でる処の天子」多利思北孤が崩御(三尊像銘では、天子に対する用語「登遐」が使われています)されました。そして翌623年、太子「歌彌多弗の利」が即位されたのでしょう。年号も「仁王」と改元されたのです。
以前の"自立の六世紀(3)"を見てください。そこには多利思北孤の年号「法興」はありません。古田先生は、こう言われます。
……大業三年(607年)に隋へ行った使者は、煬帝に多利思北孤の言葉を伝えた。「聞く、『海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す』と。故に遣わして朝拝し、兼て沙門数十人をして、来りて仏法を学ばしむ』と。」といった。この「重ねて」という意味は「再び」であるから、最初は九州王朝(俀国)の吾が興した…という自負の元での言葉だ。「仏法を興す」の表現は、まさに「法興」であろう。そしてまた、「俀王は天を以って兄となし、日を以って弟と為す。天いまだ明けざる時、政を聴き跏趺して坐し、日出ればすなわち理務を停め、云う『わが弟に委ねん』と。」と言わしめている。この「天いまだ明けざる時」の政に用いた(裏の?)年号が、『法興』である。いわゆるダブル年号である。……
もう一度"自立の六世紀(3)"を見てください。多利思北孤が即位したであろう591年は「端政三年」であり、崩御した622年までに(表の?)年号は五個もあります。しかしこのダブル年号は、一代で終わったようですが…。

 天子「利」になって九年目(仁王九年)に、大業三年(607年、九州年号では光元三年だった)以来の使いを遣わします。当然大陸では隋より唐になり、かつ皇帝も第二代太宗(李世民)になっています。
<貞観五年(631年)、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あはれ)み、所司に勅(みことのり)して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺史(しし。各州に常置され、州内を巡察し政治・軍事を報告する官)高表仁(こう・ひょうじん)を遣わし、節(天子の使いたる徴)を持して往きてこれを撫せしむ。表仁、綏遠の才(すいえんのさい。遠い地方を鎮め安んずる才能)なく、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還る。>(旧唐書倭国伝)
九州王朝倭国の使いは、国書を持参したのでしょう。そこには「天子利」と自署名があった…。しかし唐としては、天子はこの世に二人とあってはならないもの…だったのです。
 表仁はそこを説いたのでしょうが、倭国の王子は「わが九州王朝は南朝の天子を継いだものであり、貴大唐はほ北朝の天子ではないか…」などといったのでしょうか。歴史に想像は禁物ですが、しかし結局は説得が実を結ばず、表仁は朝命を宣べずして還った…と。このあたりから唐の倭国九州王朝を見る目が変わった…と考えても、あながち荒唐無稽な夢想ではないような気がします。
 九州王朝が衰退への道を辿ることは、一方山跡王朝が力をつけ進展していくことでもあります。山跡王朝は、630年に二人の使いを唐に派遣しました。そして632年に高表仁という人物を迎えるのですが、608年に「鴻臚寺の掌客」裴世清を迎えて以来二十四、五年ぶりの唐との接触となりました。後で見てみましょう。

 因みに唐の歴史を記した「旧唐書(くとうしょ)」は、唐が滅びて四十年ほどして上梓された史書で、やはり同時代史書といえます。編者は五代後晋の劉昫らで、高祖の命により945年ころ完成しました。
しかし「旧唐書」は面白い史書で、東夷伝の最後に「倭国伝」と「日本国伝」が並んで立てられているのです。かつそれから百年ほどたった千六十年ころ、史料が散逸していた「旧唐書」を補う目的で「新唐書」が作られました。それで岩波文庫の「中国正史日本伝(2)」には「旧唐書」が採られているのですが、「『新唐書』の…は宋の欧陽修…宋祁のえらんだ…『旧唐書』より数十年後に出来ただけであり、倭国と日本を併記するような不体裁なこともなく、記事もととのっているが…」とあるのです。何故併記されているのか、唐の時代この二国はあったのか…などを深く探求することもなく、ただ「倭国と日本を併記するような不体裁…」でかたずけているのは学問の放棄だ…と古田先生は考えておられるのです。

 「旧唐書倭国伝」の出出しはこうです。
<倭国は、古の倭奴国なり。(その後、魏志倭人伝や隋書俀国伝などと同じような記事が続く)。…>(旧唐書倭国伝)
王統の断絶や都を遷した…などの記録はありません。ずばりと、一世紀後漢の光武帝から金印をいただいた「倭奴国」の後継だ…といっています。この意味は、旧唐書でいう「倭国」は三世紀ヒミカの邪馬壹国の後裔であり、五世紀「倭の五王」の後裔であり、そして隋に使いした阿蘇山のある「俀国」の後裔である…ということです。そしていま倭国は、私たちが「九州王朝」と呼ぶ国なのです。

 では「旧唐書日本国伝」はどうでしょうか。
<日本国は、倭国の別種なり。その国日辺にあるを以って、故に日本を以って名と為す。あるいはいう、倭国自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す、と。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国に地を併(あは)せたり、と。…>(旧唐書日本国伝)
「旧唐書」というのは天子「多利思北孤」や天子「利」がいたころより三百年ほど後に作られていますから、当時十世紀に「日本」と称していた国名の由来が不確かになっていたのでしょう。しかしいま、私たちは知っています。筑紫王朝は五世紀後半、それまで「ゐ」と発音していた「倭」が鮮卑などの北朝の影響が及ぶにつれ「わ」となっていった。それで筑紫倭国自らが、「日本」と称したことを…。そして筑紫王朝の史書に、「日本旧記」と命名したことを…。
しかしいま十世紀の時点、「倭国」はいまは滅んでしまった九州王朝を指し、「日本国」は山跡王朝が列島の主権者になった後の姿であるのです。

 九州王朝が滅んであと、山跡日本が唐に「遣唐使」を派遣したことは、ご承知の通りです。唐の史官らは、新しい国山跡日本をよく知ろうといろいろ使いに尋ねたはずです。ところが…、
<その人(つまり山跡からの使者)、入朝するもの多く自ら矜大(きょうだい。おごりたかぶること)、実(じつ)を以って対(こた)えず。故に中国、これを疑う。…>(旧唐書日本国伝)
千年の間列島の主権者であった九州王朝に代わり、ようやく山跡日本が主権者として認められたのです。「入朝するもの多く自ら矜大…」という態度は、無理なからぬところがありますね。ここでいう「実」とは…、唐側が知っているこれまでの中国と列島の主権者との交流の数々でしょう。山跡の遣唐使は720年に出来たばかりの「日本書紀」で理論武装をして行ったのでしょうから、唐が持っている中国の史書…例えば後漢書・三国志・宋書・梁書などと比べて、どうも本当のことを言っていない…と。それで「故に中国、これを疑う。」となったのでしょう。
やはり「日本書紀」は、近畿天皇家が古よりこの列島の唯一の主権者であった…と主張するイデオロギーの書だったのです。
では戻って、そこに至るまでの道筋、いや歴史を辿ってみましょう。

 さて貞観五年(631年)に九州王朝太宰府に使いした高表仁は、次の年(632年)その東にある山跡へ使いしたようです。しかしこのことは、「旧唐書」にはありません。書紀にあるのです。国交のある国との交渉だけを記録する…という建前からすれば、いまだ山跡は列島の主権者とは認められていなかった、国交は結ばれていなかった…ということがいえます。
<秋八月に、大唐、高表仁を遣わして三田耜(みたすき。大仁犬上君三田耜、舒明二年に使いしていた)を送らしむ。共に対馬に泊れり。…冬十月の…に、唐国の使人高表仁ら、難波津に泊まれり。すなわち大伴連馬食を遣わして、江口(淀川河口、いまの中島あたり)に迎えしむ。船三十二艘及び鼓・吹(ふえ)・旗幡、みな共に整飾(よそ)へり。すなわち高表仁に告げて曰く、「天子(太宗)の命のたまへる使い、天皇の朝に到れりと聞きて迎えしむ」という。時に高表仁、応えて曰く、「風寒(すさまじ)き日に、船艘(ふね)を飾整ひて迎え賜うこと、歓び愧(かしこま)る」ともうす。ここに難波吉士小規……難波吉士八牛を遣わして、客らを引て館に入らしむ。…>(舒明紀四年条、632年)
太宰府で「綏遠の才なく王子と礼を争」ったときと違い、ずいぶんと和気藹々とした様子が見て取れます。翌年の正月に表仁らは帰国しますが、太宗に対する報告は「筑紫の倭王朝は「天子」を称して無礼千万なやからでしたが、東の山跡にある国はわが唐に従順と見ました。万が一倭国と事を構えるようなことになった場合は、遠交近攻…の兵法どおり東の山跡と組むことを進言いたします…」なんてことだったのでしょうか。いや失礼!これも文献にはありませんでした。
このことから九州王朝は唐から次第に疎んじられ始め、山跡は次第に唐に取り入れられるようになったようです。

 通説では、「旧唐書」による貞観五年(631年)の高表仁の(九州王朝への)来訪と欽明紀四年条(632年)の(山跡への)来訪を結び付けていますが、「旧唐書」にある「表仁、綏遠の才なく王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る(5)」をうまく説明できていないようです。岩波文庫「旧唐書」の注記(p36)で、「(5)礼を争ったことは日本の記録にないが、当時の実状としてありそうなことである」と述べています。つまり、「礼を争った王子のことは日本側では不詳。聖徳太子の御子山背大兄王は、当時朝廷に重きをなしておられたから、あるいはそうだったかもしれない」ともいっています。王子と争った話は、本当に山跡でのことでしょうか。

 次回は、半島の史料も交えて紹介します。では…。


2 コメント

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632年に高表仁 (向井 藤司)
2009-08-16 18:09:43
『608年に「鴻臚寺の掌客」裴世清(はいせいせい)を迎えて以来二十四、五年ぶりの唐との接触』というのは
「九州王朝」の七世紀(4)で『(6)鴻臚寺の掌客裴世清(はいせいせい)が山跡へ来たのは、推古紀にいう十六年(608年)ではなく、唐になって国内が落ち着いたころ…623年ころ、つまりこの推古十六年条はほぼ十五年前倒しに挿入しているのではないか。推古紀の記事は、どれも十五年前倒し…ではないようですが…。』とされていることと統一性を欠いています。『ほぼ十五年前倒し』が正しければ『約十年ぶりの唐との接触』という理解でよいのでしょうか。
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家康が知っていた倭国年号 (いしやま)
2013-12-23 10:14:25
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て30年ほど滞在し、日本語教科書を作るため、茶道を含む、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。特に銀山開発には家康はスペインからの技術者導入のために尽力しています。スペイン国王からは難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
興味深いことに、この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、この頃あった、古代からの日本の歴史についての考を知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され其の後に慶雲以後の大和年号が続きます。明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本語研究書と見做され、日本大文典の倭国年号のこの内容は、実物を手に取った人にしか分からない状態になっています、ウィキなどにも倭国年号の存在は記載されていませんので、ぜひ一度手にとってご覧いただければ幸いです。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年「日本紀」 を普通これは「日本書紀」と読み替える約束ですが、読み替えられない、別物という論証がされています。
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