エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

知恵の初めについて

2024-09-09 | メッセージ
箴言1:1-7 
 
聖書の言葉を神からの言葉とするなら、それを無条件に正しいと受け容れるものでしょう。しかし、旧約聖書には、そもそもそのような問いを疑問のように投げかけることが、あるはずがありません。神の存在を問うような発想そのものがありえないのです。どんな言葉で飾ろうと、それを根拠づけることなどできないし、それをする気にもならないのです。
 
これは諭しであり、分別ある言葉です。そこからは、正義・公正・公平がもたらされます。人には遠慮と慎みと知識を与えることでしょう。神からの知恵を与えられた人間は、よい判断ができるようになるし、よい導きが得られるでしょう。よい判断とは、実際の場での判断であると同時に、私たちの判別力にも関わっています。
 
つまり、その言葉がはたして知恵の言葉であるのか、それとも惑わす言葉であるのか、の判別です。これには人間は、その後も失敗を重ねています。歴史上、どれほどの嘘に惑わされてきたことでしょう。嘘を見破ることができずに、悪に加担してきたことでしょう。すべては後から振り返って初めて知るのです。過ぎた後から見て、分かるのです。
 
あるいは、分かったのならまだよかったのかもしれません。いまなお誤りを認識せず、自らを正義と思いこみ、言い張るような者がゴマンといて、デマを拡大している、ということがあるのではないでしょうか。区別できる力を与えたまえ、との祈りを欠かしてはなりません。知恵を求めなければならないのです。
 
そのスタートには何があるでしょうか。箴言は、こんなにもはっきりとそれを伝えています。「主を畏れることは知識の初め」だといいます。人間を誇るのであってはなりません。まず主を畏れよ。主を拝し、主をのみ神とせよ。これを見たということだ。侮るのが、「無知な者」なのです。知恵の大切さは、箴言の要であり、主眼なのであります。




主を畏れることは知識の初め。
無知な者は知恵も諭しも侮る。(箴言1:7)

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