やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

九州王朝衰退への道(2)

2007-04-14 11:46:47 | 古代史
 「旧唐書」の倭国伝をもう少し見てみましょう。
まず、倭国伝です。「高表仁、…朝命を宣べずして還る」のあとです。
<二十二年に至り、また新羅に付し表を奉じて、以って起居を通ず。>(貞観二十二年、648年)
十七年ぶりに、また使いを送ったようです。この年は孝徳四年(大化四年と称しているが、この大化は九州年号(695-700年)である)だそうですが、岩波「旧唐書」の注記(p36)では「この遣唐使のことは日本の記録にはない」としています。まあ、九州王朝の使いですから、書紀に見えないのは当然ですが…。
何のための使いかは分かりませんが、「旧唐書倭国伝」はこれで終ります(帝紀には、654年にまた使いしたことが記されています)。これより十四年後の662年、倭国九州王朝は唐・新羅連合軍と戦い敗れました。そのためこれで終ったのかもしれません。倭国敗戦のようすは、書紀や旧唐書百済伝あるいは三国史記などで見てみます。後で紹介しましょう。

 上記の一年前、孝徳三年条に次の記事があります。
<…新羅、上臣大阿飡(だいあさん)金春秋を遣わして、…来たりて孔雀一隻・鸚鵡一隻を献る(たてまつる。書紀の名文による謂い)。よりて春秋を以って質(むかはり)とす。春秋は、姿顔(かほ)美(よ)くして善(この)みて談笑す。>(孝徳紀三年(大化三年)条、647年)
この金春秋という人はのちに新羅の武烈王となる王子ですが、質などではなく、筑紫九州王朝や山跡を探りに来たのではないでしょうか。一つの傍証ですが、岩波書紀の春秋に対する注記(p305、注23)に、「(春秋は)翌648年、唐に入朝、これより唐と結んで百済・高麗に当たり、朝鮮を統一するという外交路線がしかれた」と書かれてあります。これより新羅は唐服を着用するようになったそうですから、もし百済を攻めれば倭国はどう出るか…などを探ったのかもしれません。上記「旧唐書倭国伝」にあります「新羅に付し…」という意味は、唐に入朝した金春秋に倭国の使いが従っていた…ということでしょうか。(そうだとすれば、少々情けない…。)金春秋は人当たりの良さにも拘らず、したたかな策略をめぐらす策士だったようですね。
 因みに「645年に大化の改新が行われた」と習ってきましたが、学者の研究で「それはうそ…、大化の改新はなかった」と分かってきています。本ブログと直接関係ありませんので、そのあたりは省きます。
しかし「大化」という年号は大和王朝のもの…というのが通説ですが、皆さんはこれは九州年号である…ことをご承知ですね。大化五年のあと孝徳六年(650年)には「白雉」と改元されこれも五年続いたことにされ、それから三十二年後の天武十五年(686年)に突如として半年だけの「朱鳥」が出てきます。この書紀に挿入された三個の九州年号は、例え飛び飛びでも、建元・改元の詔がなくとも、701年以降の大和王朝下において「これを信じない者は死罪…。九州年号も九州王朝はなかったのだ…。あった…という者は死罪…」というほどの威力を持ったのだろう…と古田先生はいわれます。すさまじい九州王朝隠しの執念ですね。通説を信じる方は、その執念に呪われている…。

 筑紫太宰府には653年、百済義慈(ぎじ)王の王子豊章(ほうしょう)が質として来ました。百済としては、東より新羅に圧迫され、西よりは唐に窺われるこのごろ、どうしても筑紫倭国の軍事援助がほしかったのでしょう。
<(義慈)王の十三年(653年)、倭国と好を通ず。>(三国史記百済本紀)
書紀では、二十二年前の631年に来た…としています。
<百済の王義慈、王子豊章を入れて質とす。>(舒明紀三年条、631年)
しかし百済義慈王の即位は641年(舒明十三年)ですから、舒明三年(631年)はまだ即位前になります。ですから百済本記の「倭国と好を通ず」のとき、証しとして豊章が来た…とするほうが納得できます。書紀は九州王朝の史書を盗用し、山跡と百済の交流を早い時期であったと捏造しようとしたのでしょうか。
しかし筑紫倭国はこれで百済を救援する決意を固め、新羅は唐と組んで百済に対抗する方針を固めたようです。

 豊章が筑紫倭国に質として来た653年(孝徳九年、白雉四年)と654年(同じく十年)、山跡は立て続けに「遣唐使」を派遣しました。孝徳九年の使いは学問僧十三人ほど(中臣鎌足の長男定恵も)を含み、総勢二百四十人余の大使節団でした。確かに、山跡も力をつけてきています。しかし「旧唐書」の帝紀にも、また倭国伝あるいは日本国伝にもありません。まだ列島の主権者ではないからでしょう。
また翌孝徳十年の使いも、人数は不明ですが大使節団だったようです。少し書紀を紹介しましょう。
<二月に、大唐に遣わす押使(大使の上位におくという)大錦上高向史玄理(たかむこのふひとげんり)、…(あと八人の名がある)ら、二船に分かれ乗らしむ。留連(つたよ)うこと数月。新羅道をとりて、萊州(らいしゅう。山東半島北岸)に泊まれり。ついに京(長安)に到りて、天子に観え奉(たてまつ)る。ここに東宮監門(皇太子の宮の護衛を司る官)郭丈挙(かくじょうきょ)、悉くに日本国の地里及び国の始めの神の名を問う。みな問いに従いて答えつ。押使高向玄理、大唐に卒(みう)せぬ。…>(孝徳紀十年条(白雉五年)、654年)
この「問いに従いて答えつ」も一つの要因として、前に紹介しましたように「その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以って対えず。故に中国、これを疑う」ことを招いたのでしょうね。書紀が上梓される七十年ほど前なのですが、「いまに見てみろ、筑紫を追い越して見せよう…」との自負は強烈だったようです。
 地理についての、唐側の記録があります。「中国、これを疑う」の直後です。
<またいう、その国の界、東西南北各々数千里あり。西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外はすなわち毛人の国なり、と。>(旧唐書日本国伝)
この日本国が主権者となった後の近畿大和とすると、(大まかにですが)西は大阪湾(または関門快海峡?)で、南は熊野灘(太平洋)で限られていますね。また東は木曽山地や赤石山地で遮られ、北は伊吹山地や飛騨山地で遮られています。だいたい地形として合うのではないでしょうか。その山地の外には…、毛人が住む…と。この「毛人」という言葉は、倭王武の上表文にも出てきました。他の文化圏の人々でしょう。

 同じ年、筑紫倭国も使いしたようです。
<倭国、琥珀・瑪瑙を献ず。>(旧唐書帝紀工送電、654年)
唐の現状を探ることが第一の目的だったのでしょうが、百済への侵略を止めるように依頼することも目的だったのでしょう。

 さて今回はこれまでとし、次回からは"忍び寄る戦いの足音"…を聞いていただきます。