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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

反出生主義者としてのヨブ

2025-06-26 | メッセージ
ヨブ3:1-16 
 
サタンと神との密約によって、ヨブは不条理な苦難を身に受けることになりました。子どもたちと財産を失った上に、さらに掻痒の極致を浴びることになり、自身の絶えられない苦しみを経験します。これを見かねた妻に、「神を呪って死んでしまいなさい」(2:19)とまで言われました。ヨブはそれは愚かなことと言い、抵抗します。
 
しかもヨブは、神からは幸いと共に災いをも受けると宣言します。ヨブの許へ、3人の友が集まります。ヨブの惨状に絶句し、1週間を呆然と過ごします。やがてヨブが、おもむろに口を開きます。そのとき、「自分の生まれた日を呪った」のでした。妻の言ったように、神を呪ったのではありませんでした。呪ったのは「自分の生まれた日」です。
 
もちろん、「日」を呪ったと文字通りに受け取る必要はありません。自分が生まれたという事実を嘆いたのです。いわば、出生についての否定であり、生まれて来なかった方がよかった、という考えに至ったのでした。ヨブ記はここで、文学的にそれをいろいろな表現で用いて表し、レトリックを駆使して巧みに描いています。
 
反出生主義の考え方は、比較的近代になってから明確になってきたものですが、このヨブ記の時代にすでに大きく取り上げられていたことになります。「なぜ、私は胎の中で死ななかったのか」とヨブは問います。「それさえなければ、今頃、私は横たわって憩い/眠って休息を得ていたであろうに」と仮想します。でもそれはずいぶんと奇妙な言い方です。
 
「今頃」という意識を、生まれなかった自分がもつはずがありません。「なぜ、私は葬り去られた死産の子/光を見ない子のようにならなかったのか」とヨブが嘆くところで今回は引用を切りますが、何気ない表現に私は心が留まりました。「光を見ない子」であればよかったものを、というような表現です。もちろん、レトリックであることは分かります。
 
しかし、聖書は後に「光」ということについて、それを神、またイエスのことを象徴するものとして描きます。イエスを見た者は光を見たのであるし、光の子となるのです。生を受けたからには、イエスに出会い、光を知り、光の中を歩むことが、神の心に適うことでした。光を信じることが救いなのです。だのにやはりヨブは、神を呪ったのでしょうか。




なぜ、私は葬り去られた死産の子
光を見ない子のようにならなかったのか。(ヨブ3:16)

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